オーストリアという国とは思い出せば幼い頃から縁があったように思います。両親はモーツァルトやシューベルトの音楽が大好きで、家には西洋の音楽が流れ、西洋文化に関する本が溢れていました。
お金のないこのカップルは結婚資金をすべてピアノの購入に使ってしまい、呆れた友だちが結婚式をオーガナイズし、必要な家具をプレゼントしてくれました。
幼少時代と10代をピアノ一筋で過ごした私は一度だけピアノの夏期講習のためオーストリアへ来たことがあります。お金のない両親があちこちから資金を調達して一人娘を送り出してくれました。はじめてのウィーンはそれ以後、私の思い出の地となりました。ちなみに14歳の誕生日はウィーンで迎えました。でもそれ以降、私がこの国と関わることはありませんでした。
経済的な理由でピアノの道を諦め、しばらく辛い青春期を送りましたが、トーマス・マンの「ベニスに死す」を読んでドイツ語に目覚め、以降ドイツ語に没頭しました。でも趣味の粋を出ず、将来の展望が見えない状況にあるなかで遅ればせながら本土の大学へ行くことを決意しました。
2004年秋にドイツ語検定試験を受けるため、本番まえのリハーサルのつもりで大学のドイツ語圏へ派遣する留学生の選抜テストを受けました。私が選ばれるなど夢にも思っていず、ましてや留学など予定もしていなかったので、合格者の発表を確認することもありませんでした。ところが職員の方に大学構内で呼びとめられ、私がウィーン大学への交換留学生に選ばれたことを知らされたのでした。
実はテストを受ける際に希望先を選択する必要があったのですが、学費が無料であるというただそれだけの理由で私はドイツのミュンスター大学を選びました。ところが蓋を開けてみたら私はウィーンへ送られることになったのです。
ちなみにドイツ語検定には落ちました。
その頃は精神的にとても辛い状況にあった私は毎日なんだか地獄のなかを彷徨っているような心境でした。終わってしまった恋を忘れなれなくて、にほんを離れる気にもなれませんでしたが、でも強くならなくちゃという思いで留学を決めました。
2005年冬から2007年春までウィーン大学で2年間、主にオーストリア史、演劇史、美術史を学びました。1年の留学のつもりが2年になってしまったのは、にほんの私立大学に掛かる経済的な負担を減らすためもありましたが、今の主人との出逢いも留学を延ばす動機になりました。
にほんの大学を卒業すべく2007年春に一旦にほんへ。
ウィーンで学んだことの集大成を卒論に仕上げ、卒論の出版という幸運にも恵まれてめでたく大学を卒業。
さてその後。
ウィーンに婚約者がいながらなかなかウィーン行きをためらっていました。沖縄の両親のことも気懸かりでした。でもにほんという国で生きることの難しさを痛感して、自分の将来のために再度ウィーンへ行くことを決めました。
でも今回は移住で、前回の渡墺とはかなり違う事情でした。
はじめての留学にはまた帰れるという逃げ道があって、観光客気分で自由がありましたが、移住となるとそうはいきません。
二度目の渡墺ではとてもアンビバレントな心境でした。
結婚を躊躇し、彼を悲しませてしまいました。その年の冬はとても暗くて悲しかった。
でも年が明けて、私の心もウィーンの四季を反映するように晴れていきました。気がつけばウィーンで再スタートを切って2年になろうとしています。
2年まえの7月30日に私は沖縄を発ってウィーンへ飛び立ちました。その日は私の誕生日でした。この国との不思議な縁を感じます。
今の私はウィーンで生きるという状況を受け入れ、ここでの暮らしにもだいぶ溶け込んだ気がします。あんなに悩んだ日々をこうして回顧できるようになって、私も少し成長できたかしら。今は変化を楽しむ余裕ができたように思います。
以上、ウィーンでの再スタートから2年目を迎える心境を綴ってみました。長文でしたがここまで読んでくださってどうもありがとう。
Vielen herzlichen Dank !
Blumenschloß

