【日 時】2026年10月17日(土)13時~17時
【会 場】市内某所

【発表者】渡部  純

【参考文献】高橋哲哉『戦後責任論』(講談社)

                           加藤典洋『敗戦後論』(筑摩書房)

      「群像」2026年9月号(新潮社)

        大澤真幸『我々の死者と未来の他者』(インターナショナル新書)

        國分功一郎『天皇への敗北』(新潮新書)

 

※今回は本格的な勉強会になりますので、各位必ず事前に「歴史主体論争」に関する情報を各自でご確認の上でご参加下さい。

【参加申込】参加希望の方へは会場を直接メールでお知らせしますので、ご氏名・連絡先のメルアドをご記入の上でメッセージをお送り下さい。
【会場費】なし
※懇親会がある場合は参加希望の方にメールでお知らせします。
【開催趣旨】

【「歴史主体論争」30年】
 戦後80年を前後して加藤典洋氏の「敗戦後論」が、新聞メディアをはじめとして再評価され始めています。同書をめぐっては、1995年に高橋哲哉氏との間で交わされた「歴史主体論争」のもとで様々な評価と批判に晒されたが、30年の時を経た今、何が評価され始めているのか。
 この論争の最大の焦点は、加藤氏が敗戦によって「人格分裂」に陥ってしまった戦後日本が「アジアの死者」に謝罪するためには、先に「自国の死者」を弔うことで「われわれ日本人」を立ち上げなければならないと論じたことに対して、高橋氏が「アジアの死者」との関わり抜きに「戦後日本」を規定すべきではなく、「自国の死者」への「感謝」によってのみ「われわれ日本人」が立ち上がるとすれば、「戦後日本人」には侵略戦争や植民地支配の記憶も責任も欠如することになると反論したことにあります。
 その当時、両者の論に対しては左右さまざまな批判が加えられてきましたが、この8月に出版された「群像」2026年9月号に、加藤による英文の未発表論文がエリス直美の邦訳で掲載されたことで、彼自身が論争についてその後どのように考えていたのかを探る新たな展開が生まれました。

 そこで、今回のカフェロゴは本格的な勉強会という形式で、あらためて「歴史主体論争」の今日的意味を探る機会としたいと思います。今回は長時間の本格的な勉強会スタイルになりますので、各位ご準備の上でご参加ください。

『震災後を生きる13人 フクシマ、能登、』を著者と読む会
【ゲスト】藍原寛子さん
【課題図書】『震災後を生きる13人 フクシマ、能登、』(婦人之友社)※各自でご購入下さい
【日 時】2026年9月5日(土)※17時~19時
【会 場】本と喫茶コトウ
【記 録】⏰土曜日 2026.09.05 · 145mins

◎AI要約

 本会合は、フリーランスジャーナリストの藍原寛子さんが自著『震災後を生きる13人 フクシマ、能登、』の内容と執筆背景を参加者に紹介し、その後、参加者全員で福島原発事故の記憶・記録・伝承、地域メディアの役割、対話の場の喪失、熊本地震被災地の現状などについて幅広く意見交換した読書・トーク会である。著者自身の取材哲学や登場人物との関わりが詳述されるとともに、地元紙の報道姿勢、情報隠蔽の問題、被曝訴訟、そして「あきれ果ててもあきらめない」という合言葉に象徴される継続的な抵抗の意義が議論された。

 

1.著者の自己紹介と民友記者時代の経歴‎

 藍原が本の紹介に先立ち自己紹介を行った。福島市出身で、福島民友新聞の記者を約20年務めた後に独立したフリーランスジャーナリストであり、県内では珍しい業態だと税理士に言われたと述べた。いわき支社在籍時には、2000年問題に備えた原発現地待機、JCO臨界事故取材、オウム真理教関連施設の張り込み、廃坑への廃油不法投棄問題の取材など多様な経験を積んだ。また、地元新聞社在職中に米国留学中にハリケーン・カトリーナ、リタ、ウィルマという現在でも米東海岸でトップ5に数えられる大型ハリケーン3件を体験し、災害時に何が必要かを身をもって学んだと述べた。いわき民報記者だった大越章子氏とは取材を共にしており、本書にも登場すると紹介した。

 

2. 本の執筆意図・読後感・高村薫との対談‎

 藍原は、『婦人之友』連載を土台に現在まで肉付けして一冊にまとめた経緯を説明した。全体構成において「後世に何を伝えるか」という俯瞰的な視点を一本の軸として持つことを重視し、読後感として読者が「自分にも伝えなければならないことがある」と気づけるような本を目指したと述べた。また、福島の人々が原発事故関連の本に感じる緊張感を和らげることも意識したと語った。連載終盤に行った高村薫との約2時間の対談では、高村が東日本大震災後に浜通りを歩いた経験を経て作風が変化し、『空海』や『土の記』を執筆したこと、また「福島で起きたことをいかにして私たちの物語にできるか、そういう物語を語れる政治を持てるかどうか」という問いを提示したことが紹介された。藍原はこの問いが、対談時の2016年時点でも未解決であり、現在も継続していると述べた。高村は1992〜93年頃にイスラエルの原発上部へのミサイル攻撃問題を知ったことを契機に原発テロを題材とした小説『神の火』を執筆しており、その問題意識が311後の思索につながっていると説明された。

 

3. 登場人物の紹介①:フォーラム福島の阿部泰宏氏、歌人の三原由起子氏‎

 藍原は本書の登場人物を順に紹介した。フォーラム福島の阿部氏については、震災直後に防護マスクをつけた観客が映画を見ていた場面を自然に受け入れていた客席の様子に衝撃を受けたエピソード、飯舘村や小高への案内、若松丈太郎氏との深い交流、ヴィム・ヴェンダース監督来訪時の上映会(話者 3が写真に写っていた可能性が浮上)などが語られた。また、震災前に大型シネコン進出に対抗してフォーラムを守る多くの亜飛民による署名運動が起きた経緯も紹介され、フォーラムが福島の自由な言論空間として果たしてきた役割が強調された。

 歌人・三原由起子氏については、浪江中学校の体育館裏で先輩にいじめられた経験と、それを知った教師が文章表現の才能を見出したことが歌人としての出発点になったと紹介された。現在は「浪江を語ろう!」という活動を自ら主宰していると述べた。

 

4. 登場人物の紹介②:志賀勝昭氏・水戸喜世子氏・大越明子氏・前田邦輝氏‎

 元漁師の志賀氏は、原発の危険性を周囲の漁師に訴えたことで村八分にされ、「船が転覆しても助けに行かない」と言われた絶体絶命の状況の中で、ひたすら自らを耕し学び続けたと紹介された。現在は「鈴木安蔵を讃える会」の代表を務めている。

 大阪の水戸氏は核・放射線物理学者の夫と双子の息子を山岳遭難で失った後も救援活動を続け、取材時点で92歳であると紹介された。大越章子氏については、シャーウッド・アンダーソンの「語られることのない物語を語ること」という言葉を取材哲学の核心に置き、「悩んだら人のところに行け」と藍原に言い続けていると紹介された。日々の新聞のデザインはニューヨーク・タイムズを参考にしており、「日々の」という名称は日比野克彦氏の個展をきっかけに名付けられたと説明された。前田邦輝氏(2年前に逝去)は石川町の元小学校教師で、国産原爆のウラン採掘跡を手書き地図で案内してくれた人物として紹介された。取材時80歳超だったが、現場に立つと15〜16歳当時の記憶が鮮明によみがえったと述べた。

 

5.若松丈太郎氏へのインタビューと継承の危機‎

 藍原は2020年に若松丈太郎氏を訪ねた際、すでに病が進行している状態だったが、若松氏はそれを一切口にせずにインタビューに応じ、翌年の4月に逝去したと述べた。若松氏は福島第一原発が山を大きく削った切り通しの低地に建設されたことの危険性を早くから指摘しており、高台に建設していれば全電源喪失は起きなかったと主張していたと紹介。藍原が賞や評価についての感想を尋ねると、若松氏は「ただ好きなことを書いてきただけ」ときっぱり述べたと語った。参加者Aは若松氏の言葉を「現代思想」へ寄稿した「第二の敗戦と教育の危機」の冒頭に引用したと述べながら、同書にある「これは敗戦ではなく開戦だ」という若松氏の卓見に驚いたと語った。参加者Bも、その言葉が最も印象に残ったと述べた。藍原は若松氏と前田氏の逝去により、太平洋戦争と原発事故の両方を体験した語り手が失われつつあることを「今が踏ん張り時」と表現した。

 

6.神田香織氏・「あきれ果てても諦めない」の言葉‎

 神田香織氏については、原発事故後のスピーチで「あきれ果ててもあきらめない」という言葉を発信したことが紹介された。この言葉はその後チラシや書籍など各所で引用され、子ども脱被曝裁判の関係者にも使われていると述べた。話者 5がこの言葉を「素晴らしい」と評価した。また、子ども脱被曝裁判については、井戸弁護士が関わり、内部被曝・被曝しない権利を争点とした科学的な裁判であり、国際的な論文が原告側資料として多数提出されていると説明された。

 

7. 熊本地震被災地訪問の報告‎

 藍原は2024年8月8日〜12日に熊本の被災地を訪問した報告を行った。鏡町コミュニティセンターなどの避難所では、朝昼晩同じ食事(ヤマザキのフランクフルトパン・アンパン、日清カップヌードル小、塩飴、青汁、ペットボトル1本)が2〜3週間続き、炊き出しが届いていない状況だったと述べた。断水が続く中での酷暑、食中毒リスクによる生鮮食品・切り分けた果物の受け入れ拒否、「ロールケーキ問題」(人数分ない支援物資の受け入れ拒否)など、311以来改善されていない課題が繰り返されていると指摘した。バナナの差し入れは1本ずつ配布する形で受け入れられ、喜ばれたと述べた。5日間の滞在中にフェーズが変わり、水が出始めると洗濯用品・ハンガー・洗濯バサミが必要になるなど、必要物資が急速に変化したことも報告した。夏の災害への備えが制度的に想定されていないことへの懸念を示した。

 

8. 参加者との意見交換①:読後感・若松氏の「開戦」・対話の場の喪失‎

 参加者Aは、本書の登場人物のほとんどと面識があり、その人の知らなかったピースが埋まる読後感があったと述べた。若松氏については阿部氏に連れられて一度会い、もっと詳しくいろいろなことを聞いておけばよかったと語った。参加者Cは、住宅の他者への開放や生の対話の場が失われていること、SNSやYouTubeが実質的な対話を代替できていないこと、原子力委員会副委員長代理へのインタビューなど独自の聞き取り活動を続けていることを述べた。また、311の問題が訪れた名古屋では全く共有されていないと感じたと述べた。藍原は「人間かまくら」という比喩を用い、大切なものを守るために少数が集まり続けることの意義を述べた。

 

9.参加者との意見交換②:日々の新聞・地域メディアの役割‎

 参加者Dは、記者の大越章子氏と発行人・記者の安竜昌弘の2人で隔週発行を続けるいわき市の『日々の新聞』(約500号)を紹介し、購読・支援を呼びかけた。同紙は樋口裁判官のロングインタビューやイスラエル出身のダニー氏のインタビューなども掲載しており、反原発・反安倍・反高市の立場を明確にしていると述べた。いわきFCとともに「日々の新聞」をいわきの誇りとして挙げ、地域に根差した新しいお祭りや開かれたコミュニティの重要性を述べた。藍原はアンダーソンの「語られることのない物語を語る」という言葉が大越氏の取材哲学の核心にあると紹介した。参加者Eは「悩んだら人に会いに行く」という言葉に共感を示し、本書が子どもたちにとって原発事故を語るきっかけになると述べた。本書が岩手県教育委員会の「いわ100」(いわての中高生のためのおすすめ図書100選)の震災関連の1冊に選ばれたことも紹介された。

 

10. 参加者との意見交換③:インタビュー手法・カタカナ「フクシマ」への批判‎

 参加者Eは映像インタビューとの違いとして、藍原が空気感・雰囲気・背景をどのように言葉に置き換えているかに興味があると述べた。藍原は、思い込みを排しつつ自分にしか捉えられないものを意識して書くこと、対象者の文章と本人の様子に違和感がないよう現地を共に歩くことを心がけていると述べた。質問は大きく設定し、相手の捉え方も答えの一つとして受け取ると説明した。参加者Fが「インタビューでは意地悪な質問をするか」と尋ねると、藍原は「知りたいことは一応聞く」が「答えを拘束するような質問はしない」と答えた。参加者Eはカメラを止めないことを鉄則とし、「今日は終わりです」と言った後に本音が出ることが多いと述べた。カタカナ「フクシマ」への批判については、藍原が本文中に理由を明記しており、広島・長崎と同様に世界的な問題として示すための表記であると改めて説明した。ネット上の匿名批判は予想済みであり、「本を読んでから書いてほしい」と述べた。

 

11. 参加者との意見交換④:地元紙の報道姿勢・情報隠蔽・廃炉問題‎

 藍原は地元新聞社退職後も原発への批判的報道を求め続けているが、元上司から「そんな質問はするな」と言われた経験や、脱原発意見広告(200万円の1面広告)の掲載を同社が断った経緯を明かした。同社社員の中には米沢や栃木に家族を避難させながら通勤した記者がおり、避難した男性記者が処分・退職した事例もあったと述べた。参加者Fは地元新聞社の論説委員が「社是として脱原発を主張することはない」とはっきり述べた事例を紹介した。参加者Gは、国際的な科学者調査団が福島で調査結果を発表した際も言葉を選んで無難な表現にとどめていたと述べた。参加者Hは廃炉法が存在しないため東電が「やりたい放題」になっていること、原発事故の真の原因が解明・公表されないまま廃止措置が進んでいることを指摘した。東京新聞が脱原発記事を書けた背景として、中部電力(浜岡原発が停止中)との関係が影響しているという見方も紹介された。

 

【ゲスト】藍原寛子さん
【課題図書】『震災後を生きる13人 フクシマ、能登、』(婦人之友社)※各自でご購入下さい
【日 時】2026年9月5日(土)※17時~19時
【会 場】本と喫茶コトウ
【参加申込】メッセージへご氏名を記入してお申込み下さい
【会場費】800円(飲み物代込み)
 ※課題図書は各自でご購入下さい。会場のコトウさんでも販売しています。
【開催趣旨】

福島在住のジャーナリスト・藍原寛子さんが著された『震災後を生きる13人 フクシマ、能登、』を、著者と一緒に読む会を開催します。
藍原さんのこれまでの取材の中から編まれた一冊です。
この13人の中にはいつもお世話になっているフォーラム福島支配人・阿部泰宏さんもいらっしゃいます。
また、残念ながら2021年に惜しまれながら永眠された詩人・若松丈太郎さんもいらっしゃいます。
震災・原発事故をめぐるひとり一人の物語は、その個別性にこそ誰をも共鳴させる普遍性が込められています。
藍原さんが直接面会され話されたご経験などに耳を傾けながら、個々の物語を拾い集めることの意味を参加者の皆さんで語り合いたいと思います。
本書の内容については出版元の婦人之友社の紹介記事をご参照ください。

https://www.fujinnotomo.co.jp/book/essay/b2412/

 

      

 

【 ゲ ス ト 】松谷 満 氏(中京大学現代社会学部教授)
【課題図書】『「右派市民」と日本政治』(朝日新書)

【開催日時】2026年8月22日(土)14時~16時
【会  場】福島市写真美術館多目的ホール

【まとめ(AI作成)】

 本会合は、松谷満氏が執筆した新書『「右派市民」と日本政治』の内容紹介と、参加者との意見交換を目的とした言論カフェである。渡部が司会を務め、高校教員・退職教員・映画関係者・大学教員・一般市民など多様な背景を持つ12名の参加者に恵まれた。

 

1. 執筆動機:「岩盤保守層」への問題意識とデータに基づく議論の必要性‎

松谷氏は、「岩盤保守層」という言葉が定義不明のまま広く使われていることへの問題意識から執筆を開始したと述べた。右派・左派についてのイメージ論が横行する中、専門研究者の知見を一般読者に「翻訳」することを目的とし、データに基づいた実証的な議論を分かりやすく伝えることを目指したと説明した。アメリカの政治的分極化(民主党・共和党支持者が互いを「敵」とみなす傾向)を念頭に置き、日本社会でも「右派と左派はそれほど違わない」という事実を示したいと述べた。また、折り合えるはずのところで無駄な対立をすることの非合理性(「意味のないコスト」)を指摘した。

 

2.本書の構成・編集プロセスと読者反応‎

松谷氏は、当初全章をデータ分析で構成する予定だったが、編集者の小林氏の助言により第1章と第5章にデータ以外の記述を加えたと説明した。研究者からは「データに基づかない記述を加えるのはなぜか」と批判される一方、親族からは「第2・3・4章は読まず第1・5章だけ読んで面白かった」という反応もあったと紹介した。ネット記事に掲載されたことで多様な反応(「当然のことを今更言うな」「偏った学者だ」等)があったことも述べた。

 

