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その時は意識していなかったのだけど多分私の「武蔵野」初体験は幼稚園の時。園は目白の愛心幼稚園というところで今もある。で、遠足で行った川越の芋掘り。川越の芋(サツマイモ)ってそこそこ有名なんだけど実際に栽培されているのは川越の市街地よりも南側、三芳町の上富、所沢市の中富・下富から成る三富(さんとめ)地区。
川越がサツマイモで知られるようになった経緯。
多摩川(因みに立川断層の隆起以前は現在の荒川の場所を流れていた)によって形成された扇状地である武蔵野台地。川が運んで堆積した砂や礫の上に富士山や箱根の山々が噴火し舞い降りた、赤い土の火山灰が分厚く積もったローム層。乏水地帯の原野だった。
故に多摩川や荒川沿いの地域以外は容易に田を作り米を収穫出来るような環境ではなかった。中世までは「秣場(マグサ場)」つまり牛馬の飼料や田畑の肥料、あるいは茅葺屋根の茅場としての入会地でもあった。どこまでも続く芒や荻の原野だった武蔵野も近世になって新田開発が進む。といっても水利がよろしくないので水田では無く畑。畑作新田。
元禄年間になって幕府の裁定で川越藩の領地と認められた、それまで採草地だった三富地区にも開拓農民が入植し新田開発が推進される。契機は寛永四年、上総国志井津村からサツマイモの種芋がもたらされ、以降同地で盛んに生産されるようになる。
三富地区やその周辺で栽培されたサツマイモは大量に江戸に運ばれた。川越と大消費地・江戸とは既に新河岸川水運で結ばれていて、重くてかさばるサツマイモは陸路よりも船で運ぶのに適していた。甘い食べ物が贅沢品であった当時、庶民の間で大ヒット。程無くして「川越いも」はブランドとなる。
現代。武蔵野台地といえば雑木林のイメージなのだが、それは江戸の頃の開拓農民の努力のおかげだ。


(上富地区の雑木林にて:写真二枚とも)
彼等は芒の原野を開拓し、堆肥の原料を得るため或いは屋敷林として雑木林を育てた。独歩が感銘を受けた「林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処…」の情景は彼等開拓農民が築き上げたのだ。
近年、三富ではほうれん草などの葉物野菜が多く育てられるようにはなったが、通称『いも街道』なる道があり、沿道には今もサツマイモ農家が点在する。私が幼稚園の頃に芋掘りに来たのもこのあたり。

(いも街道)
