本会は、エチカ福島の第24回目の活動として開催され、東日本大震災から15年を迎える節目に「子ども世代は3.11をいかに経験したのか」をテーマとして設定された。司会の渡部により、当時小学校入学直前だった3名の大学3年生(A氏、B氏、C氏)を招いて開催された。
渡部は背景説明において、自身が高校2年生の担任として総合的な学習の時間で3.11をテーマに取り上げた際の経験を共有した。卒業後にその授業実践や【3.11】に関する思いについて3名の学生からレポートを受け取り、予想以上に深い内容が書かれていたことに驚かされたという。
A氏は浪江町請戸出身で、津波により家が土台しか残らない被害を受けた。現在東京の大学に通う彼は、メディアの震災報道に対する強い批判を展開した。特に3月11日前後にのみ福島を取り上げる東京のメディアの姿勢を「アリバイのため」と表現し、地元の文化が全く紹介されない現状を問題視した。また、能登半島地震の復旧状況を見て、福島の経験が全く活かされていないことに失望を表明した。
教育面では、A氏は高校時代の受験偏重教育に疑問を呈し、「命があるからこそ受験ができる」という当たり前のことが教育現場で軽視されていると指摘した。15年前の経験を知った人間として、防災教育の重要性を強調し、地域ごとの具体的な災害リスクを教える必要性を訴えた。就職活動を控えたA氏は、自分が批判してきた「嫌な大人」になってしまうのではないかという葛藤を率直に語った。メディア業界への就職を考えているが、既存の社会システムの再生産に加担することへの不安を表明した。
B氏は福島市在住で、父親が小学校教員として県外で避難児童の支援に従事したため、小学2-4年生の間は父親と離れて生活した経験を持つ。当時は父親の異動理由が分からず寂しい思いをしたが、高校の探究学習を通じて父親の仕事の意義を理解できたという。B氏は自身の勉強不足を認めつつ、震災について語ることの難しさを表現した。父親が被災者でありながら支援者でもあったため、家庭内でも軽々しく話題にできない雰囲気があったと振り返った。現在塾講師として働く中で、震災を知らない子どもたちが増えていることを実感し、どのように伝えていくべきか悩んでいると述べた。
C氏は東京の大学で社会学を学び、卒業論文で震災後の家族間での語りについて研究している。県外の学生との交流を通じて、福島の原発事故に対する認知度の低さを痛感したという。C氏は震災時に母親がスーパーで泣き崩れた体験を通じて、「大人が揺るぎないもの」という認識が変わったと語った。その後の学校生活で、教員たちも道しるべがない中で教育に取り組んでいることを理解するようになったという。
3名に共通するのは、震災について「語らない」「語れない」状況が続いてきたことへの問題意識である。C氏は特に、被災地の子どもたちが「復興の象徴」として扱われることへの違和感を表明し、家族間でも話せないことが多いと指摘した。
参加者からは様々な質問や感想が寄せられた。教員からは予定調和的な震災教育への反省や、命を守ることを最優先とした教育の必要性について議論があった。また、語ることの重要性と同時に、語ることの困難さについても深い議論が交わされた。
会議の最後に、渡部個人的な体験として、避難所で出会った小学生の親子の話を語り、原発を容認してきた世代として「とんでもないことをしてしまった」という思いを表明した。その子と同じ年齢である3人を含めた担任学年への特別な思いと、今回の対話の意義を強調して会議を締めくくった。
【チャプター】
## 開会挨拶とエチカ福島の活動紹介
島貫氏による開会挨拶で、エチカ福島の4名(島貫、渡部、深瀬、荒川)による13年間の活動について紹介された。今回で24回目を迎え、福島の中でどんな声が聞けるか、どんな声を出していけるかを考え続けてきた活動であることが説明された。
## 司会による背景説明と企画の経緯
渡部が司会として、今回のテーマ「子ども世代は3.11をいかに経験したのか」の設定背景を詳細に説明した。3名の大学3年生は震災当時小学校入学直前で、渡部が高校2年生の担任時に総合的な学習で3.11を扱った際の生徒たちであった。当時の授業実施には多くの困難があり、浜通りの被災地出身教員の言葉や被災生徒への配慮など、リスクを伴う取り組みだったことが語られた。