3.右派の定義と4類型:愛国主義・伝統主義・排外主義・反左主義‎

松谷氏は「保守」という言葉の多義性を避け「右」「左」の軸を使用したと説明した。右派の定義として、①国や伝統を重視する立場(愛国主義・伝統主義)に加え、②左派や中国・韓国からの批判への反発(排外主義・反左主義)も右派の特徴として位置づけたことが本書の独自性であると述べた。特定の価値観への強い信念がなくても「左派が嫌い」という感情だけで右派的行動をとる人々や、普段は穏やかな発言をしながら中国・韓国の話題になると急に極端になる人々の存在を指摘した。経済的な左右軸には言及しないスタンスで書いたとも述べた。

 

4.データの概要:郵送調査1万人の信頼性と分析手法‎

松谷氏は、使用データが10年前(2017年)に実施した郵送調査(1万人対象)であり、インターネットモニターではなく直接交渉で集めたモニターを使用した点で信頼性が高いと述べた。分析手法として、複雑な統計指標ではなく「靖国参拝への賛否」「愛国教育への賛否」など個別項目による分類を採用したと説明した。これにより読者が自分自身や身近な人物を当てはめやすくなるという利点があると述べた。左派の人々が「私は2つ当てはまる」「4つ全部当てはまる」とコメントしてきた事例を紹介し、読者の自己認識を促す効果があったと述べた。

 

5.主要データ分析結果:極端な人は0.2%、部分的に極端な人は15%‎

松谷氏は、中国・韓国の両方に0点をつける排外主義的傾向を持つ人が13〜17%(約10人に1人)存在すること、共産党・立憲民主党の両方に0点をつける人が約5%(20人に1人)存在することを示した。一方、4つの分類すべてに当てはまる「完全な極端な右派」は0.2%(500人に1人)にすぎないという結果が最も重要な発見として紹介された。左派市民については、同性婚・選択的夫婦別姓への支持が10%以上いるが、すべての左派的条件を満たす人は0.5%にとどまると述べた。「ネット右翼になった父」という一般書の事例を引用し、父親が中国・韓国は嫌いだが伝統にはこだわらないという「ムラのある」右派像を紹介した。

 

6.右派市民の属性:若い大卒男性に多く、大卒女性に少ない‎

松谷氏は、右派市民の属性として「若い大卒男性」に多い傾向があることをデータで示したと述べた。例として、愛国主義者100人中の若い大卒男性は18人(一般社会の14人より多い)であるのに対し、伝統主義者100人中の若い大卒女性は1人(一般社会の10人より少ない)であることを紹介した。右派市民から最も遠い属性は「若い大卒女性」であると説明した。左派の一部が「ネット右翼は高卒で無知な人々」と主張することへの反論として、実際には大卒男性に多いというデータを提示した。また、左派は高齢者層に偏っているのに対し、右派は若い男性層にも広がっているという傾向も示した。

 

7.右派市民の投票行動:排外主義者の約3割が安倍晋三を嫌い‎

松谷氏は、排外主義者(中国・韓国が極端に嫌いな人)が必ずしも安倍晋三の熱烈な支持者ではなく、約3割が安倍を嫌いだというデータが「意外な発見」であると述べた。これは、安倍政権が慰安婦問題などで一定の妥協をしたことへの反発として解釈できると説明した。愛国主義者は安倍支持の傾向が比較的強いが、排外主義者は必ずしもそうではないという分類の有用性を示した。ネット情報発信は右派の方が活発で、直接的な政治行動は高年齢層の左派が活発だが、欧米と比べると左派の直接行動は少ないというデータも紹介した。

 

8.第5章:ポピュリズムと河村たかし名古屋市政の事例‎

松谷氏は、第5章ではポピュリズムの事例として河村たかし名古屋市長(4〜5期務めた)を取り上げたと説明した。河村市長は就任時に「庶民革命」を標榜したが実際には何も実現せず、それでも支持され続けていることを「不思議」と述べた。「民主主義発祥の地・名古屋」という垂れ幕を市役所に掲げていたことも誰も問題にしないことへの疑問を呈した。ポピュリズムの定義として「エリートを批判し、普通の人の考えを政治に反映させればうまくいくという考え方」を示した。橋下徹と比べて河村市政はあまり知られていないため取り上げたと述べた。

 

9.本書の結論:著者の立場とキリスト者としての対話観‎

松谷氏は、本書の締めくくりとして「提言」を避け、自分自身がガチの左派主義者でありながらキリスト者であるという立場から対話の必要性を述べたと説明した。ただし、ヘイトスピーチをするような相手との対話を無条件に勧めているわけではなく、「折り合えるはずのところで無駄な対立をしない」ことの重要性を訴えたと述べた。右派の編集者が書いた本を読み、右派側も対話を求めているが左派が相手にしないという指摘があったことも紹介した。また、「変えないために変える」というフレームに人々がすぐ乗ってしまう問題(中国の脅威→憲法改正、経済危機→原発再稼働等)への懸念も述べた。

 

◎参加者自己紹介と感想‎

 A氏は、全くの誤情報をもとに、自らが「極左」とSNS上で名指しされた経験を紹介しつつ、0.2%という数字を踏まえた上での社会形成の在り方について問題提起した。

 B氏は、本書の分類が自分自身の複雑な立場を整理するのに役立ったと述べ、「愛国者にならなければならないのではないか」という自身の変化にも言及した。また、「命を受けたキリスト者だから」という本書の結論部分に最も感銘を受けたと述べた。

 C氏は、職場の非正規職員が「リベラル政党なんかなくなってしまえ」と発言していた事例を紹介し、本書の分類が感情的にならずに状況を理解する助けになったと述べた。

 D氏は、データによって安倍晋三支持と排外主義の関係を冷静に理解できるようになったと述べた。

 E氏は、統計的分類の有用性を認めつつ、大学の種類・学部による差異や歴史的文脈による例外の重要性にも関心があると述べた。

 F氏は、福島における3.11後の分断を例に挙げ、右派関係者がメガソーラーから自然環境を保護する集会に熱心に参加した事例を紹介し、「人生は矛盾の総和である」と述べた。

G氏は、同級生がネットの影響で嫌中発言をするようになった経験を紹介した。

H氏は、憲法の授業で「偏っている」と言われる経験や、ジムで一般市民と政治の話をする実践を紹介し、社会変革には広い対話が必要だと述べた。

I氏は、SNS上の左派コミュニティ内での「潔癖さ」への圧力と、現実の職場での複雑な人間関係とのギャップを感じていたが、本書を読んでそのモヤモヤが解消されたと述べた。

 

10.若者の政治意識・教育をめぐる議論と松谷氏の総括‎

 参加者間の議論では、若い大卒男性が左派・リベラルの価値観から離れていく傾向が強まっているという松谷氏の指摘をめぐって活発な意見交換が行われた。

 I氏は、若者が「中立であること」をかっこいいと感じる傾向や、SNSのアルゴリズムによって偏った情報が「真ん中」と認識されるようになる問題を指摘した。

 A氏は、非正規雇用の同僚が大企業擁護の発言をする矛盾を例に挙げた。J氏は、憲法改正や軍備増強への若い男性の親和性が高まっていることへの危機感を述べた。

松谷氏は、異なる立場(右派・左派)の人々を研究会に招いて、勝負ではなく相互理解を目的とした対話の場を設けることを提案した。A氏は、対話の場を設ける際には「対話のルール・前提を共有すること」が重要であると述べ、その枠組みづくりを検討することを示唆した。

 松谷氏は‎最後に、「リベラルな意見が通る時期の方が稀であり、戦後日本や3.11直後のような時期こそが例外的だった」という歴史観を示し、悲観的ではあるが地道に取り組み続けることの重要性を述べた。また、異なる立場の人を研究会に招いて相互理解を深めることを提案した。

 

 

【ゲスト】松谷彰夫 氏(元福島県立高校社会科教諭)
【課題図書】『裁かれなかった原発神話―福島第二原発訴訟の記録』(かもがわ出版) 
【日 時】2026年7月18日(土)※14時~16時
【会 場】
福島市写真美術館多目的ホール

【まとめ(AI作成)】

 本会合は、元高校教員の松谷氏が執筆・出版された『裁かれなかった原発神話』(かもがわ出版)を題材に、福島県浜通り地域における原子力発電所の誘致・推進の歴史、反対運動の経緯、そして2011年の原発事故後の被災者の状況について詳細に語る講演会形式で行われた。参加者からの質疑応答・意見交換も活発に行われた。

1.原発事故と地域住民への影響
 松谷氏は冒頭、かつて教員として勤務していた学校の担任クラスの生徒の約3分の1が小高・浪江・飯舘地区から通っていたことを述べ、原発事故以来、自分たちがもっと反対運動に力を入れるべきだったという後悔の念を語った。また、福島の浜通り地域では「原発を自ら招いたのだから、その犠牲は仕方がない」という意見も一部に存在したことを紹介した。
 松谷氏は、反対運動の団長であった小野田氏が、周囲の原発賛成の雰囲気の中でほぼ孤立しながら活動していたことを説明した。そして、元同僚の門馬洋氏について言及し、門馬氏が1971年(福島第一原発の営業運転開始年)に結婚し楢葉町、次いで浪江町に移り住んで以来、40年間反対運動を続けたこと、原発事故後に東京へ避難したが、心から話し合える友人を見いだせない中でうつ病を発症し、3年後に亡くなったことを述べた。

2.門馬昌子氏の証言と避難生活の実態
 松谷氏は、門馬洋氏の妻・昌子氏が2026年3月の集会で行った発言を紹介した。昌子氏は、15年間に支払ったアパートの家賃の総額が26,316,000円(約2,632万円)に上ること、自宅が浪江町にあるにもかかわらず避難生活を余儀なくされていることを述べた。
 また、東京都民向けの無料交通パスも受け取れていないと語った。昌子氏は住民登録を浪江町に残している理由として、浪江町の財政破綻を防ぎたいという思いを挙げた。原発事故前に21,000人いた町民が、現在居住者は2,237人まで減少したが、町民として登録している人は12,610人いることを紹介した。また、22人いた友人が全員避難先に定住してしまい、一人も帰ってこないため、帰町すればうつ病になると恐れていること、そして双葉郡から165,000人が追い出されたにもかかわらず、原発で作られた電気を自分たちは一キロも使っていないという訴えを紹介した。

3.日本原子力産業会議の報告書と国の関与**
 松谷氏は、1970年に日本原子力産業会議が発表した「原子力発電所と地域社会」という報告書(立地問題調査専門委員会報告書、1970年6月)について詳しく説明した。この報告書は1968年から福島県浜通り地方への調査を経て作成されたもので、公害反対運動が全国で高まる中、原発をスムーズに受け入れてもらうための方策を検討することを目的としていた。
 報告書の結論として、原発立地と地域開発は全く別次元の問題であり、地域開発は地方自治体(県・市町村)の責任であって東京電力は関係ないとしながらも、東京電力は「地域開発のモティベーター」としての役割を担うべきとされた。つまり、東京電力は繁栄するという動機付けを与えるが、実際の開発は国と県が行うという構図であった。
松谷氏は、この報告書の作成に福島県知事・木村守江も委員として名を連ねていたことを指摘した。その後、1973〜74年に電源三法が国会で成立し、電力会社が電気料金に含めて集めた資金を国が原発立地地域に交付金として配分する仕組みが作られた。事故直前の2009年度交付金額として、大熊町15億2,000万円、双葉町18億5,000万円、楢葉町8億1,000万円、富岡町9億1,000万円を挙げた。

4.原子力広報活動と地域メディアの役割**
 松谷氏は、福島県が毎年発行している「原子力行政のあらまし」の中にある「原子力に関する広報事業の予算」をみると、その費用がほぼ全額国庫負担であったことを説明した。講演会からテレビ・新聞での広報活動、さらには「アトム福島」という地域情報誌が、当初は福島県保健衛生部、次いで財団法人・福島県原子力広報協会(監修・福島県)名義で発行されたが、それらはすべて国の予算を使って原発の安全性を宣伝してきたことを指摘した。この冊子は浜通り地区では無償配布され、県立学校・小学校にも全県配布された。最終号は2011年2月号であり、翌3月の原発事故後、発行元は総括なしに解散したと述べた。
 地元紙(福島民報・民友)についても、事故が起こるまで原発に疑問を呈する記事を一切掲載しなかったと批判した。事故後に新聞協会賞を受賞した「福島と原発」という連載についても、反対運動をした人々の苦労を記事にしながら、自社がいかに原発を支持してきたかを全く検証していないと強く批判した。

5.反対運動を支えた弁護士・学者たち**
 松谷氏は、安田純治弁護士(安田法律事務所)が県立高校教員組合の顧問弁護士として、事務所の弁護士8人全員が無償で原発訴訟の弁護団を務めたことを紹介した。この訴訟は、田中角栄首相が出した福島第二原発の設置許可を取り消すよう求める行政訴訟であり、約10年にわたって争われたが敗訴した。
 安田弁護士が地裁敗訴後に述べた「裁判は子孫への伝言だ」という言葉が、反対運動の人々を励まし、高裁への上訴につながったことを紹介した。松谷氏はこの言葉を、憲法第97条の「基本的人権は過去幾多の試練を乗り越えて伝えられてきた」という精神と重ね合わせ、教員として生徒に伝えてきた価値観と同じものだと述べた。

6.参加者からの意見・質疑応答
 参加者Aは、昭和51年に東京から福島に移住した際、原発の多さに不安を感じたが日常生活に追われて忘れてしまったと述べた。1995年の北京世界女性会議への参加を通じて原発問題を再認識し、その後、短大での教育活動や地元テレビ局のコメンテーターとして活動する中で、東電のトラブル隠しやデータ改ざんに対してギリギリの批判を続けてきたと語った。事故後は「加害者の一人」という自覚を持って福島で生き続けていると述べた。
 参加者Bは、震災後にある研究会で地元新聞社の論説委員を講師として招いた際、「今まで原発を巡っていろんなことを見てきたので、脱原発という社説の立場は取れない」と明言されたことに唖然としたエピソードを紹介した。また、およそ35年前に原発肯定の作文で賞を取った生徒たちが現在どう思っているかという問いを松谷氏に投げかけた。

 松谷氏は、その作文を書いた生徒は科学部の顧問教員の影響を強く受けており、その顧問教員は事故後も原発の素晴らしさを語り続けていたと述べた。双葉町の大沼氏が「原子力明るい未来のエネルギー」という標語で1等賞を取り、それを負の遺産として残すべきだと言い続けたエピソードも紹介した。
 参加者Cは、CO2削減を名目に原発を推進する言説が今も続いており、金銭的な利害関係に絡め取られた人々がこの問題について語れなくなっている現状を指摘し、どのようにこの問題を語り開いていけばよいかという問題意識を述べた。
 参加者Dは、1977年に日本原子力産業会議が発表した双葉・大熊町・福井県美浜町に関する調査報告書の各論(国立国会図書館所蔵)について言及し、情報公開請求を通じて土地買収価格の一覧を閲覧できるようになった経緯を説明した。一方、福島県庁に対して行った関連文書の開示請求では「保存期間が過ぎているので廃棄した」と回答され、重要な資料が失われていることを問題提起した。
 参加者Dは、棚潮地区の霊園整備に言及し、浪江町内での差別構造や反対派・賛成派の対立について証言した。また、自身が東京電力の下請け企業で引っ越しアドバイザーとして東北トップの営業成績を上げていたこと、震災直前の2011年2月に東芝での原発構内勤務の面接を受けていたことを告白し、生活のために原発と切り離せない関係にあったと述べた。
 参加者Eは、現在の浪江の子供たちが元気のない様子であることを述べ、地域コミュニティが一度崩壊することの深刻さを実感していると語った。また、「出稼ぎ」という言葉への違和感として、浪江・双葉地域が出稼ぎに行く地域であると同時に、南部杜氏や徴用工など出稼ぎを受け入れる地域でもあったことを指摘した。
松谷氏は、宝鏡寺の住職が「檀家の3人に1人は原発で働いている」関係から、「坊主は反対運動などするもんじゃない」と批判されたが、原発で働く人々の事情もよくわかっていたので強くは反論をしなかったというエピソードを紹介した。

      

 

【ゲスト】松谷 満 氏(中京大学現代社会学部教授)
【課題図書】『「右派市民」と日本政治』(朝日新書)

     
 ※各自でご購入下さい
【日 時】2026年8月22日(土)14時~16時
【会 場】福島市写真美術館多目的ホール(福島市森合町11番36号)

 

 


