世界で見つけた日本人偉人列伝①
中沢ブラジル宮城県人会会長
中沢会長は優しい人だ。
少しの宮城なまりと少しのポルトガル語なまりが混ざったとても優しい話し方をする。
僕が、今回の世界一周でお世話になった宿の1番初め。
記憶にも残りやすいが、それ以上に中沢会長は偉大だった。
ここで、少し会長を紹介したい。
(少しといっても歴史がある方なので長くなるとは思うが覚悟されよまた、僕は愛称として会長と呼んでいたため文中も会長と表記する)
中沢会長はただいま71歳。
1963年に19歳の時に宮城県気仙沼からサンパウロへ農業を志し移住をした。
当時、船で日本からブラジルのサントス港までの船旅45日。
今は30時間もあれば来れてしまうブラジルに1ヶ月半かけて到達した。
そこで、失敗を繰り返しながらも持ち前の馬力と快活さで億万長者となる。
その後、ブラジル宮城県人会会長、日本県人会連盟会長などを歴任し、日本文化祭りを海外で最大規模まで大きくし、またサンパウロを始めとしブラジルの広範囲に七夕祭りを広める。
更には、1990年代サンパウロ州でも最大となるサッカー練習総合施設を作り、日本から多くの青少年を受け入れ日本のサッカー文化にも尽力している。
以下、上記のように書いていくとだらだらと長文になってしまうので、下記に分かりやすいようにまとめてみた。
Q1.なぜブラジルに移住したのか?
A1.気仙沼市唐桑町で漁師の子供として生まれたが子供の頃から山が好きだった。
15歳高校生の時に農業を志す
ブラジルには大規模な農地と多くのチャンスがあると思い19歳でブラジルに渡る。
なぜ農業を志したかと言われれば「血の中にあった」
Q2.兄弟はいるか?
A2.9人兄弟の8番目で3男。
Q3.当時の時代背景
A3.第二次世界大戦以前からの移民政策によりブラジルにはコチアという地域で農業組合を作っていた。
そして、会長のような単独移民はそこが受け入れた。当時、戦後移民政策が1953年から始まっており会長が移住した1963年は末期にあたる。
1964年に東京オリンピックがあったため、内需が増え日本国内には仕事が増えていたため移民政策は最後を迎えていた。
Q.具体的にどのようにブラジルで農業を進めて行ったのか?
A.現地に到着しコチア農業組合の一員として半年間研修した ▶︎しかし自分に合ってないということで半年で辞める
仕事を無くした会長だったが組合からバラ園を紹介される ▶︎同じく半年で嫌になり辞める、しかしポルトガル語をマスターする
サンパウロの南にあるパラナ州に行きドイツ人から土地を借りてバラを作り出す ▶︎これまた半年でだめになる
さらに南へ仕事をしながら半年間旅をする。
旅を終えてサンパウロに帰ってくる。
そこで、頭下げてバラ栽培に戻る ▶︎しかし半年で嫌になる(会長の若い頃は6ヶ月が周期だった!)
合計1年間のバラ園の経験から、バラの専門家になったつもりで日本人パトロンを見つけてバラ園を始める(はったりか上等精神)
まずは歩合制で始める。
その後、そのパトロンの娘と結婚をする
Q.成功した理由
A.当時はハウス栽培など無く、冬の市場はバラが少なかった
会長は思った。そこでバラが咲けば儲かる!
たとえ品質は劣っても冬に咲くバラを世界中から集めて栽培した ▶︎これが成功する
60、70年代のサンパウロの冬は霜が降るほど冷え込んだため冬のバラはとても少なかったが、会長のバラ園だけは大丈夫だった。
品種が冷えに強かったという幸運にも恵まれた。
それにより、ブラジルの10年間ででとんでもない金持ちになった。(人がしないことをすることで成功した)
さらに、80年代でミニバラが誕生した。
ミニバラはヨーロッパから品種が入って来ていたがブラジルではあまり流通していなかった
当時のブラジルではバラの長さが最低30cmないと商品にならなかった
しかし、会長は15cmのミニバラ作って市場に出す(その小ささは世界で初めてだった!)