## A氏の体験談とメディア批判
浪江町請戸出身のA氏が、津波で家を失った体験と現在の思いを語った。メディアの震災報道について厳しく批判し、3月11日前後のみの報道を「アリバイのため」と表現した。地元の文化が全く紹介されず、移住者の文化ばかりが取り上げられる現状に疑問を呈した。能登半島地震の復旧状況を見て、福島の経験が活かされていないことへの失望も表明した。
「私自身、その十五年をということなんですけれども、浪江町の請戸と言いながら、どれだけの皆さんに伝わっているのかなというふうに思うところがあるんです。
請戸にどれぐらいの人がいて、何があったのかとか、そういう人の営みって消されてるのかななんていうことを思ってました。 メディアの皆さんによる福島の復興っていうものをある意味定義づけ、あっちから押し付けてきてるような感じがすごいしてしまうんですね。 今年の15年目ですけれども、ある意味アリバイのために流しているような気がして」
## 教育への問題提起と就職への葛藤
A氏は高校時代の受験偏重教育を批判し、「命があるからこそ受験ができる」という基本的な認識が欠けていると指摘した。防災教育の重要性を強調し、地域ごとの具体的なリスクを教える必要性を訴えた。就職活動を控え、自分が批判してきた「嫌な大人」になることへの不安と葛藤を率直に語った。
●「自分が通った高校は大学受験して国公立大学に行きなさいっていう学校なんですけど、受験勉強、受験勉強、受験勉強、偏差値云々っていう話ばかり。でも、それって命があるからできるじゃないですか。 それは日常が当たり前が当たり前としてあるからこそ、三年間の学習が終わり、受験が終わり、大学だ専門学校だ就職だ、いろんな道に進んでいくわけであって、その当たり前が当たり前じゃないっていうことは、十五年前我々知ったはずなんですよ。それがどこにも入ってない。」
「でも先生方だって保護者の方だって被災をしている。それを使ってやるっていうことを高校二年生のときに、純先生が、いろんな葛藤があったみたいですけれども、授業でやってくれたっていうのはすごい自分の中で大きかったですね」
## B氏の家族体験と語ることの困難さ
福島市在住のB氏が、父親の県外異動により小学2-4年生の間離ればなれになった体験を語った。当時は理由が分からず寂しい思いをしたが、高校の探究学習で父親の支援活動の意義を理解できたという。父親が被災者でありながら支援者でもあったため、家庭内でも震災について語りにくい雰囲気があったことを振り返った。
●「両親の姿を見ていた自分の自分が体験したというよりかは、家庭内の様子の記憶が結構大きいなって思ってて。父が支援の形で県外に行って、 父自身も被災者の一人であるにも関わらず、支援者という形で 2つの役目を持って働いている姿っていうのも見ていたので、私自身が何の知識もないのに、支援を受けを受けている側の私が軽々しく話題として出せるような空気感ではなかったし、私自身が勇気がなかった。 家庭で話題を出した時に、ご飯を食べながら喋れるような軽い話題でもないし、お父さんからしたら個別性のあるものだし、私が知ってどうするの? っていう話でもあるし。 ただそれに向き合わない限り、私自身もちょっと寂しかったなとか、あの時こういう思いをしてたなっていう部分を忘れてしまうんだろうなっていうのが最近思うこと。 プラス今。 塾講師をさせていただいてて、今の中学生とか小学生とか高校生になる子たちとかも関わる機会があって、東日本大震災のことについて、やっぱりその前に生まれてない子たちがいて、その歴史のこの東日本大震災っていう言葉を書くこともできない子がいる。 そこに福島に住んでいても、これってやっぱり生まれてないと勉強しようと思わないと、知ろうとしないと、やっぱりわからない子たちがどんどんどんどんこれから増えていくんだなっていうのをすごく身近に感じて。」
●「私以外にも小学校を避難して、小学校の時に避難して帰ってきた小学生のお友達って結構いっぱいいて、図工の時間に「あなたの故郷、地域の故郷を描こう」みたいな課題があって、さらっと「私の故郷ってまだ帰れないんだよね」って言った。 この言葉が結構忘れられなくて。 でも、小学校の当時の私からしたら、何も返せる言葉もないし、今も返せる言葉はきっとまだ見つかってなくて。 今は福島市にずっと住んでいられるけど、もし次の日に帰れませんってなった時、周りの周りにいた大好きな友達はどこに行っちゃうんだろうとか、私の大好きな地元の食べ物とかフルーツとか食べれないじゃんとか、リアルに考えるようになったのが今で。 より一層今ある生活の中での価値っていうのをすごく感じていて。 私自身こう知識がまだまだ浅い、知らない情報もいっぱいあるし、その情報っていうのもいろんな人の声を聞いて作っていくもので、一方の面じゃなく、てまだまだ答えは出ないんですけど、何かこう、自分の中で東日本大震災と向き合って、じゃあ自分はどうしていくのかとか、答えは出てこないんですけど。 」