【参加申込】メッセージへご氏名を記入してお申込み下さい
【参加費】会場費が発生する場合は、人数に応じてご負担いただきます(200~300円程度)
【開催趣旨】

「極右」政党の席捲は、欧州においてそれほど新しい社会現象ではありませんが、それでも2024年6月の欧州議会選挙においてEU加盟各国で極右や右派が大きく勢力を拡大したこと衝撃的な出来事でした。
そのことが外国人差別とテロの恐怖を増幅させながら、社会の分断を深刻化させている問題は、現在もなお深刻です。
翻って日本社会をみれば、2025年の衆院選におけるポピュリズムによる右派政党の躍進や政権の誕生は、事情は異なれ、こうした欧州の社会現象とパラレルに起きているものとみることができます。
加えて、2026年1月の米国・トランプ政権によるヴェネズエラ攻撃、3月のイラン攻撃といった暴挙が、国際秩序を破壊するさなか、こうした右傾化がどのような社会現象を巻き起こすのかは予断を許しません。
しかし、そうした時期であるからこそ「右派」とは何か?それを支持する市民層の心性とは何かを考える必要があります。
このたび、『「右派市民」と日本政治』(朝日新書)を出版された松谷満氏をゲストに迎えて、同書を手がかりに以上の問題を語り合う企画を立てました。
松谷氏は福島高校出身で現在、中京大学現代社会学部で政治社会学・社会意識論を専門とされる研究者です。
本書は綿密な社会調査データの裏付けをもとに「右派市民」の意識背景を論じた本です。福島市内の書店での売り上げも大きく、この問題に対する市井の関心の高さがうかがえます。
ぜひ、色々なご意見の方々のご参加を得て、議論を盛り上げたいと思いますので、どなたでも遠慮なくご参加下さることをお待ちしております。

横地徳広『苦海のエチカ』を読む会
⏰日曜日 2026.06.28 04:52 · 127mins
 

横地:「くがい」には苦しい海、あと苦しい世界の両方でてくるんですけど、苦しい世界の苦界は九鬼周造の世界なんです。つまり、親に売られた遊女が、世間で生きている客と「いき」な孤悲仲に落ちる二人の場合。元禄文化は心中しちゃうんですけど、でも化政文化はこの生を無限に繰り返すことで、自分で何度でもこの苦しい世界を自分で選んだことによって、善美の世界にできる、だから、その苦しい世界の場合は、人間の意志で何とかしようっていう話になっています。

それに対して、この苦しい海、つまり「苦海」の方は胎児性水俣病患者の子供たちを九鬼周造のような意志論で語っていいのかどうかという問題があります。九鬼周造のような生き方を否定するわけじゃないんですが、胎児性の水俣病患者の子供たちに関しては、そういうことを外から私が何かを語っていいのかという問題があります。

たとえば、人工内耳ってありますが、聴覚障がい者の方がその人工内耳をつけると手話の世界とか、聴覚に支障がある人なりの豊かな世界があり、それがその人工内耳をつけたことで、その豊かな世界を失ってしまったと障がい者の方が語ることはOKなんですけど、ただ、私にはそれは言えないという問題です。障害者基本法によって障がい者と健常者の区別ができて、そういう法律的な区別から生まれた差別のようなものの見方は通用しなくて、健常者が豊かで、その聴覚障がい者の方が豊かではないではなく、別のハイクオリティの豊かさをそれぞれに生きていると。〔わたしはそれを〕体験したことない、ただ、話は理解できるから、この本をどこまで書いていいのかという時に、高村さん、渡部さん、荒川さんのおかげで理解はさせていただいた。

ただ、どこまで書いていいかわからないっていう時に、一人称の語りということで、高橋洋充さんがおっしゃっていたことや彼の問い自体は生きていて、一人称がその単数、つまり「私一人」なのか、一人称複数、つまり「我々」なのか、その私からあなたへ、我々からあなたへ、あなたたちへという人称で区別することで、ナラティブ・アイデンティティといますけど、やはり語ること、考えることで、自分が誰なのかを考える、かつ、その私は誰と一緒にいたいのか、考えるという、ハンナ・アレントの哲学に開いていけると思います。 その具体像について話を伺ってる方が多いので、皆さんから教わってるっていう感じなんですよ。 だから、この本が書けました。

 

渡部:はい、ありがとうございます。

僕の方から、この本から考えたことをレジュメに即して少しお話をさせていただきたいと思います。横地さんが本書を書かれたのは、まさにその当事者じゃない横地さんが、水俣のことを語っていいのか、福島のことを語っていいのかという問題なのだと思います。おそらく、こうした問いに誰もが直面すると思うんですけども。ただ、このレジュメの最初の方に「脱底」、つまり底が抜けるっていうんですかね、この言葉が一つキーワードになってるんですけども、水俣的エートスに即した言葉では直接に語り得ない「形而上学的深淵」に水俣の被害者たちは落ちた。これも難しいんですけども、その前の文章を読んでいくと、その意味はよくわかります。

例えば、「正義を顕わしてくれる国というものはどこにもない」(p.84)という言葉。これは福島の原発事故の裁判傍聴でも聞いた言葉です。けっきょく東電側の弁護士は「最後は金目でしょ」みたいな話に持ってくわけですよね。でも、訴える側はそうではないと訴えても、「賠償金はいくらがいいんですか? 四万円じゃ少ないんですか?」 とか、そういう言い方でしか反論してこない。でも、我々がその不正に直面して被害を被った時に訴える側はとりあえず裁判という方法しかないんですよね。でも、裁判所に訴え出ても、水俣の患者団体同様にそこで絶望してしまうわけですよね。 それが「「ああ情けなか! なして生きとるか」(『苦海』、443頁)(p.84)という言葉に表されている。裁判所に正義を求めても、そこに正義は実現されない。むしろ、裁判で解決されればされるほど、自分たちの言葉が簒奪されているというような思いに至ってしまう。

「なぜ自分たちが「逆世の真実を見に負うとる」のか、この問いに社会的思考が応答する可能性がすっかり消えた、まさにこのとき、『苦海浄土』第二部「神々の村」(2004年)はどこへ向かったのか。/被害民が生まれ育ち、住まう水俣、往還道の出発地として終着地である」(p.88)

ここでいう「社会的思考」というのは、裁判の思考もそうだし、あるいは政治解決っていうものだと思うんですけど、そういうパブリックな場で正義を求めても、全部自分たちの言葉が届かない、どこかすり落ちてしまう。そういう時に、水俣の人たちは「水俣病のなんの、そげん見苦しか病気に、なんで俺がかかるか」(「苦海」、45頁)(p.94)という絶望的な問いに直面してしまうわけですよね。

これは、僕らもエチカの始まりがそうだったかなと思い起こすものがあります。つまり、その出来事に宛がう言葉が見当たらないんだけど、でも時間の流れと共に、社会的にいろいろこう上書きされていくわけですね。いろんな言葉で。政治にせよ、経済にせよ。横地さんは、あえてそこで隙間に落ちてしまうような言葉を見出そうとしている存在に光を当て、しかし、それが言葉にならない魂の叫びを翻訳と名指し、しかしそれを他者が翻訳できるのかということを書かれたと思うかなと思っています。

いろんな視点から書かれている。例えば、「沈黙」とは遠藤周作の『沈黙』のことですけども、「転び」というのは棄教ですよね。その中の「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。その後でここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ」(『沈黙』、262頁)(p.100)という言葉に注目すると、この「後でここに入れられ、耳にしたあの声」というのは、拷問をかけられている人たちの声ですよね。その声に神が何一つなさらなかった。つまり、応えてくれなかったということを、遠藤周作の『沈黙』から引用されているんですけども、まさにこんなに足掻いているのに、何も応答がない。それに宛がう言葉がどこからも来ない。

「歴史的水平性の観点から言えば、水俣の被害民たちは衆生の「存在者的」匿名態から空が空ずる「存在論的」匿名態へとみずから深まりゆくなか、その状況を突破口にして存在の脱底的思索におのずと与りえたのかもしれない」(p.102-p.103)

これは、めちゃめちゃ難しい表現ですけども、自分自身でも言葉を見いだせないところで、その存在者的匿名態から脱底的思索に自ずと与かり得たというのは、神から応答がないという経験に直面したが故に、逆説的にもその状況を突破しえたということかなと読みました。

我々も去年水俣を訪れた際にお会いできた緒方正人さんという水俣の漁師さんがいます。この人は、ある意味で水俣の象徴的な存在ですけども、この方に触れる部分というのは、いわゆる僕の言葉で言えば「転回」というか、そういう経験がいかにして可能になるかということを考えさせられた人です。

「社会的自己、社会的他者、社会の存在意味が折り合わされた役割存在論にあって、緒方もその一部であったことを知る」(p.163)

つまり、社会的に緒方正人も漁師とか父親とか、女島の住民だとか、いろいろ社会的な役割がある中で、この人は狂ってしまうんです。テレビのような近代文明の道具を全部ぶっ壊すほど狂ってしまったと言うんですけど、その行き着いた先が「チッソは私であった」という有名なテーゼが 開かれるわけです。

こういう言葉に出会うと、法外な出来事に巻き込まれた時に、「これだったんだ」という言葉を見つけられるのは希望に感じました。しかし同時に、こんなに狂わないと、そういう言葉には辿り着けないんだろうかという思わされたのが緒方さんの言葉だったわけです。それはまさにここに書いてあるように、「自我崩壊の果て、緒方がこのことを肌身で気が付いたとき、つまり、社会的原理の役割存在論を脱却する決定的なアスペクト転換が緒方に到来したとき、緒方の中で響く〈何か〉は〔……〕小さな石仏を緒方に彫らせた〈何か〉であったように思われる」(p.163)

  緒方さんは、この後いろんな石仏を掘ってドラム缶をいっぱい埋まってるエコパークに石仏を掘って並べる活動をされるんですけども、その緒方の中で響く何かというのが、この〈何か〉ということでのみ示されていて、これは何であるかというのは、まだ茫漠としていると思うのですが、それを最終章でですね、エチカ福島のことに触れていただきながら、「一人称の語り」ということで書かれてました。

自分でもなんだかよくわからない、言葉にできない、でも他者から、外側から「お前はこうだよね」という雑音がきたり、「福島ってこうだよね」とか規定される。僕のかつての同僚で福島市へ避難されてきた方は、やっぱり長年ずっと相双地区で教員やってきて、もちろん原発でこんな目に遭って、自分も家とか奪われ、福島市へ避難してきて子供たちも相双地区のアイデンティティなくなっていくのは寂しいなって話をされている中で、でもやっぱり「脱原発」ということを言う自分は違うんだよねと語ってくれたことがあります。もちろん、原発に賛成なんかしないけど、だけど今までそれを積極的に反対してきたわけじゃないし、むしろ教え子を東電とかに就職させたりしてることを良しとしてきた過去の自分と、いきなり戦争に敗けたからといって一昼夜で民主主義者に転換するみたいな、そういうのは「ちょっと違うんだよね」と話してくれたことがあるんです。自分の中でもその折り合いがつかない、言葉にできない。だけど、外側からいろいろラベリングされることには抵抗する。

横地さんは、古井由吉の言葉で 「作家が器としてパッシーブになる、楽器になる」という表現にヒントを得て、ここで髙橋洋充さんの「一人称語る会」にふれている。この会は2024年11月4日に、如春荘でやったわけなんですが、髙橋洋充さんという方は、実はこの六月一日にお亡くなりになられました。僕の同僚で、年齢は55歳でしたね。 彼は浪江町出身で、とにかく浪江に帰りたいと語っていました。自分の故郷が奪われたことに対して、ものすごい喪失感を覚えて、それをとにかく訴えずにはいられないという人でした。彼のことは語り尽くせないんですけども、その彼の語りを一人称で語る会という形でエチカ福島で開催したわけですね。

僕の不手際で、実はそれを録音できてなかったんですけども、いろんな形で別のところで録音しているので、なんとか再構成したいなと思ってます。でも、その続きを読むならば、表現の対象は「3.11」という出来事で言葉を失った髙橋洋充さんが、自ら自分から発する私とは誰かという問いかけに自分自身で応答し、言葉が紡がれた時に、初めてその存在が表れるという事なんだろうと思います。それは、自分で何だかよく分かってないんだけれども、自分で語った瞬間に、自分ってこうだったんだって分かるような経験ですかね。

 

「表現の対象は、〈3.11〉という出来事で言葉を失った高橋たちが自分から発する「私は誰かという問いかけに自身で応答し、言葉が紡がれたときにはじめてその存在があらわになる〈何か〉だろう。古井の言葉を模していえば、高橋の〈何か〉に対して「髙橋が器としてパッシーブになる、楽器になる」。とはいえ、「パッシーブというのはパッション(受難)に通じるわけで」、それはなかなかきついし危ない」(p.228)

 

古井の言葉に重ねて言えば、高橋の内観に対して高橋が器としてパッシブになる、楽器になる。この辺の表現については、横地さんに後でもう少し確認しながら進めたいんですけど、自分自身が器になる、楽器になるって言うんですよね。 だから自分自身がこういうことを語りたいんだということとも、ちょっと違うわけですよね。「『パッシブというのはパッション=受難に通じるわけ』で、それは実はなかなかきついし危ない」という言葉を古井から引用されています。

もう一つは、もうやっぱりこちらのレジュメの方も出てきますけども、アウグスティヌスの言葉を用いて、「記憶なしには私は『私』という言葉すら発することができないはずなのに、その自分の記憶の力を、私自身完全にとらえることができない」(アウグスティヌス)(p.229)という矛盾したような状態は我々にもあったような気がします。

なんとかあの出来事に宛がう言葉を見つけ出したいし、それは自分が被災した経験、記憶から紡ぎ出したいんだけど、でもその記憶すら実は大半はもう忘れということがほとんどだし、その記憶がない私を「私は私だ」なんて言えないのに、実は私自身けっこう当時の記憶が曖昧になっている中で、しかし、その記憶の力が洋充さんの語りもそうですし、高村美春さんの語りもそうですし、一人称の語りを通じて、自らの魂の洞窟という暗がりの奥底までの歩みを自分に生きられたことの記憶として語るとき、それに相応しい時間が動き出すのではないか。

「一人称の語りを通じて〔……〕自らの魂の洞窟におり、その奥底までの歩みを自分に生きられたことの記憶として語るとき、いかなる時間が動き出すのか」(p.230)

横地さんが書かれた『苦海のエチカ』は、ここで終わっているわけではないんですけど、こういう問いかけに、ちょっと難しい表現ではあるんですが、何年か経った後にふと回帰してくる、あの場面のあの記憶っていうことから、もしかすると言葉が紡ぎ出されるかもしれないし、多分それは自力ではできない。自分の記憶であるにせよ、自力では思う出すことができない。こういう対話の場でいろいろ語りながら、想い起していくという感じなのかなと思います。

それで、横地さんに問いかけますけども、魂の翻訳は可能かということですから、そういう自分自身にも説明できない言葉を、自分もまさに自分を翻訳できないし、それを他者が翻訳というか、代わりに語っちゃっていいのかっていう問題があるのだと思うんですよね。まさに今、洋充さんも本当に不在になっちゃいましたから、洋充さんの言葉を僕らが都合のいいように解釈して、「洋充さんってこういうことを言ってたんだよね」ということを、善意であっても簒奪してしまっていないかという疑問が残る。でも、一方で彼のことを語らなくていいのかというと、そうではないと思うし、その問題をどう捉えるかというのが、この本の主題かなと思って読んでました。いかがでしょうか?

 

横地:はい。「魂の翻訳」の方は、まず『水俣――患者さんとその世界』をドキュメンタリー映画として撮影した土本監督や、その上村智子さんのご両親とか、あるいはそのフィルムに出てくる親御さんたちが、〔土本監督が〕自分もそういうことをできるようになりたいっていう形で、その子供の話を聞く場所に共に一緒にいるんですよね。

そういう意味では、その、もう亡くなった方に対しての「魂の翻訳」にはならず、その時に言葉が神経毒なので喋りにくいという話が出てきて、それでも、その存在の響きみたいなものを受け取れるのはなぜかというとパッシーヴなんですよね。

古井由吉さんの例が、ハープってすごいピンと張ってあって、鳴らすと[削除]ハープAが鳴るとハープBは鳴る共鳴現象を起こす。ただハープがピンと張ってあると指が切れちゃうわけですよね。でも、高村さんの話だと、そのかさぶたを剥がすような、あれはそんなピンと張ったような古井由吉さんや大江健三郎さんみたいな、ある種の社会正義があって、強い音を鳴らし合いながら一緒にどこかへ向かっていく、そういう時代のパッシブではなくて、もっとこう、なんだろう、感受性の中でやっと受け取れるような。

レヴィナスの触覚論ってあるんですけど、何かに触れるっていうことは、自分の皮膚が削れることだというんです。それでやっと何かを感受できると。そうすると、やっぱり傷っていうのは敏感ですから、その方が相手の何か存在の響きを受け取り得る。そういう意味でいうと、このパッシブの方は、私としては古井由吉さんや大江健三郎の頃のはわからず、むしろ自分に傷があるから響きを受け取りやすくなってるんだっていう可傷性、ヴルネラビリティVulnerability、「傷つきやすさ」というんですけど、高村さんのお話を伺っていると、そういうところから倫理が立ち上がる感じなのかなと思うんです。

 

渡部:高村さんの傷の話っていうのは、高村さんご自身に喋ってもらった方がいいんですけど、私の生徒たちにも講話で聞かせてます。だいたい、みんな傷なんて見たくないだろうし、その話を聞くと自分の傷にはうずいて共鳴しちゃうわけですよね。でも、高村さんが南相馬の語り部をやるときには、むしろ自分の傷を引き剥がしながら、相手の傷に応答や反響させるような語りをされている。僕自身はそれにすごく刺激を受けて、僕も色々書かせてもらったことあるんですけど、そんな理解でよろしいでしょうか?

