no,2529 飛鳥の朝廷(その50) | 古代史のページ福さん

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yahooブログからの移動です。日本の起源などに興味があり、神社や遺跡巡りをしています。果たして何歳まで活動できるかは?ですが。

泣くうさぎ泣くうさぎ 「人生」めんどくせ~~ ハイハイニヤリ

★安○・ス○・○田、日本のリ~~ダ~~????三代

彼らに何が足らないのだろうか?嘘つき・もごもご・屁理屈言い

彼らには国民に訴える基本構想・日本をどこに連れて行こうとしているのかの政策、ポリシ~が不足(ではなく皆無)なのが不幸の始り、継続である。まずはアメリカからの独立をいつにするのか?目指すのかがまったく分からない。10年後なのか?50年後なのか?100年後なのかそれだけでも明確にしてほしいものだ。独立国家にならないと何も始まらない。独自外交が不可能だ。私が息をしている間は無いだろう。笑い泣き爆笑笑い泣き

◆任那滅亡

○扶余遷都

百済の聖王(日本流では聖明王)は武寧王の子どもで、諱(いなみ)は明穠(めいじょう)という。王は538年六十年余の都熊津(こむなり)をすてて、百済第三の都市泗沘(しび)に遷都した。

 この年に日本へ仏像・経論を送り、日本に仏教のおこる基を成した。

▲日本では540年欽明が即位し大伴金村・稲目が大臣、大連に、そして新たに物部尾輿が大連になった。

○欽明は難波の祝津宮で諸臣(まえつきみたち)に任那の事を議したが、この時物部尾輿が金村の外交の失敗を弾劾した。そのため金村は失脚した。そして今任那復興のために軍を起こすことの不得策を説いた。

◎大伴狭手彦

欽明23年条によると

大伴連狭手彦は数万の兵を率い「百済の計(たばかり)を用て」高句麗をうち、珍宝・武器・美女をさらって帰りその一部を蘇我稲目にたてまつったという。