渡来氏族の謎 (その22) no,1,532 | 古代史のページ福さん

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yahooブログからの移動です。日本の起源などに興味があり、神社や遺跡巡りをしています。果たして何歳まで活動できるかは?ですが。

😆 転んだ日記 (131) 💚

「 お~~い 田吾作どん 錦織選手も罹ったずら~~ 」

「 そうずら~~ 今やどんだけ注意しても 手に負えないずら~~」

「 そうみたいだっぺ 」

「 するといつかは 罹る運命か 軽く罹ってほしいものだ 」

「 行いを正しくするだっぺ ??? 」

※ 大伴氏と 蘇我氏の存在

◆東漢氏が最初に連携したのが軍事伴造であった大伴氏

この氏は6世紀前半には大連として物部・蘇我氏と共に

中央政界を主導する職位にあった。

大連・大臣はカバネにちなむ通称であり「オオマエツキミ」

が正式な職名である。

○「紀」「万葉集」によれば大伴氏の大和における拠点は

高市郡の「築坂(つきさか)邑」や「来目(くめ)邑」十市郡の

「百済」や「「竹田庄」城上郡の「踏見庄」にあったとみられる。

◆雄略二十三年(479)八月条と清寧即位前紀には、星川皇子の

反乱に関する記事を掲げ、雄略がその死に際して大連の

大伴守屋と東漢直掬(つか)に星川皇子の即位を阻み

白髪皇子(清寧)の即位を実現するように遺詔(いしょう)

を下し、天皇の死後星川皇子が反乱を起こすと、守屋と掬は

遺詔を守って、白髪皇子に仕え星川皇子を殺害したと記されている。