1題目 「アメーバ」
「寄生アメーバというのを知っているかい」
私は奈津美くんに言った。彼女が口に運ぼうとしていたコーヒーカップの動きが一瞬止まった。
「はい、それはもちろん」
「どういうものか、知っているかい」
私が重ねて聞くと、彼女はコーヒーを一口啜ると、カップを机の上に置いた。
「ええ、人や動物の消化器官等に寄生して、髄膜炎などの原因になる場合もあるという・・・・・・」 彼女の目が少し細くなった。 「それがどうかしたのですか」
「まあ、我々にとっては直接関係ないような事柄ではあるがね」 私は微笑みつつ言った。
「よかったです」 彼女はもう一度コーヒーカップに手を伸ばした。 「社会学のマスターコースで学ばなければいけなかった事項なのかと思って、驚きました」
「はは・・・・・・まさか」 私は少し冗談めかして笑いつつ、椅子に腰掛けた。 「ただ、関係ないと言い切れるものではないかもしれない、というだけだね」
「え、それはどういう意味ですか」 彼女は眉をひそめた。
「社会学というのは、社会という『人の集合体』を読み取るものだ。つまり、人間一人一人の考え方、動き方が非常に大切だ」 研究室の外に漏れないよう、声のヴォリュームを落とした。
「ええ」 彼女は眼鏡のポジションを中指で修正し、真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。
「もし、そう、万が一、だ」 私は側頭部を人差し指で二掻きした。 「人の思考までもコントロールすることのできるアメーバがいたとしたら、どうだ」
「・・・・・・はあ?」 奈津美くんの目が大きく見開かれた。一瞬の間を置いて、彼女は大きく息を吐き出し、顔を下げ、額に右手をやった。
「髄膜炎を起こすことからも分かるように、アメーバは人の脳までをも生息の場とすることができる。人の思考は所詮電気信号であり、それを操れる能力があるアメーバがいてもおかしくはないだろう?」 私は奈津美くんの真剣度ががっくりと下がってしまったことを分かりながらも、言葉を止めないことにした。 「加えて、アメーバというのは生息条件さえ整えば寿命は青天井だ、だから・・・・・・」
「先生」 彼女が私の言葉を遮って、強い調子で割り込んで来た。 「いくらなんでも、荒唐無稽すぎます」
「そうかな」
「そうです」 彼女はため息を一つついて、立ち上がった。 「SFじゃないんですから」
「うん、まあ、確かにそうかな」 ちょっと冗談めかして私は言った。 「でも、有り得ないとも限らない」
「冗談なんでしょう?」 彼女は少し表情を緩め、横の資料棚から二、三冊子を取り出し、自分のデスクに広げた。
「いや、本当に分からないよ。私たちの思想なんてものは実に些細なことがきっかけで作られている。そして、それが重なることで世論が出来、そして社会の意向として形作られていく。例えば・・・・・・続き、話してもいいかい?」 自分の仕事に戻ろうとしていた彼女に、お伺いを立てた。 「作業の邪魔かな?」
「・・・・・・そんなことないですよ」 奈津美くんは広げた資料を畳み、もう一度私のほうに向かいなおした。 「聞かせていただきましょう」
「そうだな、例えばペットに関する社会問題なんてどうだろう。動物愛護の側に立つ者と、邪魔になるような動物まで保護する必要はないと説くものがいる。表面的には論理的な理由を挙げているが、その動機というのはもっと細かなものだ。子供の頃に近所に大きな犬がいてよく吠えられたとか、猫に引っかかれたとか、そういう小さなことが、本人が気づかなくとも思想の根底を形作っていることがある。そういうことを、大人になってしまった人間は外に出すのを躊躇う。小さなコンプレックスは、往々にして心の奥底に押し込められてしまうものだ」
「ええ」
「さて、そこでだ。アメーバが人の支配までは出来ない、という理由は、あくまでアメーバ自身にそこまでの力はない、ということからだ。しかし、人の小さなコンプレックスを植え付ける、若しくは彼ら自身がそういうコンプレックスのもととなるホルモンや信号を出すことができるようになっていたとすれば」
「ちょっと待ってください」 ここで奈津美くんが私の言葉を遮った。「もしそんなことをアメーバができるとしても、それをして彼らに何のメリットがあるというのですか。それとも彼らが高度な思考力を有しているとでも」