 

 

高村さん:先月末、横地先生の本を持って水俣に行きました。13年通ってます。今回息子と一緒に行きました。息子とは 2回目なんですけど、ずっと「魂の翻訳ってなんだろう?」と飛行機に乗ってからずっと考えてたんですね。で、今回行ったのは「からたち」の大沢さんという支援者の2世のところなんですよ。今、彼女はディープな水俣ではなくて、明るい観光的な、あるいは柑橘から農業から、山から海からという多角面から水俣を紹介したいといって、水俣旅っていうのを始めてるんですね。で、大学2年生だった息子に、ディープな水俣から入らせるよりは、そういった多角面な水俣へ連れて行きたい。で、阿賀野にも今、新潟水俣病の方にも親子で通って 2年目なんですね。

で、なぜディープな水俣じゃないのかっていうのは、 6年生の春休みに連れて行ったんですよ。うちの子は一度も海に入ったことがなかったんです。要するに地元の海に釣りをしたことがない。お母さんがいつも放射線が、放射能がって言ってるから海水浴なんかできないよねって言ってる息子は、保養の先でしかできないんですよ。水遊びというもの。 それを緒方正実さん、同じ語り部の緒方正実さんに伝えたら、よし、じゃあ一緒に船に乗って信濃川で釣りをしようって言って、初めて釣りをするんですね。小学6年生で。

その時に息子が僕もいつか語るのかってつぶやいたんですよ。私は息子に語り部をしてほしいと一言も言ってないんですよ。だけど、いつの間にか私の行動、私のそういったものを、言動を彼は見ていて、彼に私は背負わせてしまう。そして、今回、新潟の大学に行ったので、新潟水俣病の学びを行ったけど、そして自分から水俣に行きたい。学校のフィールドワークは 3年生からだから、今回お母さんが何かあるって言うから、こういうのがあるよって言ったら、じゃあ行きたいと言って。その時にディープな水俣病で行くのか、単なる水俣で行くのかでは、入る片足が右なのか左なのかがその後全く違うんですよ。それは福島と一緒なんです。 だから私は背負わせてしまった息子に、そうじゃない水俣を見せたいと思って行ったのが、すみません、長くなったんですけど、今回の水俣旅ですね。

でも、その反面、私はずっと魂の翻訳ができるかどうかっていうのは、私もそうなんです。 どこかで福島のことを福島の人が話すのに抵抗があるんですよ。被災地の人じゃない人が被災地の話をすることにまだ抵抗がある。じゃあ、かといって、何も知らない子供たちが話をするのがいいのか、そこには抵抗がある。じゃあどうすればいいのか。 語り継ぐためにはどうすればいいのか。 それは私のわがままなのか。それが正直自分の中でも答えが出なくて。今回先生の本を抱えて行ったのが実はきっかけでもあります。はい。だから傷というよりも、私がずっと持ってるわだかまりが、今の水俣、公式確認から 70年、新潟は 61年で、福島が 15年で節目ですけど、節目なんか関係なく、私たちの人生の中にはずっとそれがあったにも関わらず、実はなんか。ですね、その爪の先に本当はずっとあったはずなのにも関わらず、いじってもこないし、だけどたまにいじるとあ、痛い。だけどもうそれを無視することもできるのも自分だしっていう、なんかほんとそれこそなんかすごい矛盾した中で、今回の水俣はちょっと自分の中でもすいません、ちょっと言葉が出なかったんですけど、そんな感じで行ってきました。はい。その息子がグレープフルーツを自分で取って喜んで 20個も一人で持って帰りました。 母に1個もくれずに。

 

 

参加者:20個も!

 

高村:もうスーツケースに入れて。はい。

 

参加者:美味しいんだよね。

 

高村:そうなんですよ。隣の完熟のグレープフルーツをそこに無理やりサラダ玉ねぎも突っ込んで、スーツケースの中は全部野菜と野菜と。

 

参加者:大学生時代ですから。

 

高村:そうですね。 だからまあいいかな。母としては。患者さんにも息子はもちろん会ってます。(坂本)しのぶさんとか松永さんとか、いろんな方たちにお会いしてて。だけどそこだけが水俣病はないっていうのを見せたかったなっていうのが正直ですね。

 

エチカ福島参加者S:加賀田清子さんにお会いできて、本当に私は満足した旅路だったので。でも、私も本当に苦海浄土がすごい好きで、苦海浄土の景色を見たかったっていうのが一番の目的だったので、やっぱりいろいろ本当に石牟礼さんもあれはそのまま書いてないっていうかっていうところが、私もそれはなんか結構すいません。2話から初めてというか、どのぐらいその創作なのかなみたいなのも、現地行って聞いて、清子さんが自分は愛してる水俣患者だから、自分はまだ喋れるから、喋れない人たちの代わりにも、やっぱり自分にやっぱ大変な状況でもやってるっていう姿に、やっぱりすごく心打たれるというか。

うん、まあそれはなんかでも、じゃあ清子さんが特異的な何かというわけでもないと思うので。ただやっぱり、そういうなんかやっぱり対象の関わり方とか、自分の主体、だからどこまでその共有かなみたいなのはあるのかなと思うんですけど、ただ私自身、水俣にまた来たいなと思うし、行って満足じゃなくて、また来たいなっていう思いでちょっといて。実際やっぱり見て、お会いして、ずっと話を聞いて、すごくやっぱり貴重な体験だったので、その話と、なんかすごく翻訳っていう、まだ読まなくちゃいけないんですけど。 ただ、その話をちょっと今お聞きしたから、ちょっと話を聞かせてもらって。

 

渡部:石牟礼さん自身がもう完全翻訳ですもんね。だって言葉を喋れない水俣病の人々の声を言葉にしてますからね。そこへの批判というのはあんまりないんですか?

 

横地:渡辺京二さんが、やっぱり石牟礼さんがモデルにしてる人に話聞いてみたら、石牟礼さんの創作じゃないかと。全然違うじゃないかって。でも内情は公にしちゃってるので、それでもなお伝わるものがあるのは、やっぱり化身、その化身とこの化けるに身の方ですか。ちょっと胎児性水俣病患者の子供たちに自分自ら化身してというか。

 

参加者S:憑依するということですかね。

 

横地:だと思うんですよね。

 

参加者S:受動的といえば憑依され能力が高いって憑依していって、自分で語るパペットみたいにするんじゃなくて、憑依される能力っていう風に考えた方が古井とは違いますけどね。憑依され能力だと思います。イタコっていうか。そっち系ですよ。どっちか言うとね。

この私小説っていうのが、この本の中で一番渡辺京二がそういうこと言ってたんだって、すごく初めて知って、すごく衝撃を受けたっていうか。チェルノブイリの祈りと並べて、違うよなぁ、これどういうスタンスでっていうのを言葉にできなかったのが、昨日の夜ようやく読んでですね、そこものすごくああそうかって腑に落ちました。でもチェルノブイリの祈りも僕は翻訳っていうか、限りなく文学なので、やっぱりそのあそこまで面実に多分喋ってるとも思えないんですよね。

でもほら、スタンスの方向性がちょっとこう、何枚か違うっていうね。それはつまり社会性っていうところがチェルノブイリの祈りにはやっぱあると思うんですよね。ところが、石牟礼さんのは社会性とか、あのお話のやつをこう、何て言うんですか、対してすると、それが壊れたところで、手放されたところで、こう垂直に行くっていう、その方向性の違いを昨日感じたってそういう話です。まああんまり硬くない話。硬くはない。硬くはないんですけど、これもういつも俺が考えて、つまり自分で喋るってなんだよってずっとこの 15年思ってて。俺、別に当事者でもねえし、放射能浴びても浴びてんでしょうけど、感じたこともないし、外側からカウンターでちょっと上がったぐらいの程度で俺関係ねえしなみたいに思う自分と、でもやっぱり福島磐城、磐城に私住んでるんですけど、やっぱ俺他人事として喋られると頭にくるっていうのはものすごくあるし、じゃあ自分なのかっていうと、いやいやいやみたいなところもありつつ、その誰に憑依されたらいいのかっていうと、自分に憑依されるっていうのもなんかちょっと違うし、そんな中で高橋洋充さんの話を伺った時っていうのは、一つのなんかこう、光が見えたような光って、その辛い話を聞いて光っていうのも失礼っちゃ失礼なんですけど、それはものすごく感じて。それは横地さんの本を昨夜読んだ時も同じく感じましたね。それはね。

 

渡部:よく言われるのは、自分の言葉で語ってるかどうかの違いっていうのがやっぱりあるのかな。 そのあたりどうかなと思って。洋充さんはもう完全に自分自身が自分に憑依してるとしか思えない語りだった。高村さんもそうですけど、僕はそういう言葉や声に敏感で、社会的に言われてることに自分の経験を重ねて喋ってる人の言葉には、全然響かないんですね。どっちかっていうと、そういう社会的文脈からから外れちゃったりとか、漏れちゃったりしてる人の言葉や声には敏感なんですけど、そのあたりも関係するのかなと思っています。

 

横地:哲学だとちょっと授業っぽくなるんですけど、自己理解、他者理解、世界理解、この 3つは相即していると言われていて、例えば渡部さんは先生として、その時にその子供たちは学生A、学生B、学生Cとして、で、そこのいる場所は教室として。急にクマが入ってきたら、そのクマに怯える人たちとして、中にその護身術が得意でクマを追い出してくれる学生さんAがいたら、自分たちを守ってくれる人として。で、教室は事件現場としてっていう意味だと、その憑依する語りとかっていう、その、なんだろう、それのもっと手前の世界理解、私の理解、他者理解は実はつながってるんだと。その中から言葉によって限定していくっていう作業があるっていうのは、哲学で言うんですよね。まあ、あの言葉にするっていうことは、その限定が強くなることだから、その限定の仕方が憑依する、憑依されるパターンで、その高橋さんみたいに自分で自分と一致して喋るパターンとかって出てくる。哲学だと一応ありはするんですけど。

 

参加者:今の話だと、教室の中のその役割関係ですよね。それがもう崩落したというか、ぶっ壊れちゃったのが水俣であり、福島なんですね。

 

横地:そうですね、社会性が全て壊れた中で、その役割存在論を超えて、その私って生身の私が出てきた時にどう語るのか。そうするとやっぱり高村さんの傷じゃないですけど、自分が傷になるのはやっぱり存在の感受性そのものになるしっていう、自分からも存在の響きを発するわけですし、そこに頼ったのがきっと土本監督とかのその「魂の翻訳を自分がやりたいんだ」っていう人たちなのかなっていう。私はだから、なんだろう。あまり言えないんですけど、いつも私が言えることじゃないんですけど、聞いて理解してると、そういうことなのかなっていう。

 

渡部:一方で、その翻訳を強いる流れがあって、つまり今の高校生語り部事業みたいなのして、これをとにかく伝承しなきゃいけないと。風化が課題だと。で、高校生語り部養成するんですけど、それはちょっと待てと言いたい。高校生にこれを例えばその事件現場に行って語らせる、説明させる。これ何だということですよね。 高村さんの話はさっきすごい関係するのかなと思ってますね。

 

高村:あれは何年前かな。3年前か。相双地区の高校 2年生の子が、いつまで私は被災者と呼ばれるんだと対話で言ってたんですよ。で、もうこんなに大熊は人が戻ってきて、もう住んでるじゃないか。でも、その子の親は東電の関係者だったよね。 だからもう言われたくないんですよ。でも、そのことは絶対口にしないんですよね。私は被災者じゃない。 だからなぜ私がそんな語り継ぐことをするんだっていうことを対話で言っていたのが、またすごく残っていて。でも、あなたはあなたの言葉で語るとみんなわかるんじゃないのかなって言ったら、どうして私がやらなきゃいけないんですか?って。だけど、私の友人たちは、大人が言っていることを理解して、大人が聞きたいことを言ってます。はっきり言ってるんですよ。はい、それが語り継ぎですね。すごい歪められてるなっても思ったし。

 

渡部:被災体験を高校生に翻訳させてるわけだけど、なんか、単なる情報伝達ですよね。気づいてるんだろうなって思うんですよね。

 

参加者:きっと語り部は、その権力筋からの圧力で、その社会性が最も強い歪め方っていうことなんですよね。だいたい既定路線のストーリーがあって、それ以外は風評加害とか名指されるし。

 

高村:私、風評、哀しいですって面と向かって言われました。

 

参加者:すみません、先生質問です。

 

横地:先生でも全然ないんですけど 笑。

 

参加者:一瞬。あの、その〈何か〉っていうのは、要するに言語化されない以前っていうと以後から見たことになっちゃう。遡及して見たことになっちゃうんですけど、その辺がものすごく難しい感じがしていて、話はそうだよなと思って読んだ後で、待てよみたいなことになって、〈何か〉と名指しえない〈何か〉とは言えない〈何か〉みたいな。これは無限遡及自分の中でちょっとしていってしまいそうなんだけど。

でもやっぱりエッジかなんか立ち上げてやっていく時には、やっぱりここでこの体験をどっかで共有したいっていう体験なのかなんか思いを共有したいっていうのは残ってるわけですよね。 その、その、なんていうと言語化するっていうことと、そのそれ以前の〈何か〉、僕ら、わだかまり、あの、高村さんがおっしゃったそのわだかまりみたいなところっていうか、そういうものとの関係で、こうなんか鬱々としながら、こう忘れてるんですけど、思い出すと、鬱々がこう扉を開けると出てきちゃうっていうんですが、その辺のその〈何か〉っていうのをどういうふうにこう、まあ本を読めってことなのかもしれないですけど。

 

横地:それは私も書いてなくて、先ほど申し上げたのが、やっぱりその傷の問題、その傷つきやすさ、ある種自分が傷そのものになることによって、その他者の存在の響きを感じてしまうと。それを言語化しろっていうのは大変難しいことで、言語化するってことは限定しちゃうことだから、受け取ったまんまを喋れないと。だから〈何か〉って言ってるぐらいの方が、受け取ってるんだけど、〈何か〉でとどめない。

 

参加者:受け取ってるって信号をとりあえず〈何か〉という風に言うみたいなことですか。なるほど。

 

横地:あと私も何も言えないですし、外側からっていう。〈何か〉を言語化できるのは、皆さんのそのやっぱり語り部の活動の時とかに、〈何か〉がちょっとその分節化されて、その言葉になっていくっていうのはあると思うんですけど、それは私は待ってないと。そのお話を伺うのを待つしかないですよね。

 

渡部:その翻訳って問題は、横地さんにね、恥ずかしくも引用されしていただいた文芸雑誌の「文鯨」に書いたことがあります。

 

横地:面白かったです。

 

渡部:雑誌に書いたんですけど、テーマが「叫びを翻訳する」でしてね。叫びが語りに変わる時みたいな感じで書いたんですけど、叫びを別に語りに変えなくてもいいんじゃないかなと、最近思い始めています。

 

横地:一応、この本の索引にありますけどね。「叫び」、結構長く引用しています。

 

渡部:「叫び」というと、そこで思い出す場面が 2つあります。一つは、仙台の哲学カフェをやっていた時にね、その対話が終わった瞬間、狂ったようにある女性が「署名をお願いします。本当に本当に被ばくから子供たち守りたいんです」って。2011年の割と早い時期でしたけど、その時にやっぱり場がシラケるわけじゃないけど、その女性の気持ちはわかるけど、場が一斉に引いていく感覚がりました。でも、そんなこと言ってないっていう切迫感を持ってきた女性はまさに僕は叫んでるとしか思えなかった。

もう一つは、2012年かな、震災・原発事故から2年目の時に、「3.11」をテーマにした哲学カフェの場で、ある女性がそれこそ狂ったようにというか、対話をしてるさなかに「なんで皆さんこんなに冷静でいられるんですか? なんで怒んないんですか? 安倍首相が駅前で喋ってるのに、なんでみんな怒ってないんですか?」みたいな感じで、けっこう涙ながらじゃないけど叫んでいました。完全にその場はドン引きしたんだけど、同時にみんなわかるんですよ、その気持ちがね。だけど、そういうものに皆、蓋をしていた時期に、そういう2人の女性の切迫した「叫び」っていうのが記憶にあります。

じゃあ、それが言葉になって語るっていう形になっていけばいいのかっていうと、その当時はそう書いてたんですけどね。最近はちょっと違うかなと思ってきています。「語り」に変えるところ、それ分化するって、「叫び」を飼いならしてコントロールしていってしまう過程かもしれないという風に思うわけです。

 

島貫:あんまりひどい状況でもう持ちきれなくて、その状況ゆえに叫ばされているわけですよね。その人はね、もうこんな大変なのにって、その大変なことに押しつぶされてるような感じで、救われたいと思ってギャッと言ってる。ここ〔=エチカ福島〕に来ればって思う。

 

渡部:そうそうそう。救われたいっていうのもあったんだろうし、共有したいっていうのもあったんだろうと思うけど、街頭で叫ぶわけにもいかないから、この場所に来ればってことで来た。

 

島貫:それはいわゆる魂の叫びで、これが届くか届かないかっていうより、ほんとこう、圧搾器にかけられてギャッて言ってるみたいな感じですよね。叫びっていうより。

 

高村さん:それこそ水俣の「悶え」。

 

渡部:ああ、そうですね。悶えてるって感じなんでしょうかね。

 

高村さん:悶えて、その悶えがどこに突破するのか。私は3月14日の夜に本当に悶えて悶えて、原発に向けて叫びがあって。

 

横地:なんか質問なんですけど、緒方正人さんの場合は狂いがあったとか転回があったとかいうじゃないですか。それで、渡部さんが叫びから語りじゃなくて、叫びのままでいいのじゃないかといったじゃないですか。私も〔今の渡部さんは〕薄々そうなんじゃないかなと思ってたんですけど、これは緒方さんの狂いと叫びは違うんですか? 転回って言った方がいいんですかね?