ブラジルではこれが大ウケでプーケにしたり花かごにしたりして、花屋が使いだして生産が追いつかないくらいの5年間を過ごした
(誰もが成功しないと思ったことを試したら大成功した)
Q.どれくらい成功したのか?
土地は7カ所(サッカー場50個分)、家はサンパウロに3軒建てた。
土地が余ったので、バラばかりではなく果物・野菜を作って売った
Q.サッカーへの寄与
1993年にサンパウロ郊外に中沢教育スポーツセンターを作る。
そこは、サッカー場を2面、250人が泊まれる宿舎などサッカーに必要なものをすべてそろえた施設
個人で作ったものとしては当時ブラジルで最大の規模であった
また、日本に対しての新しいことしようと始めたサッカー留学制度
これは、スポーツをする高校生が集団で1年間留学し、高校の卒業単位を取れるよう制度を整備した。
数々の高校サッカー部がブラジルに来て、1995年日伯通商公開条約100周年の時に東福岡、浦和高校、東北高校などが来て現地の高校と大会を行っ た(僕が宮城県人会にお世話になっている時に東福岡高校サッカー部の監督も同じく県人会を訪れていた)
これらはは個人のサッカー留学を合わせると総勢800人にも上る
Q.なぜそのような大掛かりの施設を私費を投じて作ったのか
日本人選手がブラジルに来た時に一つの拠点を作ってあげたかった。
サッカー選手としてブラジルに来ると三浦和良のように順調に行けば良いが多くの選手はケガなどに悩まされて同時に心も荒んでいってしまう。
特にスポーツはやっていく中で挫折を感じることが多いから救いとなるHOMEとなる場所を作ってあげたかった。
(今では想像もつかないような厳しい環境で選手たちはサッカーをしていた)
サッカー選手として挫折しあきらめると、ギャングのように荒んで行ってしまうことも危惧されたため青少年の育成の場としてもブラジルに住んでい る先輩として手助けしたかった
Q.宮城県人会について
今年で創立61年で宮城県人会館は9年経つ
39歳で会長となり8年間会長として活動する
上記のスポーツセンター建設で一度職を離れる
51歳から再度会長
第一期の時に土地を買い第二期でビルを建てる(合計3億円!)
香川県、愛知等に並ぶ大きさの建物である
実際、W杯期間中に施設を貸し出したのは宮城県人会だけで、実に最大60人のサポーター用宿泊施設を用意した
Q.日本ではブラジルとのハーフ芸能人ダレノガレ明美が人気だが、ブラジルでの日系社会についてどう思うか?
A.1世(日本から来た人たち)が高齢化により減少し、2世・3世(その子供や孫)が増えたため日本語が話せない日系人が多くなってしまい残念だが 仕方の内部分がある。
または現在ではその2世・3世が日本に出稼ぎに行ってしまい日系社会の空洞化が進んでいる
ブラジルでの日系人は上流の階級が多く、超一流の人が多い(会長を越えるような成功をした人も数多くいるようだ)
Q.県人会の将来についてはどう思いますか?
37年前から七夕祭りをやっていて、サンパウロ以外でもブラジルの広範囲で七夕祭りを行っている
そのように、日本語は話せなくても日本文化を通じて日本社会を残して行きたい
宮城県人会の中に入ると日本国内以上に日本が凝縮している。
七夕の大きな飾りや、日本食や調味料の数々、楽天イーグルスや伊達焼きのポスター。
そんな「日本」を求めて、毎日のように日本人の旅人が羽を休めにやってくる。
僕は宮城県人ではなく岐阜県人だが、今回は宮城県人に憧れたものだ。
それほど、宮城県人の方々のつながりや優しさは素敵だった。
東北の震災においても、多額の寄付をされている。
サンパウロに行く機会があれば、宮城県人会ならびに自分の出身地の県人会を訪ねるといい。
そこには50年前からタイムスリップしたような日本があり、また海外で活躍している方々の面影を垣間見ることが出来る。
そこには国外から見た日本の良さや、全く違った目線での意見が溢れている。
常識を壊しにサンパウロに来るのはいかがだろう?
うん、もちろん僕は大好物だ。
会長は寝顔も可愛いのだ