「自分たちの暮らしやすい世の中、を求めているのではないかな」 私は即座に答えた。 「そういったコンプレックスを植え付けられた人間が増えれば、多数の論理でそれが強者となるのが社会というものだ。生物が自分たちに有利な生息場所を求めるのは当然だろう。彼らにそれだけの思考力などなくても、一つの思想の統一が成され、それが集団となれば、安全性は確かに増す。それは生物の本能としては最も原始的なものだろう」
「・・・・・・成程」 奈津美くんは下を向いて顎に手をやった。少し考えてから、口の端を上げてボソッとつぶやいた。 「・・・・・・でも、もし本当にそうだとしたら、私たちにはどうしようもないですね」
「ん、まあ、そうだね」 私は簡単に答えた。
「さて・・・・・・もう、いいですか? 一応、まだ作業もあるので」 どうやら奈津美くんは本気にしなかったようだ。無理もない。
「ああ、時間を取らせて悪かった」 そこで私はふと、昼間のことを思い出し、奈津美くんに声をかけた。 「そういえば奈津美くん、結婚するって本当かい?」
「・・・・・・はい?」 奈津美くんは私がアメーバ話を切り出したときより、何倍も大きな驚きを顔に浮かべた。 「な、何ですかそれ?」
「いや、昼間中庭にいた生徒が噂していたから」 私は正直にそう返した。 「高橋くんと結婚するんじゃないか、って」
「・・・・・・そんなわけないじゃないですか」 奈津美くんは深くため息をつく。 「高橋くんはただ高校時代の部の後輩というだけで、そんな関係ではありません」
「そう」
「そもそも、彼が私のような不細工眼鏡を相手にするわけがありません。彼にはちゃんと私よりもずっと綺麗な彼女がいますから」 奈津美くんは不機嫌そうにそう言い放ち、また自分の作業に戻った。
「・・・・・・そうか、すまん」 素直に奈津美くんに謝ると、私もまた作業に取り掛かることとした。
無言の時間が続く。奈津美くんは昔から、怒り出すとそれが長い。私はその空気に耐えられず、少し席を外す事にした。
「奈津美くん、少し食事をしてくるよ」 私はそう言って席を立ち、研究室の扉を開けた。 「出るときはカギをかけて出てくれ」
「分かりました」 まだ機嫌が悪いようだ。こういうときは離れておくに限る。
研究室は二階廊下の端にあり、隣が階段になっている。私は地下にある食堂へと足を伸ばすことにし、下り階段に足をかけた。
「あ、先生!」 研究室から奈津美くんの声が響いた。「この資料ですけど・・・・・・」
「何?」 私は研究室のほうに体を向けた。
その瞬間、階段にかけていた右足が滑った事を自覚した。水でも撒かれていたのだろうか、少しの重心移動で足のグリップを失ってしまった。
くるっと体が反転し、天井が視界に映る。そのまま私は階段に背中を打ち付け、落下した。背骨に鋭い痛みが断続的に走る。何度か背骨のダメージを自覚した。数秒間その痛みに耐えた。しかし、最後の段を滑り終えたあと、後頭部に鋭い痛みを覚えた。どうやら床に直撃したらしい。サスペンスドラマで良く見る落ち方を再現してしまったようだ。
「きゃああ、先生っ!」 奈津美くんの叫び声に続いて、階段を降りるような音が聞こえる。 「先生、大丈夫ですか、先生!」
「奈津美くん」 後頭部からの出血をしているようだ。私はこの体がもう長くないことを自覚する。 今、やらねばならない。 「奈津美くん、聞こえるか」
「はい! 聞こえます!」 慌てた様子で奈津美くんが返した。
「好きだった」
「は、はい!?」
「君のことが好きだった」 私は視点がだんだんとぼやけて行くことに気づきながら、そう言う。ちゃんと言えていたかは分からない。 「最後にお願いがある」
「な、何ですか?!」 奈津美くんの悲痛な声が響く。
「最後に、一度だけキスをしてほしい」 私はそれだけでいい、それだけでいいのだから。 「お願いだ」
「わ、分かりました」 躊躇いがちに奈津美くんの顔が私に近づいてきた。
私の唇に奈津美くんの唇が重なる。ほとんど唇を合わせるだけのキスだった。触覚も怪しくなっていた私は、いつ触れたのか分からないくらいである。
「ありがとう」 私はそう言ったつもりである。 「これで・・・・・・」と言いかけて、私の言葉はそこで途切れる。
「先生! 先生っ!」
「しっかりしてください、先生!」
「で、電話、電話・・・・・・電話しなくちゃ・・・・・・」
“私”は研究室へと駆け出す。