 

渡部:叫びではあっても転回ではないですよね。でも、緒方さんも根本から転回としか名づけようがない。宗教的な回心に近いかもしれない。例えば僕が明日からお坊さんになるみたいなことのぐらいの転回だと思うんですよ。それは話としては聞いたこともあるし、そういう経験をする人間はいるんだろうなと思うんだけど、じゃあ自分もそういう言葉を求めていながらできるかっていうと、なかなかできないというところですよね。

 

参加者:当事者じゃなければ狂えないですよね、きっと。もし僕らが共感共鳴して、それこそその人と一体化してできるんだったらするけども、どうしても理解しようとできるだけなんですよね。でも共感はできると、一緒に黙るしかない、あるいは一緒に叫ぶしかないっていうところに行くような気がする。だから、石牟礼道子さんも最初は、言いたいことが全部言えたかっていったら、言えていない。彼女は救いを不知火っていう能の形式に見出して、表現して一息ついたようなことがありましたけど、やっぱり表す言葉がないので。だからさっき違和感があるっていったのは、翻訳っていう言葉を使ってますけども、そうそう置き換える言葉がないんですよね。ないものに対する言葉に置き換えなくても、ないものに対するなんか身振りを翻訳にするんじゃないか。

 

参加者:そうすると、それを受けた行動を、まあ僕らはこうやってね、こういうことをやってるんだけど、それも一つの受け取ったものとして、やむにやまれずにやってることだと思うんだけど、そういう表現をするしかないんですよね。だからやっぱり道子さんも当事者ではなかったから、そっちにはなれないんですよね。でも、緒方さんはもうほぼ当事者ですので狂えたし、狂った末に言葉を見つけたんじゃなくて、彼の場合は息ついたところが石仏づくりだったのかなって思う。だから解決したわけじゃないけど、これをやるしかないかなっていう、まあ翻訳ってこういうことですね。

 

高村さん:当事者と当事者でない関係性であれば、その共感か黙るしかないとおっしゃったんですけど、杉本栄子さんが「水俣病は「のさり」であった」とおっしゃっていました。私はそれが理解できなかった。だけど、栄子さんの言葉の中に「他人は変えられないけれども、自分を変えることができる。だから私は話す」という言葉があって、私は資料館でそれを読んで、もう大泣きだったんですよ。私も同じ気持ちで語り部を始めたので。語り部じゃないんですけど、私の言葉で誰かの中にやっぱり傷という影響があったらいいなという。本当にちっちゃな一縷の望みだったのが、栄子さんも同じだったんだろうな。

だけど私は「原発はのさりだ」とは言えない。そこは違う。じゃあ、正人さんのように「東京電力は私である」か?それも納得することはできない。それは坂本しのぶさんと話をしていて「私は東京電力が憎いんです。でも、のさりだっていう人がいるんです。チッソは自分だっていう人がいるんです。私はいい子にならなきゃいけないんですか?」ってしのぶさんに言ったら、しのぶさんが「私は憎い。憎くていいんだ」って共感して下さったのが、すごく安堵したんですよ。あ、いいんだ、私でって。だから、それは多分当事者と非当事者の翻訳ではなくって感じ合った何かなのかな。

 

渡部:感じてしまったこと?

 

高村さん:そうです。そうです。だからシンパシーみたいなものが。だから私が水俣に通ってるっていうのがそこにあるのかなって思うんですね。

 

渡部:だから、それは「のさり」という言葉では言えないかもしれないけど、受け取ってしまった。

 

高村さん:そうです、そうです。

 

参加者:僕も水俣を知った時はそれと同じ。こんなに何にも知らないことだけど、こんなとんでもないことが起きたのか。そしたらこれはもう日本中で力を挙げてこれを何とかするためにものをしなきゃいけないだろうと最初はみんな思ってたから、水俣大学を作ろうっていう話になったわけですよ。ところが、それはね、潰れてしまったわけだから、なくなってしまったわけじゃない。今までずっとまだ残っているから、それを話し続けているっていうことだよね。

 

参加者A:通じるものはいっぱいいっぱいあるよね。この原発もそうだし、あちこちにいっぱいこういう状態のまま埋もれさせられてしまうというのかなんかね。ここが不条理だね、本当に。山本昌さんね、言ってましたよね。水俣も福島も沖縄も、よく国策と言われて不条理に強いたままになってるのがたくさんあるんだっていうふうに言ってましたね。なんか水俣に私は三泊四日ぐらいしか行ったことなくて、去年の夏頃行ったんですけども、魂の翻訳というところに当てはまるかどうかわかんないけど、水俣のあの空間自体がこう、なんだろう、その翻訳の先を生み出しているあの雰囲気というか、空間というんですかね、それはちょっとなんとなく感じて、なんか行ってお会いしたり、風景見たり、なんか食べたりしたものすべてがなんかこう、懐かしさだったり、なんかこう、「水俣病っていうネガティブな歴史がそうさせてるのか、もともと持ってるポテンシャルなのかわからないけれども、そのそこにいるのはすごくある意味居心地がいいというか、救われる感じがするんですよね、あの街が。それを感じて、言葉では翻訳されてないのかもしれないけど、なんかこの空間として、その翻訳されたものがなんかそこそこに形として残ってるというか、つながってるような気はちょっとしましたね。また行ってみたいなって思います。さっき高村さんがおっしゃったディープじゃない水俣から入ると、ディープなこと入るとだいぶ違うっておっしゃってた。 ディープじゃない水俣から入ると、その辺もうちょっと聞きたい。

 

高村さん:私は今回、水俣へ何をしに行ったかというと、SUPをしに行ったんですよ。太平洋はサーフィンはできるけど、SUPはできないじゃないですか。サーフィンやると思ったら猪苗代湖だけなんだけど、猪苗代湖って私にとっては海じゃないので。だからSUPがしたいなっていう。あとはちょっとダイビングして、それは後々なんですけど、結局ここの海には私入れないんですよ。やっぱり怖くて。津波も見てますし、セシウムのこともトリチウムのこともあって。だから憧れもあって。水俣。静かな海。

 

参加者:静かな内海ってやつだよね。

 

高村さん:だけど、あそこにはまだ仕掛け網の、もう今はないかもしれないけれども、その痕跡がまだあるといいます。で、ちょっと別の話なんですけど、その杉本栄子さんの一番下の息子さん、稔さん、みーちゃんっていうんですけど、みーちゃんに私年前に船乗せてもらって、あの人絶対船に乗せないんですよ、お客さんとか。で、乗せてもらった時に初めてお母さんの話をしてくださったんですよ。見ろって。鹿児島から出水はコンビナートがあって進んでいるだろうって。でも、水俣は原生林だって。なんでかわかるか? みんな水俣が怖かったからみんなここに来なかった。だからここは守られたと。うちの母ちゃんはそれを「のさり」って言ってた。

 

参加者:それは事故の後、公害の後にも来なくなったってことですか?

 

高村さん:そうです。もう水俣病が怖い。伝染病かもしれない、風土病かもしれないっていうことが、結局医療が健康調査も何もなく、そのわからないまま、その水俣病だけが進んでいってしまった時に、誰も来なくなって、ここを何とかしようとする人も来なかった。 だからここは守られたんだっていう言い方で、みのりさんがおっしゃった時に、あ、そういう見方をしていいなんだなって。 だから先ほどおっしゃったように、いろんな方たちのその考え方一つで見方が違うんだなっていうふうに。

でも、実際はみのるさんじゃなくて、もう一人のヤウチのひーちゃんも実は認定をされてないというのです。私は、もうお付き合い始めて13年ですけど、初めてこの前知ったんですよ。だからひーちゃんは絶対水俣病の話をしないんですよ。自分はそこから弾かれたから。だから本当に奥深い憎しみとか悲しみがあるんだなと。

 

渡部:洋充さんを翻訳するわけじゃないですけども、彼はやっぱりどんどんどんどん浪江も双葉もどんどんどんどん変わってっちゃっていて、だけどもう元々住んでいた俺たちの話なんか誰も聞きやしないよね。だけど、そろそろ水俣客でどんどんどんどん産業化され、最先端を入っていく産業の喧伝をされ、だけど自分での言葉が故郷に対する思いとか、そういうのを全部抜きにして語ることに対する恨み節をずっと最後までね、語っていた。最後の最後までそれは語っていましたね。だから本当に隙間にどんどんどんどん落ち込んでいく。 そういったたちの話で。 水俣の話ばかり。 水俣とか全然行ったこともないという。

 

参加者:すごい、こう聞いてると、なんていうか触発されるっていうか、知らないことも多いので、皆さんのいろんな考え方を聞けて良かったなと思いますし、私もあの 3.11があって、自分の集合住宅住んでたんですけども、自分の部屋が4畳半ぐらいの小さな部屋与えられてというか、自分で机を置いてそこを使ってたんですけど、本棚がバンバン倒れたりなんかして。で、とりあえずそこを本棚だけ上げて寝れるスペースだけ作って、あと全然手がつけられないんですよ、ずっと片付けるのが。それもずっと何年もそのままの状態になってて、そういうなんか心の奥底にあるものを、こう、こういうお話を聞きながら、少しはこう溶かすことできるのかなと思って、今日は参加させていただいたんですけども、ありがとうございます。

 

渡部:いやー、大きい地震があの後に何回かあったじゃないですか。その地震で部屋がなんか壊れるたびにもなんか結構しばらくなんか手つけられない。手をつける気になれないというのは、ほんとによく理由わかんないんですけど、そういうのはありましたね。

 

参加者:いや、難しい話で。私も水俣には行ったことがないので、行ってみたいなと思います。苦海浄土はすごく読みたくなる。感激したものは多いですけど、今回やっぱり参加したのは、最近やっぱり全然私も原発のこととか考えないし、話すことがないので、なんか今年の 3.11 も何のイベントにも参加しなかったんで、だんだん毎年そういうイベントもなんか下火になってきてるなっていう感じがするし、まあ今日苦海とエチカ、ごめんなさい、苦海のエチカで両方苦海、水俣のことと福島のことを両方皆さんのお話聞いて聞いて、ちょっとはまたなんかあの頃のことを思い出そうかなと思って来ました。でも難しいです。語る言葉が。さっきの何でしたっけ? ヴルネラヴィリティってこれ(スマホの翻訳)ですか?

 

横地:そうですね。傷つきやすさですね。

 

参加者:このパッションっていうのは、パッシブっていうのはパッシブ、受動態っていうこと?

 

横地:そうですね。はい。形容詞の方ですね。パッションの受け身。受難とか、パッシブはなんだろう、それこそ自分自身傷になるみたいな。とりあえず哲学にパッシブはあんまりないですね。ヴルネラビリティもともとフランス語で入って、パッシビリティでつながってるので、あるといえばあるんですけど、古井さんの用語ですかね、「パッシブになる」のは。受動性の方が合ってると思います。あの容器のようですよ。 

 

参加者:このこのパッシブは何語なんですか?

 

横地:古井さんはドイツ文学者だったんですけど、その後で芥川賞を取ったので、まあ大江健三郎さんと喋ってる。大江健三郎さんも共通言語として英語で喋ってるみたいですけど。

 

渡部:この本の中で横地さんが割とそのAさんの時間止まってる論みたいなのに注目されてたんですけども、どっちが近いですかね。

 

横地:ああ、私、さっきお話伺ってなんとなくわかったんですけど。 ああ、じゃあ答え合わせという言い方失礼ですけど、いいですか? なんか、やっぱりその魂の翻訳を生む空間なんだ、この水俣はって。そのいらして感じ取られたと。だから、やっぱ、あの、一人称の語りを、その福島についての一人称の語りではなく、水俣についての一人称の語りでも、同じ水準で、そのAさんの時間、ちょっと動き出してるんじゃないかなとは思ったんですよ。勝手にすいません。で、この本に書いてから、Aさんが変わったよなと感じました。〔【エチカ福島】13年目の『たゆたいながら』・記録、2024年03月12日に〕お話を伺った時と〔エチカ福島@水俣巡検記・報告座談会、2025年08月24日に〕水俣の報告を書いたのと。

 

エチカ福島メンバー参加者A:変わったと思います。今も高村さんの話とか聞いて、水俣はそういうところだったなって改めて思いましたけどね。 やっぱり百聞は一見にしかずですよね。行くと違うなって思いますけど。いや、あんまりなんだろう、あの、わかんないですね、あの本を読んだり映像を見たりしても、なんかあんまり頭良くないからわかんないですよ。 そういうところに行ってみると一発でわかるっていう。頭で受け止めるんじゃなくて、魂で受け取る。

 

横地:水俣って、やっぱり今でもその水俣病に対する差別みたいなものもあるんで、あんまり話せない、被爆者のと同じようにチッソに勤めてる人もいるから、親がそういう〔場合〕学校でも気楽にあんまり話しにくいみたいな、ちょっと言われてますけど、やっぱりそういう緊張感というか、ピリピリ感みたいなものも行くと感じたりするんですか?

[横地付記:エチカ福島のみなさんは、2025年に水俣を訪問し、論考を記す。これは「分断された地域コミュニティの「対立・葛藤変容」に向けた分析とプログラムの提示」(研究代表・石原明子、日本学術振興会・科学研究費助成事業、基盤研究(B):23K20062)の研究成果の一部である。エチカ福島メンバーの論考はMinamata Impactで読めます。https://minamata-impact.com/]

 

参加者A:もちろんほら、熊本大学の〔石原明子〕先生のアテンドで行きましたので、いろんな方に会わせていただきました。普通にただ観光で行ったのとはやっぱり会う方とかお話を聞ける方違いましたから、そういう方々の話はただの観光旅行では聞けないでしょうからね。そこは違ったと思いますけど、差別とかなんとかっていうのは今も続いてますよって言っている人ももちろんいるし、そうじゃない、もうそういう話はしないでくれっていう人もいるし、いろんな人たちが混在してますよね、今もね。

 

エチカ福島メンバー参加者:市長選の話なんかもあったところで、やっぱりもういいじゃないかと。もう水俣〔病〕の名前やめようという話も一方ではあったりとか、それから隣の市でやるパンフレットがコロナの文章を書き換えたので、感染症みたいに市民に熊本県内ですよ。市民に渡すパンフレットに、その感染症であるかのように広げちゃったみたいな。風化っていうのと、もう終わりにしたいみたいなものと、やっぱりそうじゃないっていう人と、それがやっぱり分断は未だにその熱い戦いではない感じであるようには伺ってきました。

 

参加者:そういう面で、やっぱり放射能、福島とすごく似ていて、なんか私も喋りたいんだけど喋れないし。それこそ学校の生徒に対しても、その当時の〈3.11〉のことをしたいんですけど、話してないですね。なんかどうやって。

 

参加者:なぜ話せない?

