「人生」めんどくせ~~
★安○・ス○・○田、日本のリ~~ダ~~????三代
彼らに何が足らないのだろうか?嘘つき・もごもご・屁理屈言い
彼らには国民に訴える基本構想・日本をどこに連れて行こうとしているのかの政策、ポリシ~が不足(ではなく皆無)なのが不幸の始り、継続である。まずはアメリカからの独立をいつにするのか?目指すのかがまったく分からない。10年後なのか?50年後なのか?100年後なのかそれだけでも明確にしてほしいものだ。独立国家にならないと何も始まらない。独自外交が不可能だ。私が息をしている間は無いだろう。
◆任那滅亡
○扶余遷都
百済の聖王(日本流では聖明王)は武寧王の子どもで、諱(いなみ)は明穠(めいじょう)という。王は538年六十年余の都熊津(こむなり)をすてて、百済第三の都市泗沘(しび)に遷都した。
この年に日本へ仏像・経論を送り、日本に仏教のおこる基を成した。
▲日本では540年欽明が即位し大伴金村・稲目が大臣、大連に、そして新たに物部尾輿が大連になった。
○欽明は難波の祝津宮で諸臣(まえつきみたち)に任那の事を議したが、この時物部尾輿が金村の外交の失敗を弾劾した。そのため金村は失脚した。そして今任那復興のために軍を起こすことの不得策を説いた。
◎大伴狭手彦
欽明23年条によると
大伴連狭手彦は数万の兵を率い「百済の計(たばかり)を用て」高句麗をうち、珍宝・武器・美女をさらって帰りその一部を蘇我稲目にたてまつったという。