 

参加者:きっかけがないし、私そもそも英語の教員なので、英語の授業であるんですけど、政治の話とか時々するんですけど、なんかやっぱり原発の話は目の前にいる彼らにとっては本当に全然わかんないんだろうなと思うと、自分自身が喋れなくなっちゃうっていうのはありますよね。私は一昨年、英語で私が書いた原稿をALTの先生に直してもらうので、そしたら原発に関する英語って難しいんですね。もう発音からしてこれなんて喋んですか?みたいな、もう訛っていいですか?みたいな感じで始めたんですけど、そういうところをなんか子供たちがこれはこういう言語だよみたいなこと言ってくれると、子供たちも耳から入っていくのかななんていうのを思ったんですね。はい。

 

渡部:でもやっぱ力は要りますね。僕はね、Sさんと同僚でね、去年の月から日のことを高村さんに来て語り部の講演をしてもらったり、俺伝の館長さん来てもらったり、教え子に来て子どもの頃の被災体験を喋ってもらえたのは、やっぱり同僚に一人でも賛同してくれる人がいたからなんです。一人でもいると全然違う。あと、やっぱ洋充さんの存在がやっぱり大きくて、職場に何人か仲間がいないと、俺もちょっと一人じゃできない。原発の話をやんなきゃいけないって、せいぜい授業で喋るぐらいしかできないね。

 

参加者S:なんかちょっと攻めましたね。まあね。あとはこう一人称で喋るのはできるんです。「俺はこういう被災したから反対だ」と、「ふざけんなって思う」っていうことは、本当の単なる一人称なら言えるんです。 それはいっぱい言ってきました。ただ、それはホリゾントに流れていくバックグラウンドミュージックみたいな感じで、弾は、魂にはというか、届かないようにしか喋れないみたいな。あーわかります、この現場の感じ? あまり〔も多くの学生たちに〕届いて、そんな〔私が〕一人でそんな洗脳していいのかどうか問題みたいな感じが。だから一人か二人に届く。あの中村晋さんっていう、あの映画「ホールディング・リアット」とのコラボで俳句書かれる中村さんが、一人か二人に教室届けばいいんじゃないかっていう、そういう感じでなんか喋るしかないっていうか。

あの、何て言うんですか、もちろん、さっきの水俣をいろいろな形で味わうっていうか、私も昨日ちょうどお茶が届いたんですけど、水俣の松本さんというところの桜の園、いつも飲ませていただいて、この値段でこのクオリティはないと思って、無農薬の新茶がまだ残ってるって、それ届いたんですけど、やっぱり水俣に行って、いろいろ大畑さんの話とか、なんかたくさんのお話を聞くと同時に、美味しいものを食べたりとか、あと柑橘類を取り寄せて食べたりとかしていると、それもそういう自然風土が前からあったっていうことなんだけれども、水俣病事件があってから、そのむしろ無農薬とか自然のものというものを大事にするというのは、70年間の歴史の中で積み重なってきて、だから僕が行った時に、うわぁ大変だと当事者の話を聞いて震えて帰ってくるっていうだけじゃないものとして、トータルに水俣っていうものを受け止めたっていう感じがありましたって。単なる感想ですけど、そのハイブリッドっつうか、その積み重ねられたって、自然と事件と、その後の営みっていうのがミックスされて美味しかったっていう面もあったっていう。

 

参加者A:決して一つじゃないんですよね。皆さん言ってることもね、決して一つじゃないし、決してまとまって何かみんな奇声を発してるわけじゃなくて、みんなそれぞれにそれぞれのことをしっかり主張してたりするんですよね。「緒方さんの石仏なんかも違うと思いますけどね」ってガイドしてくれる人がいったりする。裁判をガリガリやってんだから、これじゃない、こんなの慰霊とは言わないけれども、そういう感じで淡々と、いや、これは違うと思いますかなんか言って通り過ぎていく人にガイドしてもらったりとか、そういうところはああいうのなんだなみたいな。

 

横地:Aさんのお話を聞いてると、受け取る人もそれぞれだし、ただ、Aさんがおっしゃるように、やっぱり水俣という空間が広がっている。そうですね、きっと水俣史アプリオリ、水俣病的アプリオリと言えるとしたら、その空間のところなんですよね。だから意見が全然違ってよくて、でもその空間だから違ったことも言えるし、重なったことも言えるしって。

で、すみません、ちょっと硬く言うと存在論的アプリオリっていうんですよ、その空間。そのこの空間だと、Aさんはこうおっしゃる。Sさんがおっしゃるほうと重なることもあるし、違うこともあるけど、水俣っていう空間だから言えるっていうこと自体がその存在論的アプリオリで、空間を指す。まあ哲学で言うとどうしようもないですけど。

 

渡部:時間と空間という問題ですね。僕は、水俣でそういう人たちに出会わせていただいたので、思想や言葉がすごく豊饒な土地だというのは、2017年に初めて訪問した時にすごく感じたんですけど、他方で水俣の高校の先生の話を聞かせられると、もう水俣病の学習をすることはもういい加減にしてくれって、生徒の方も感じているし、授業をやる人たちも少なくなってるし、実はそれは水俣に住んでいる教員が少ないないことが一番大きいんじゃないかっていう話ね。住んでいない人たち、やっぱり通いなんですね。で、あの、何て言うか、僕らが出会った人たちの言葉だけ拾っていくと、すごくその水俣って何か特別感すごくあるし、もちろん特別な言葉しかないんだけど、でもやっぱり他方で水俣の人たちには石牟礼道子の本が読まれていないとか。読まれてないんですよ。

 

参加者:知らなかった。

 

渡部:そうなんです。だから、そのなんかパラレルワールドみたいな部分をやっぱりどう考えるかっていうのは問題で。水俣だからこうなんかみんなああいういろんな意見があって、言葉も豊饒でみたいなのは、やっぱり、どこか一面的なんだよね。

 

参加者:パラレルでその一面だっていうことが素晴らしいですよね。

 

参加者:『苦海浄土』が読まれてないっていうのは、あえて読まない?読みたくないから読まないんですか?

 

S:やっぱりチッソ関係者もやっぱりいっぱいいるから。チッソの方はやっぱり読まないみたいですね。だからそのチッソの方たちと、あとやっぱり患者の方とかの本当に狭い町の中で、こう本当に入れ回しっていうのが、その、そういう街なのかな。

 

渡部:だから、授業をやっても 理系っぽい探究学習しかしない。つまり水俣の水銀はそんなに危険じゃないですよという調べ学習みたいな。それは福島の放射線量は安全ですよと高校生に言わせたい放射線教育と同じみたいな。なんかそれちょっと感じました。

でも、伝承学習になってしまうとお腹いっぱいになっちゃうんですよね。もうね、つまんない。だからパラレルワールドでよくて、子供たちに何か喋った時に弾が当たらないように喋れって〔Sさんが〕言ったじゃないですか。それ本当にすごく大事なことで、その時は当たらないけど、そのうちの何年か後に当たった、時限爆弾みたいに爆発する子がいて。

 

高村さん:それは期待してますよね。喋るからには。

 

参加者:そこで当たっちゃうと問題になるから、その当たった時限爆弾がその子たちが大人になった時に爆発するように埋め込んでおいて、その子たちがそう思った時に寄る場所が福島に作られてるといいなって思うんですよね。

 

高村さん:新潟水俣病を学んだ大学生が学んだだけだった。卒業してから「阿賀に生きる会」っていうのを、今の若い子が立ち上げたんです。

 

渡部:この前、浪江の映画上映会で、S君っていう東北大の大学院生が環境アクティビストとして、グレタ・トゥンベリみたいなことをやってて、彼のドキュメンタリーができて、それを観に行ったんですね。で、S君に高校時代とか中学校時代に何かそういう社会的な問題意識とか何かあったの? って聞いたら全くないと答えたんです。で、なんでこんなことできたの? って聞いたら、大学に行ってフードバンクの活動にちょっと誘われて行ってみたら、そこでやってる弁護士さんとか先輩たちのその熱い熱さに絆されたというんですね。

 

参加者:だから、出会うしかないのかな。

 

参加者:全員の魂に響いたら大変なことになる(笑)

 

参加者S:それはもう、それはやばい。神様いることになっちゃうから(笑)

 

渡部:Aさん、この本の最初にさ、「私自身、〈3.11〉が近づくからという理由だけじゃなくて、あの日、福島に逃げ惑っていた自分を思い出します。 今現在も同じ思いでいるんだろうな」という言葉が引用されてるじゃないですか。これはもう変わったってことなんですか?

 

Aさん:なんか、止まってどうしていいかわかんなかった。止まってるってことは、どうしていいかわかんなくて、とどまっていたわけですけども、水俣に行ったら、あ、こういう風になっていけばいいんだなっていう、一つのモデルケースみたいな雰囲気を感じましたよね。

 

渡部:じゃあ今現在も同じ思いけど、そこから変わった?

 

参加者A:かもしれないね。 言われてみればですけど。ああ、こういう風になっていくんだ、こういう風にソフィスティケートされていくんだなとか、ああ、こういう風にみんなじべじべた忘れないでいるんだなとか、いろんなことはないですけど、そういうのは感じはしましたよね。

 

渡部:この辺はどうなんですか?皆さん。

 

高村さん:私自身も私は一番最初に水俣入ったのは「もやい直し」からなんですよ。 地域の分断、分裂、どうやったらできるんだろうと。私は個人としてしか動けないんだけれども、じゃあもうやり直しって何?っていうので単純に入っただけなんですけど、結局もやし直しはないんだよねって言われた時に、はい? だってもう、水俣イコールもやし直しじゃないですかって思ったら、一人一人が変わらなきゃ無理でしょということになって。一人一人がその前のその前の結局もやし直しなんかないよっていう、一人一人が変わんない限りは無理なんだからっていうので、一人一人が変わるって。水俣でもまだ答えはないよねって。それをずっと私たちも考えてるんだよって言われて。 え? 70年って?と思って。 それこそ西田敏行さんの伝承館のシアターで「俺の目の暗いうちには廃炉になんねべな」って。そのことだよなって思って。私が生きてるうちには絶対廃炉になんないから。ずっと、もうずっと私はカスかだっているんだなと思ってて。 私の語りではカスカダリなだけですよ。

 

参加者:カスカダリは毒舌を吐く。毒舌を吐くっていう意味。要するに悪口っていうか。いや、それぐらいの調子でいいと思いますけどね。

 

参加者:話変えて申し訳ないけど、もやい直しって、あれって人間関係のことを基本的に言ってると思うんですけど、私今回思ってるのは、自然と人間とのもやい直しが必要なんだろうなって。それは水俣でも一生懸命やっているけれども、なかなか難しくて、コンクリートで埋めたけど、なんかそれも今ちょっとだいぶ何そのコンクリート盛り上がってきてなんかだとかいうのもあるし。なんかその福島もそれが一番難しいんだろうなって。人間同士は人間、そのうち死んじゃって世代が入れ替わっていくだろうけど、自然、自然は許してくれないだろうなっていう。

 

参加者:魂の翻訳は可能かっていう、私は可能だと思いました。それはまさに創作者じゃない第三者が何か本を書いて出すことで始まるんだなと思うんです。私の〈3.11〉を他の人が書いたのを見て、ふざけんなよと思うこといっぱいあるんです。私じゃねえのに。その気づきが自分も何者かわかんなくて。その気づきとか怒りがまさに自分の翻訳につながって、それを他の人が書いてくれなきゃ気づかなかったことなんですが、自分はこういうところに怒りを感じるんだっていうのがわかって、それが翻訳なのかなって今日聞いてわかったので。 第三者が書くと多分文句言われたりすると思うんですけど、それは気にしないか、覚悟の上で出すしかないんですけど、それが翻訳の始まりかなって今日思ったのと、あと今日救われたっていうのは、この国と東電に対して怒りしかないんですよね。でも、生徒が言ってくるんですよ。「先生、世界平和とか言っていますけど、その企業、東電、国を許さなければ平和を語る資格がないんじゃないですか? 」みたいな。

そう言ってきて、それをずっと悩んでたんですよ。だけど、水俣にいて怒ったままでいいと聞いて、ああ、それでよかったなって。で、伝承が今歪められて、私の中の伝承、やっぱり子供にこのもやもやした怒りを引き継ぎたいんですよ。でも直接俺は東電怒っているからお前も怒れ、そんな押し付けができないじゃないですか。子供は知らないし。でも身近にニュースとか見ながらこうこうだよねとか言ってると、だんだん洗脳されてきて、選挙権持ったんですけど、絶対与党には入れないわけですね。あ、しめしめ引き継いできたと。それが今の喜びと。洋充さんの葬式出て、やっぱり自分の死を意識して、3つしか(年齢が)違いないので、我々と伝承をどうやってしようかっていうのを今考えてて、一人二人って言ってたけど、やっぱり子供なんですよ。2人いるので。水俣でいろいろ書いたノートとかは見せてないんですけど、取ってるんですよ。私が死んだ後、子供が発見して遺品整理して発見して、お父さんこんなに怒ってたんだっていうのを引き継いでもらいたいな。今の夢。でもだんだん洗脳されてきたので、この作戦はこの怒りを引き継ぐ、モヤモヤを引き継ぐ作戦はうまくいってるなって。今日はこの 2時間、すごい自分が肯定された感じで、とても勉強になって嬉しかったです。ありがとうございます。

 

参加者S:すいません。最後ちょっと話伝えて終わりたいんですけど、あの、すごく文学的だなっていう風にこの本思いました。失礼かもしれない。 「横地は」って出てくるところが「うわっ!出てきた」みたいな感じがあって。横地はこれは言えないみたいなところがありつつ、でも粘るじゃないですか。 しかししかし、これはしかしこれ違うよねって話あんまりしないんですよね。 しかしで積み重ねてバームクーヘンつーかなんつーですか、こうミルクレープみたいになりながら、そして時折横地はってこう出てきつつ、その何か何かには触れないんだけどっていうのは、その横地さんがやっぱりその受容体として様々な。だから聞きたいことは神様がいるのといないのとの違いもあるし、それから九鬼周造のそれとこの水俣のそれは違うアグスティヌスとか聞きたい。もう生徒として聞きたいことはいっぱいあるんですけど、それはもう聞ききれないんだけれども、そういうものに触れながら、脇に行って触れながら、この苦悩の話を、道行きをずっとね、同業二人じゃないですけど、読者と一緒に横地さんがこう歩んでいってくれてるっていう、そういう文学作品的に読みました。以上です。感謝。

 

 

映画「ホールディングリアット」×中村晋『19→25』記録

 2026.06.13. 15:20-16:10· 51mins

渡部:

 皆さんこんにちは。市内の高校で教員をやっている渡部と申します。

先ほど阿部さんの方から言論カフェ・カフェロゴというんですけども、これは 2017年から継続している活動でです。映画でも本でも何でもテキストにして、自由にみんなで話す場を作ってきました。フォーラムさんでも、こういった映画を見た後に、お互い思ったこととか、いろいろ考えたことを語り合う場を提供していただき、非常にお世話になっています。

  今日はですね、この『ホーディング・リアット』を観た後に、こちら中村晋さんの『19→25』という句集をテキストに語り合いたいと思います。これはですね、『ガザ日記』という、まさにガザで被災している作家アーティフ・アブー・サイフアの日記をですね、俳句に翻訳的に歩と仕込んだ句集という、非常にユニークかつ挑戦的なテキストなんです。ここには『ガザ日記』だけじゃなくて、中村さんご自身がずっと福島で過ごされ、見てきた日常を詠った句も織り交ぜてあり、モンタージュ的な作りになっています。

 先ほどちょっと中村さんとお話ししたんですけども、この映画はリアットというイスラエル側から見た描き方であるのに対して、同じ時期に『ガザ日記』は10月7日から12月末までを記述しています。 これがガザの方から描いたテキストということで、それを俳句に落とし込んだというのが中村さんの作品なのですが、まさに表と裏から見るという試みになります。

 全然打ち合わせもないのでどうなるかわからないんですが、こちらは今日50分ほどお時間をいただいて、20分ぐらい中村さんと私の方でやりとりした後、会場の皆さんと色々やりとりをしたいなというふうに考えておりますので、よろしくお願いいたします。

 皆さんは手元にこちら資料がありますかね。 こちらはですね、ちょっと紹介しておきますと、フォーラムの阿部さんと私と中村さんがそれぞれ『19→25』からガザに思いを馳せて選ぶとしたらどれだろうかと、各々が選んだ五つの俳句を載せてあります。 これがお互いに絡み合うのかを全然打ち合わせしないので、どうなるかわかりませんが、こうしたことも交えながら、皆さんと今日は対話をさせていただければと思います。

 では、まずですね、句集については著者の中村さんからご説明というか、解説というか、思いというか、そちらをまずお話いただいとことから始めたいと思いますの。では、中村さんよろしくお願いします。

 

中村晋:

 こんにちは。 中村晋と申します。 えーと、俳句を作り続けて三十年ぐらいになるんですけれども、本当にここ十年、まあ十五年、震災ですね。 震災があってから、やっぱり社会的なこと、それからその環境的なこととか、世界的なこととか、いろんなことがものすごく噴出してきて。 で、俳句っていうのはすごい小さな世界なんで、身近なことを書いてればいいっていうふうなイメージだったんですけども、やっぱりなんかそれでは追いつかなくなってきて。 で、私の俳句の師匠の、あの、もう亡くなりましたが、金子兜太っていう方が、やっぱり社会とのつながりから今を書いてくれっていつも言ってましたので、やっぱりその言葉にこう励まされながら生活していて。 

 2023年の10月にガザのハマスによるイスラエル攻撃という出来事が起きたもんですから、それに目を背けるわけにはいかず、このフォーラムさんでもいろんな映画が上映されてましたので、それを見ながら考えていた時に『ガザ日記』っていうアーティフ・アブー・サイフアっていう方なんですけども、まさにあの2023年の10月7日にガザに彼はいて、そして十二月の末にエジプトの方に脱出する。それまでの克明な記録がが(『ガザ日記』に記されていた)ので、それを読んだんですけども、そこにはもう本当に壮絶な中身がおびただしく書かれているので、これをなんとか忘れてはいけないなと思って、単純にメモしてたんですけども、メモしてるうちにそれが韻律というのかな、そういうのを帯びてきて。

 正直言うと五七五のリズムではなく、もう自由律みたいな感じでなってるんですけども、それでも何か響くものがあるのかなと思って、それが106句、2024年の暮れにできて、それもったいないのでどうしようかななんて思ってたんですけども、やっぱりもう今しか出すチャンスないなと思いまして、 2019年から作りためてたものと合わせて、この度二月にこの作品集を自費出版ですけれども、作らせてもらいました。

それを、ちょっと近くの人に読んでもらいましたら、ぜひともという形で、今日こういう場になったという形になります。今日は時間も限られてますし、ということで、ここに十五句、一句重なってますから十四句かな。紹介させてもらいました。 まあそういうのをテキストにしながら、皆さんのご意見いただければ、感想とかね、考えたこととかシェアできればいいなと思います。 よろしくお願いします。

 

渡部:

 それではまずこの三人で選んだ五つの句のところから入っていきましょうかね。 この五つを三人がそれぞれ選んだんですけども、重なってるものが一つしかありません。 阿部さんが選んだ一番最後の「ガザに触れつつ受験子現代史を厭う」という句は、私の選んだものと重なってるんですけど、これを阿部さんはなぜ選んだのかなというところ聞きたいんですけど?

 

阿部:

 はい。中村さんの俳句はこの問題に関心のある人が読むとですね、やっぱりすごく一句一句興味深くて、僕も何度も読んで、今回五つ選んでくれって言われて、この新聞記事(毎日新聞に連載されている阿部さんの「たかが映画 されど映画」)に書いたものとは全く別のものをあえて選ぼうと思って五句選ばせてもらったんですけど、この「ガザに触れつつ受験子現代史を厭う」っていうのは、やっぱり僕が今一番関心を持ってるのは当事者性という問題であって、パレスチナとかこのガザ紛争に限らずですね、イスラエル、パレスチナ、特に中東の映画は本当にお客さんが入らないんですよね。

  都市部でもなかなか厳しい状態です。どういう意味か。そもそも日本人にとって、その中東そのものが全然、まあ文化的にも歴史的にも非常に遠いし、高校の歴史の教科書に出てくるスペースは本当にほんのちょっとだったしと思うんですね。 僕の世代はそうだったんですけど、今もおそらくそうじゃないのかなということと、まあそういう意味ではなかなかその世界史を取っていても、今のこの現実この状況に、その世界史の勉強がどれほど生かしてくれてるのかなというところでいうと、なかなか関心を持ってくれる若い学生って少ないんじゃないかなというところを思ってたもんですから、そういう意味ではこの句っていうのは、若い人たちだけじゃなくて、僕らも含めて、やっぱりこの問題っていうのは、人ごとではなく、もしかすると自分事かもしれないという観点で関心を持ちたいなと僕自身も思っているところに、この句はちょっと響いてきたなというところかなというふうに思います。

 

渡部:

 はい。ありがとうございます。当事者性っていうのは、まさにその、僕もその通りで関心があるんですけど、僕がこれ選んだのは、実は二週間ぐらい前ですかね、まさにパレスチナの問題を授業で扱って、その時にですね、NHKスペシャル『正義はどこへ~ガザ攻撃1年 先鋭化するイスラエル』を生徒と見ながらやったんですけど、そこに登場するイスラエル側の高校教師がですね、ガザのこの惨を「これは問題である」とSNSで発信した瞬間に逮捕され、それで戻ったら戻ったで、学校の教え子たちにバッシングされ、学校から追い出されるというドキュメンタリーだったんですね。 イスラエルではこんなに何も言えない状況になっているのかということで衝撃を受けて、そういう姿を生徒に見せつつ授業を展開したんですけど、これ、授業あるあるなんですけども、熱く語れば語るほど生徒が引いていくみたいな状況だったりして。

  まあ、僕の授業が下手な証拠なんですけど、パレスチナの問題がまさに現状こんな風になっていると訴えれば訴えるほど、相手が引いていくみたいな。そういうのを想像しながら視聴させていたんですが、まさに当事者性の問題です。福島でこれを見ることの意味とか、想像力っていうのは、リアット自身が、まさに壁の向こう側に行って見て初めてフェンス(壁)の意味合いが変わり、自分の認識が変えられていくんですよね。 夫は殺されたにもかかわらず。けっきょく、そういう直接経験でしか、物事は理解できないのかという問題なのですが、この点はいかがですか?

 

中村:

 いや、俳句の場合、もう自由に受け取ってもらって結構なんですけど(笑)

  この句を作ったのは2023年。それこそガザの事件が起きたとき、息子がちょうど受験生だったんですね。この時期にね、歴史とか勉強してた時に、これはひどいよね。これ、本当にその昔の大世界大戦とか、その前のイギリスのめちゃめちゃな三枚舌政策っていうのが元になってて、もう本当にひどい話だよねなんていうことを、なんとなく話してたんですね。 で、その年、実はフォーラムさんで河邑(かわむら)厚徳さんっていう映画監督の『沖縄戦の図』っていう作品を、僕が実行委員をやって上映させてもらったりして、やっぱり現代史と現代の出来事と、それから歴史とっていう話が、 よく家族でもちょっと話してたんですね。

 そこでまたガザの話になって。ひどいねって話した時に、息子が「やっぱ受験勉強してると、なんか、もう世界史にしても日本史にしても、現代になるとなんか辛いんだよね。なんか、もう人間っていうのは信用できないんだよね」みたいなことをポロッと言って。 歴史勉強するのが、ちょっとしんどいんだよねなんていうことを言ったんですよね。関心はあるんだけども、でも受験勉強とかそういうのを覚えていく時に、嫌な記憶と一緒に覚えなきゃいけないっていうのは、本人辛いっていう。 そのことを面白いと思えないっていうね、なんかそういうことをポロっと言ったので、そのまま句にしたんですけども。 それは、やっぱり社会を教えてる教師とか、あるいはいろんな場面で考えてる人にどこか響くところがあったのかなって思います。

 

渡部:

 現代史は本当に凄惨なことがどうしても多いですし、そういう意味でいうと、この中村さんの『19→25』の句を読んでいると、なかなか凄惨な場面が句になって表れてくることが多いですよね。 実は、僕はそこをちょっと外して選んだ句ばかりなんですが、たとえば、その中村さんの句を見ると、例えば「ちぎれた手が朝日をつかもうとしている」なんて言う句は、もう、生々しく目に浮かんでくるようですし。

 「ガザの少年遺体を驢馬励ます」とか、本当に辛い場面を句に落としているというところが印象的でもあるんですが、そういう場面っていうのは、中村さんは日記をこういう句に落とすというか、翻訳するっていうのは、どういうプロセスでやられてたりするんですか?

 

中村:

 そういう点では映画と同じなのかな。 映像で書くっていう方法ですね。 映像に見えるように示して、そしてその絵のように。まあ、俳句なので五七五とか、そういう臨律のリズムがあるんだけど、リズムの中に見せる映像で、それをパッと示すことで感じてっていうスタイルをとりました。

  で、まあ、俳句の場合、「切れ」っていうのがあって、「何々や」とかね。その映像を 2つ重ね合わせると、映画のモンタージュっていう手法にもなってきて。 だから俳句と映画って似てるなんていう話もあるじゃないですか。  だから、そういう映像で示すと、なんていうのかな、悲惨っていう言葉を使わなくても、その凄惨な状況っていうのがみんなに伝わる。この今日の映画の裏側で起きているガザで起きていることの一端が、この俳句で示すことできてるかなって今思いましたね。

 

渡部:

 本当に読み返してみて、映像としてこうパッと入ってくる句になっている。 それを想像するっていうのは、まあ、ちょっと息子さんじゃないですけど、僕はなかなか辛いところもあるなと思います。だから、そういう句は外してみた気がするんですけど、どちらかというと僕は「朝が来た 生きている 腹が減る」っていう句にですね、僕としては震災の時のこともちょっと重ねながら選んだかなというところもあって。あの時は皆さんもそういう思いがあったかどうかはわかりませんが、もう、朝起きると夢だとしか思えない現実だったんですよね。 「腹が減る」っていうこととはちょっと違うかもしれないけど、そういうものを想い起しました。

 あとは、あの当時、津波の被害に遭われた方が「なぜ自分は生き延びたのか、その理由がわからない」とか、「なぜあの人は亡くなって、私が生き残ったのか」みたいなことを話された方がいらっしゃって、その人の言葉もまた思い浮かび、これを選びました。

 それから、僕は職場の学校で避難所をずっと 1ヶ月ぐらい運営に携わってたんですけど、浜通りから避難してきた受験生が一人いて、 医学部を目指してるって彼は言っていたんですが、ずっと落ち着かないはずなんですよね。 落ち着かないはずなのに、やっぱり自分でこう参考書持って、体育館の片隅でずっと受験勉強する。だけど、落ち着かないからまたウロウロするっていう姿を、この「病棟宿題をする子一人」という句に重なりました。もう、全然先行き見えないけども。虐殺のさ中にそんなに教えたり学んだりする意味なんて、本当にあるんだろうかって思ったりしながら「砂に書いては子に母が字を教えている」っていう句を思い浮かべたり、いろいろ自分の記憶と交錯させながら思い浮かべたところです。

 中村さんの国は割と「驢馬」という言葉が多いんですけども、これは?

 

中村:

 驢馬はね、好きなんですよ(笑) 驢馬とか蠅とか、なんかそういう生き物が出てくると、自分の俳句は生き生きしてくるなと思って。 自分だけだと面白くないんですよね。変な生き物がポンと出てきて、それに代弁してもらうっていうのもあるかなと思って。

 今まで見た映画の中でも驢馬出てきて、「ガザ素顔の日常」って句だったかな。あの中でも少年たちが驢馬を引いたりというのがあったし、イスラム圏では驢馬を荷物を運ぶ動物として使って。 いつだったかな、 20歳の頃ですけど、シルクロード行ったことあったんですよ。 中国のあのトルファンとかウルムチとか、あっちの方に行ったことあって。 子供たちがね、驢馬をピシッとケツ叩きながら一緒に生活してるっていうのを見て、すごくね、のどかな風景だったっていうのを覚えてるから。 だからそれが生きてきたのかなと思って。でも、それがその中で日常の生活、そして戦争とかね、あの惨劇の中で一緒に暮らしてる。生きてるっていうのが、なんかすごくね、そういう場面が『ガザ日記』の中に随所にあったので、やっぱりそれは目に留まったなっていう感じですよね。

 

渡部:

 この五句をご自身で選ばれたっていうのは、どんな思いがあるんですか?

 

中村:

 うんとね、やっぱりこう、悲惨な状況なんだけども、どっかやっぱりその。 なんつうか、頑張れって言いたくなるようなね、そんなところがあるのと、それから「死者生者を曇天のガザに置きて去る」っていうのは、これは最後にアブー・サイフさんがガザを脱出して、エジプトに避難できるんですけども、その時に自分だけ生き残ってガザを去るってことに、やっぱりすごく心の痛みを覚えてるんですね。

  なんか、生き残った自分が本当に申し訳ないっていうか、なんかそんなことを思ってる節があって。 これってやっぱりね、震災の時でも、多くの人が亡くなってる中で生き残って、あるいは戦争、第二次世界大戦ね、太平洋戦争のあと生き残った人の言葉にも、そういう言葉が結構ありますよね。 だから、やっぱり、そういうのは同じなんだなと思ったし、今日の「ホールディング・リアット」でも、リアットはね、最後、自分は生き残ったっていうか、サバイバー、それにすごく違和感を持つみたいなシーンもあったし、そういうところはすごく共通するななんて思っています。

 

渡部:

 阿部さんはこの五句を選ばれたのはどういった点なんですか?

 

阿部:

 僕は、やっぱり「月よガザは戦争映画のセットではない」っていうのは、やっぱり自分がこういう仕事をしているので、そもそもこういう映画はお金を取って、こんなこと言ってたら身も蓋もないんですけれども、日本ではやはりこういう映像に触れる機会っていうのが、映画興行っていうところでしか、あまりプレゼンスがないというか。

 これを例えば BSとかそういうところで、どこかのテレビ局買い取って、日本人に無料で見せるみたいなね、そういうような動きっていうのがもう少し積極的にあってはいいんではないのかなって。

 実際、こういう映画上映をするたびにですね、果たしてこれは映画館がすべき仕事なんだろうかっていうところも疑問としては、実はあってですね、そういう意味では、これを映画館というのは本来その憂さ晴らしというか、一時のそのなんていうか、楽しみというか、娯楽として来られる場所だという認識の方が強いと思うんですけど、でも一方でこういう役割も演じざるを得ないというか、そういうところで僕も複雑な心境がちょっとあるんですけど、そういう意味ではこの映画は、いわゆる記録映画であって、深く問題を深く考えて、そのなんて言ったらいいのかな、決してそのポジティブな感情でお客さんが帰っていただくような映画ではないところをなんですけど、でもそういう一つのメディア的な役割を担わざるを得ないということに関して、非常にアンバレンスな思いを持ちながら、こういう映画をずっと上映している。その気持ちっていうのがあるもんですから、この句っていうのがなんかちょっと当事者性が自分にあるなというふうに思います。

 あと、「能登にガザにフクシマに触れ初授業」っていうのは、初授業というのは、もうこの句の通りですね。 ガザの問題も福島の問題も能登の問題も含めて、やはり日常の中に心の隅にとどめをしたいというこの意識ですね。それがやっぱりすごく大切だなと思って共感しました。

 あと、「ガザの子ら腕に名を書く死後のため」っていうのは、本当にこれは痛切ですよね。 いつ死ぬかわからないという状況の中で、子供たちも生きているわけで、そういう現実っていうのも、今実はあそこにあって、これ、歴史の皮肉としか言いようがないんですけども、昔、映画の最後でリアットがホロコースト記念館にイスラエルの若い高校生を連れて、そのガイドしている時の言葉で、ゲットーとか壁について話しますけど、それを八十年前に自分たちがされたことを、今自分たちがしている側なんだよということを多分彼らに伝えたいと思うんですが、壁の内側に住んでいる人たちっていうのは、いつ死ぬかわからない状況の中で一日一日を生きてるんだなっていう、そういう現実を生きている人たちが厳然とあそこに二百万人いるんだっていうことを、やっぱりその我々は知っておかなくちゃいけないというか、そういう思いをすごく持っていまして、そういう意味ではこの句は響いてきました。

 あと、「語れぬまま爆死した虐殺の目撃者」っていうのもあるんですけど、実はこの映画の前に、この新聞の寄稿にも書いたんですけど、「手に魂を込め歩いてみれば」という作品の、これはパレスチナ、いわゆるガザっていうのはもう誰も外国人が入れませんから、結局ガザに住んでいる人たちがSNSとかスマホの映像で自分たちの状況ってものを伝えるしかなく、そういう意味ではこの映画というのは、ファトゥマという当時二十三歳の女性がイラン出身のジャーナリストで、イランのいわゆる圧政、女性に対して非常に苛烈な政策をしている国ですから、若い頃イランっていう国に疑問を抱いてフランスに亡命したイラン人のジャーナリストの女性とSNSで繋がって、映像で二人はやりとりをする。 その交信の記録をそのまま映画にしたんですけど、このファトゥマという女性っていうのは、その監督と交信して一年半か二年足らずですね、二十五歳の誕生日を迎えた直後にですね。いわゆる空爆に遭って、家族八人とともに殺されてるんですよ。  そのファトゥマという女性のその言葉を聞いていると、本当に死生観が違うというか、自分がとにかく明日死ぬかもしれないんだけど、自分がそのこの時代を生きた証、私がどう生きたかっていうのを、あなたを通して伝えられることに喜びを、少なくとも救いを感じるというかね。

 だから、我々歴史をっていうのは、例えばホロコーストの時っていうのは、ドイツが降伏して、あそこに連合国軍が入って、初めてそのホロコーストっていうのはこういう実態があったってことを後で知るわけですよね。 でも今、この状況っていうのは、まさにあれにあれと同じことが今繰り返されているっていう、この現実をリアルタイムで、このデジタルの時代に映像で見せられているということに関して、やっぱり我々自身もすごくそういう意味ではあの時代とまた違うというか、ここに対してどういうふうに思いを持って生きていったらいいのかなっていうところで、自分自身も本当に戸惑ってしまうというか。

 そういう意味では、この語れないまま爆死した虐殺の目撃者っていうのは、そういうファトゥマのように語ることもできずに殺す、死んでいった人たちっていうのが、もうすでに多分がれきに埋もれて行方不明っていう風に算定されされている人も含めると、ゆうに十万は超えるだろうという専門家の見立てですから、そういう意味では非常に、そういう現実ってものがあるってことに愕然とせざるを得ないっていうふうに思って、この句を選びました。

 

渡部:

 はい、ありがとうございました。 あの映画のこととかもちょっとお二人にお聞きしたりもしたいんですが、あの、もうあと大体二十分ぐらいなので、会場の皆様ともやりとりしたいので、いかがでしょうか。この句でも中村さんの句でもいいですし、まあこの映画からいろいろ感じたこと、考えたこととか、そういったものをあの、もうご自由にご発言いただきながらやりとりしていきたいんですけど、はい、いかがでしょう。 まあ、印象に残った句を選んでいただいてもよろしいですし、あと映画のこの場面とこう、関係つけてもおっしゃっていただいてもいいです。

 

中村:

 俳句と映画の主題がこうやってつながるっていうのは珍しいことだから、質問もしづらいかもしれない。

 

渡部:

 質問というよりなんかね、ご感想をいただいてもいいですかね。はい。あんまりそういうのよくないかな。中村さんはちなみにこの映画に関してどうなんかこう印象に印象深かったことってなんかあります?

 

中村:

 細かいことは結構あるんだけど、じゃあ二つね。

  やっぱり、生き残って戻ってきてからのリアットの最後の言葉が、すごい印象的だったかな。やっぱりその向こうのハマスの人たちと話せばやっぱり理解し合えるんだとか、やっぱり向こうで見たそのガザの状況っていうのに、やっぱりそれなりに相当衝撃を受けて、そのフェンスの向こう側のことなんか今までわかんなかったけども、わかるようになったんだっていうような、そんな言葉で、そのパレスチナの他の人の言葉だけど、パレスチナの解放はイスラエルユダヤ人の解放でもあるみたいなね。 そんなシーンありましたよね。うん。

 あれは、だからハッと思ったのは、あれはなんか日本国憲法なんだなと思ったの。 だから日本もすごい敗戦の後にもう戦争しないっていうことで、自分たちを解放して。まぁ、他の国からの植民地だったけども、あの憲法を作って、もうそういうことしないことで自由になっていこうっていうね、なんかそういう宣言と結局同じなんだななんて思ったんです。 間違った解釈かもしれないないけど、なんかね、そんな思いを生まれましたね。 うん。 あとね、バイデンが電話で喋ったけど、結構やっぱあの時ボケ始めてたのかなっていう感じ。 まあそんな印象かな。

 

渡部:

 僕はやっぱりリアットがよくラジオでね、あの発言ができたなというところがやっぱりちょっと驚きで。それは勇気なのかなと思うんですけど。例えばやっぱり拉致の問題なので、北朝鮮の拉致問題を僕は観ながら思わずにはいられなかったんですけど、そこで帰ってきた人たちのいろいろな話はあるんですけども。何て言うんですかね、リアットのように自分がパレスチナ人やガザに対する見方が変化したことをやっぱり言わずにはいられない自分の変容を語っているじゃないですか。翻ってみると、北朝鮮の拉致問題で帰ってこられた方々の発言というのは、やっぱりまだ彼の国に残っている人たちもいる。 それ故にどこか、こう歯切れが悪い気がする。本当はみんなに言いたいことがあるんだけれども、そこはやっぱり語っていないというか、そういうなんか不自由さを僕はちょっと感じたりもするんですが、どうなんでしょうかね。 リアットはよくあんな風に語れたなって。

 

中村:

 そうですよね。はい。そこがこの映画のなんかちょっとひどい話なんだけど、ちょっと救いがあったかな。

 

渡部:

 そうですね。NHKスペシャルに登場する高校教員は本当にひどいバッシングを受けたんだけれども、でも結局は高校現場に戻れるんですよね。同僚たちが戻れるような運動をしてくれて戻れたんだけど、でも番組では、それをしてくれた同僚と彼が対話する場面あるんですけど、相手は基本的にはやっぱりイスラエル右派の思想を譲らない。だから意見は絶対的に折り合わないまま、ずっと平行線のまま対話をずっとしていく過程で、絶対折り合えないんだなっていうところを見せつけられるドキュメンタリーだったんですけど、そんなようなことも印象に残ってますね。 

 

観客:

 大勢の前で語るようなことは別にないんですけど。 何て言うんですかね、私も同じく、そのリアットが帰ってきた、戻ってきた後の発言がちょっと気になりまして。その壁っていうのは物理的なものなんでしょうけど、自分たちが知らない側の言い方を知ることによって、自分の考え方が変わるみたいなことだったのかなってちょっと思ってて。 なんか昔『怪物』っていう映画がありまして、被害者と加害者っていうような、なんていうか、それまで見てたのとは別の角度で物語を語ることで、最初イスラエル側が拉致された側なんで一時的に感情移入するわけなんですが、後半その後っていうのは見方がやっぱ少し変わるっていうのはあったのかなと思いました。 多分歴史を見ると戦争ってずっと起きてて、何て言うんですかね、みんながその相手側のことを考えられれば、戦争っていつかなくなるのかなと思いながらも、その壁の向こう側を全員見ることができないので、なんかこう、平和っていうのは難しいのかなっていうような感想を持ちました。

 

中村:

 ホロコースト記念館を解説するリアットの場面で、壁の向こう側で火事になってるのに、こっち側の人は何も手を出さない、無視してる。 その矛盾っていうのを詩人が何か書いてるんだっていうようなシーンありましたよね。詩人っていうのは、だからそういう役割、そういうのでちゃんと記録していかなきゃいけないんだなっていうのも、一応詩人の端くれとして、なんかすごくハッと思わせられましたね。 やっぱあのシーンはすごく印象に残りました。

 

渡部:

 リアットがその場面で壁の向こうの相手を承認をしなければ、認めなければ、またそれが繰り返されるというような言葉を最後にその彼女はつぶやいてというか、でもその認識に至るっていうのはやはりなかなか難しいところなんですかね。

 

観客2:

 ありがとうございます。 高校の英語教師をしていますけれども、あの渡部さんと中村さんも、もし高校でこの件について授業をなさったことがあるのであれば、ちょっとお聞きしたいんですけれども、私も英語の授業でガザの詩人でリフアト・アライールという、「もし、私が死ななければならないなら」っていう詩を書いた人の詩を題材に2回にわたって授業をしたことがあるんですね。で、渡部さんが先ほどNHK のドキュメンタリーを見せた時に、強く語れば語るほど生徒が引いてくるっておっしゃってて。 私の授業の時もあまり最終的にやるべきことはやってくれたし、自分なりに詩を書いたり、感想もいっぱい書いてくれて、少しは響いてるんだなって思えたんですけれども、どうすればその高校生に対してもうちょっとこう、興味を持ってもらえるような授業ができるのか、あるいはなぜ引いてしまうのか。  彼らは。 私も熱く語っていろんな映像を見せたんですけど、なんかこう、あんまり反応がないとか、そういうのがあったので、どうすればいいのかなって。 今でももっともう一回その、その授業をアップデートしてもう一回やりたいんですけれども、何かアドバイスがあったらお聞きします。

 

渡部:

 やっぱ、熱く語っちゃダメなんですよね(笑)。なんか資料に語らせるしかないかなっていうのはずっと思ってるんですけど、なんか相手がこう、無関心になっていくことを感じるほどムキになるみたいなのはまだ甘いなというふうにこの間反省しました。 いや、もう難しいです。 ほんとね。世界史の先生なんてどうやってやってんだろうって思うんですけど。

 

中村:

 やっぱ難しいですよ、それは。例えば、ガザっていうことを扱う時に、その元になるガザの状況の土俵を作んなきゃいけないんですよね。 一緒にこう土台を作って広場を作って、そこに乗っかってきてもらうっていう。その作業が一番大事だから、それなしにやっちゃっても引かれちゃうね。 で、何て言うんだろう、それなしにやると余計こっちが強く出ちゃうから引かれるっていうのもあるし、やっぱりどうしてもこういうテーマは自分なりの考えを持ってやるんですけど、授業でやるんだけども、その考えっていうのを、彼らは「思想が強い」って言いますよね。うちの子供も俺のことをお父って言うんですけど、「お父は思想が強い」っていう風に。やっぱりすごい嫌われますよね。 そうならないようにするのは? って思いながらやるんですけど。でも、今の若い人たちはそういう捉え方をしますよね。そこが難しいところですね。この間の僕も見たネットの記事で、ケン・ローチ監督が日本に来た時に、新聞記者に「あなたは左翼だって言われてるようですけど、本当なんですか?」 って言ったら聞いた記者がいたらしくて、それにケン・ローチは「あなたは、あのローマ教皇にカトリックですか? って聞くのと同じですよ」というふうに答えたっていう話があるんだけど(笑)。まあ、開き直ってやるっていうのを一つの、何言われても私は私っていうのもありかなとも思うし、まあと教室に生徒が40人もしいたら、その中の一人二人ヒットすればいいっていうふうに思いますね。

 

渡部:

 生徒だけじゃなくて、このあいだ印象的だったのは、二週間ぐらい前にパレスチナ/イスラエル問題の専門家の方に、僕ら社会科教員の研究会でお話していただいたんですね。 すごく深くて面白くて勉強になったんですけども、終わった後に実は若い先生が同僚の先生に「どうだった?」って聞かれたんですって。 その同僚っていうのが実は僕の友だちなんですけど、彼がその若手にそう聞いたら「面白かったです。 面白かったですけど偏ってますね」っていうふうに言ったっていうんです。パレスチナ/イスラエル問題で偏っててどういうことなんだろうかなっていうのを思いましたね。その先生は三十代ぐらいの若手なんですよね。若手の方で今話題の「中立性」とか、そういうものがもう自分の中の軸になってるっていう問題。 その若者や高校生でも、やっぱりそういうのがあるのかな、どうなのかなって思ったりはしましたね。

 

阿部:

 じゃあ、ちょっと今の話からいいですか。まあ若い人に関心を持ってもらうっていうのは、やっぱドキュメンタリーはなかなか難しいんで、最低限劇映画とかで、やっぱりあのシンボリックに描いた劇映画で共感してもらうってことはありうるのかなというふうに思いますね。  だからちょっと例は思い出せないんですけど、今そのイスラエルパレスチナ問題っていうのは、歴史を遡れば、少なくとも一九二〇年代のイギリスの統治ですね、あの時代から積み上げていけば、普通に考えて全然偏ってないわけで、一方的にパレスチナは被害者であり、イスラエル他日本を含む国際社会が加害者だというふうになっていくはずなんですね。 だから、そこをちゃんとあの説明していくというか、そうすれば若い人は感受性が豊かですから、「あ、そうか」というふうに僕は納得してくれると素直に思うんですけど。

 ただ、どうしてもそれは知識とか教養っていうところでいうと、しんどくなってくるでしょうから、やっぱりアイドルが必要なのかなって、劇映画なんかではね。今のところイスラエルですらいないし、パレスチナはもちろんアラブ社会にも日本にはいわゆるアイドルがいないんですよね。そういう意味では、僕がすごくやっぱりサブカルチャーの力がすごいなと思ってるのは、例えば日本にフランスっていうものが浸透したのは、アラン・ドロンっていう俳優が昔いて、若い女性がアラン・ドロンに「キャー」っていう風になっていて、あの「太陽がいっぱい」とか見ていくうちに、フランス映画のマーケットってのが日本の観客の中にできていったというふうに聞かれるし、教えられましたし、僕自身もリアル体験としてあるのは、やっぱりペ・ヨンジュンが冬ソナで大ヒットして、あれから韓流ブームが起き、やがてはその女性を中心に韓国語講座が市民レベルで開かれていって、実際に現地にロケツアーに行くだとか、聖地巡礼するとか、韓国の料理教室をやって、韓国文化と日本のその市民レベルでの民間交流っていうのができて。一方で嫌韓だとか、その政治的な流れもある。そういう意味では男社会のレベルからいうと、非常にささくれだった嫌韓なんかの議論がある一方で、しっかり民間交流できているわけですし、そういう意味では、なんかこの中東とかイスラエルっていうものに関して、いまだに映画の部分でいうとアイドルがいないなっていうか、あと大ヒットした劇映画もまだないなというふうに思います。

 あと、やっぱりこの問題についてハリウッド映画というところから言ってみれば、「アラビアのロレンス」。あれがやっぱり日本ですごく受けました。でも、今「アラビアのロレンス」をこの状況を受けて見直したら、「アラビアのロレンス」は非常に一方的なものであるし、あとこの状況を今受けて「シンドラーのリスト」を見れば、やっぱりこれはスピルバーグはユダヤ人であり、これは一方的すぎるんじゃないかというふうになるでしょうし、当時公開された時の評価とはまた違った部分で一歩前進できるのかなというか、そうやって少しずつ何かこう、まあサブカルチャーを通してね、関心が強まっていって、だんだん深みにこう分け入っていくということはありうるのかなというふうに思いました。

 

渡部:

 物語性があるというのは、やっぱりすごく高校生が問題に入っていくのにはいいですよね。 もちろん、映画はちょっと長いので授業でなかなか見せられないから予告編しか見せられないんですけど、予告編見せただけで食いついてはくることありますね。 

 

中村:

 サブカルチャーって今ね、話に出てきた時に、なんか宮崎駿の未来少年コナンっていうアニメかな。 映画版もあるんですかね。 あれがなんかガザの子供たちの間で集めて上映会があって、すごく人気あったっていう、聞いたことあります。 ガザの子たちも、そういう形でね、関心を持ってもらうのが難しければ、こっちの関心をね、こう届けるみたいなね。  そういうのもね、あるんだなと思って。 だからなんかね、できることがあればね、なんかと思いつつ。

 

阿部:

 昔、あの四方田犬彦っていう批評家が今いるんですけど、彼があのイスラエルの映画祭かなんかに呼ばれた時に、黒澤明の「七人の侍」ってものをイスラエルの若者たちみんな見ている。 で、あの映画を見ると、これは自分たちの映画だというふうに非常に盛り上がるんだそうです。  というのは、その野武士、乱暴な野武士に蹂躙されるあの農民、あれは我々だと抵抗する、抵抗してると、彼らはね。 で、七人の侍を雇って、その抵抗しようとして、あれに共感するんですよ。 でも一方で、パレスチナの人たちに七人の侍を見せると、これは俺たちの映画だって言うんですね。 そういう意味では、やっぱり映画の力はすごいなと。

 

渡部:

 では、ここでお開きにしたいと思います。おつきあいいただきありがとうございました。

 

【開催日時】2026年6月13日(土)

      13:30~15:20(映画上映時間)

      15:20~16:20(言論カフェ時間)

【会  場】フォーラム福島(福島市曽根田町7-8)

【ゲ  ス  ト】中村 晋(俳人・福島県立高校教諭)

【参加申込】特に必要ありません。映画券の購入は各自で行ってください。

【開催趣旨】

2023年10月7日のハマスによる襲撃事件に端を発したイスラエルによるガザへの報復攻撃は、停戦合意後もなお断続的に行われており収束の見通しが立ちません。これが非類のジェノサイドであることは論を俟ちませんが、この惨劇に対し、われわれは今なお手をこまねいて注視するほかに為す術はないのでしょうか。

映画『ホールディング・リアット』は、ハマスによって拉致されたリアット夫妻を救い出すべく、彼女の両親をはじめとする家族が奮闘するドキュメンタリー作品です。

ガザ襲撃以来、拉致された被害者家族は、それを取り戻すためにイスラエル軍によるガザへの攻撃の中止を要請しています。しかし、イスラエル国内ではその行為そのものが反政府的であるなど反発を招き、市民の間で意見が分断されている状況があります。このような中で、果たしてパレスチナ/イスラエルの分断の可能性などありうるのか。

 今回のカフェロゴでは、本作品を通して参加者の皆さんと対話しながら、その問いを考えたいと思います。その際に、俳人である中村晋さんがガザをめぐって編んだ句集『19→25』を介しての言論カフェを試みたいと思います。『19→25』は、中村さんの第二句集であり、連作「生きるガザ」を挟み込んで編集されました。これはアーティフ・アブー・サイフ『ガザ日記:ジェノサイドの記録』(地平社)を、俳句という形式で翻訳的に表現した挑戦的な作品です。

 『ホールディング・リアット』がイスラエル側から映像化された作品であるのに対して、『19→25』はパレスチナ・ガザ側の視点を福島人である中村さんが翻訳的に詠んだ作品です。この複数の立場からの交差を通じて、少しでも多くの参加者の皆様にパレスチナ/イスラエルの問題に思考を深める機会となれば幸いです。多くの来場者をお待ちしています。

 

【作品紹介】https://forum-movie.net/yamagata/movie/7270

2023年10月7日、イスラエルの農業共同体(キブツ)ニールオズが、ガザから侵入したハマスに襲撃された。住民およそ400人のうち4分の1が殺害されるか人質となり、リアット・ベイニン・アツィリと夫アヴィヴもガザへ連れ去られる。父イェフダら家族は、2人を救うため行動を開始。リアットがアメリカ国籍を持つことから、イェフダは人質解放を求め、バイデン政権に働きかける代表団の一員として訪米する。しかしそこで、⼈質家族の存在が、イスラエル政府による戦争継続の「理由」として利⽤されている現実を知り衝撃を受ける――。愛する家族の帰還を願う切実な視点を軸に、政治、歴史、分断された価値観が交錯する本作は、イスラエル・パレスチナ問題を多層的に描くドキュメンタリーとして話題を呼んでいる。

■第75回ベルリン国際映画祭 最優秀ドキュメンタリー賞受賞

 

 

【ゲスト】松谷彰夫 氏(元福島県立高校社会科教諭)
【課題図書】『裁かれなかった原発神話―福島第二原発訴訟の記録』(かもがわ出版) ※各自でご購入下さい
【日 時】2026年7月18日(土)※14時~16時
【会 場】福島市写真美術館多目的ホール(福島市森合町11番36号)
【参加申込】メッセージへご氏名を記入してお申込み下さい
【参加費】会場費が発生する場合は、人数に応じてご負担いただきます(200~300円程度)
【開催趣旨】

本書は、松谷彰夫氏が2011年の福島第一原発事故が起こる36年も前から、原発の安全性に疑問を抱き、設置許可の取り消しを求めて国と闘った住民たちの記録をまとめたものです。
地裁、高裁、最高裁と、いずれも司法は住民の訴えを退けましたが、その訴えはさながら旧約聖書のノアのごとく「3・11」の原発事故を予言してしまいました。
松谷氏は長年にわたり福島県立高校の教諭として教壇に立ち、多くの教え子や後輩たちに大きな影響を与えてきた伝説的な社会科教師です。
その著者をゲストに迎え、共に語らう機会を企画しました。
多くの皆様のご参加をお待ちしております。