## C氏の大人観の変化と研究への取り組み
東京の大学で社会学を学ぶC氏が、震災時に母親がスーパーで泣き崩れた体験を通じて「大人が揺るぎないもの」という認識が変わったことを語った。卒業論文で震災後の家族間での語りについて研究していることを紹介し、県外学生との交流で福島の認知度の低さを実感したことを述べた。
●「今、東京の大学に通っております。その中でほぼ東北出身の子がいない中で、東日本大震災の話を授業の中で取り上げ、自分が話題を出して何か話し合おうっていう時に、他県の子とか首都圏の子たちの認知度が低いというか、どういうことがあったのか、どういうものだったのかっていうところを知っている子が本当に少ない。 なんなら宮城県出身とか、岩手県出身、山形県出身、近県の子でも福島県の原発事故っていうものがどういうものだったのかっていうことを知っている子が少ない。 卒業論文では、この東日本大震災以後のこの家族間でどういうふうに語りが行われているのかとか、情報共有とか心情共有がどういうふうにされているのかっていうところを主題にして研究していきたいなというふうに現在考えているところです。 私たちは当時小学校に上がる前の6歳だったので、大人っていうものが揺るぎないものだと私自身感じていたんですけれども、一番震災の時ですね。親というものがなんか揺らいだというか、人間なんだなってすごい感じたエピソードがあって。 スーパーに買い物に行ったら、やはりなんかこう何もないわけですよね。 棚の中に何もなくて、缶詰となんかちくわしかなくてみたいな。 で、母がなんかスーパーのなんかもう電気も消えてて、なんかガラスとかも割れてるスーパーで、「ちくわしかない…」って言って、そのスーパーの通路で泣き崩れちゃった時があって。父はこう父で震災のそのホットラインの電話番とかで当時はいなくて、母が子供 3人抱えた状態で多分ギリギリだったんですけど、そのスーパーの異常さを見て、すごいもうなんか精一杯になっちゃったみたいで、なんか泣き崩れてしまったんですけれども。 なんかその母を見た時に、「あ、大人って人間なんだ」っていう風に感じて。 そこから小学校に上がっていく中で、なんか先生たちもこうつらい経験をしていて、小学生の私たちのことを導いてくれる存在ではあるんだけども、先生たち自身もこう道しるべがない中で教育というか、関わっていかなきゃいけないっていう状況に置かれているんだなっていうのをなんか感じることが多かったかなと思っています。」
## 参加者との質疑応答・語ることの意義について
参加者から3名への質問や感想が寄せられた。家族間での会話の困難さ、語ることの重要性と同時に語ることのリスクについて議論された。教員からは予定調和的な震災教育への反省や、命を守ることを最優先とした教育の必要性について意見が出された。
●「その時子供だった私たちって、なんかこう、復興ですよとか、復興してます、福島が復興してますとか、なんか東日本大震災後、こんな大変なことがあったけど、今頑張っていますっていう、すごいわかりやすい、なんかこう商品じゃないけど、そういう代名詞にされてる感じがするのが私自身はすごく嫌で。 なんか記事を書く側としてはすごいドラマチックだし、なんかそういう被災地の子たちが今は明るく元気にいますよっていうのってすごく分かりやすくて、すごく心にも響く内容なんだけど、それだけで終われないというか、家族間ですら話せないことがいっぱいあって。 私がすごくずっと感じてたのは、避難した子が戻ってきた時に、「あ、誰々ちゃんって転校生だよね。 で、戻ってきたんだよね」みたいな話になって、「あ、そうそう、山形行ってたんだよね」とかになったら、「あ、そうなんだ」って言って、そこから先、その山形でどんなことがあったのかとか、その時私たちはどうだったのかとか、そういうなんかすごく他愛もなくて、本当だったらなんか全然話してもいいし、聞いてもいいことが絶対に聞いちゃいけない、なんか暗黙の了解みたいになって育ってきた認識があって。 なんか、そういうことも話せない。話してこなかったからこそ、なんかどう話し出して、周りの人に聞いたらいいのかなとか、聞いてもいいのかなとか、そういうのがわからないし」
## 教育現場での震災教育の課題
教員参加者から、予定調和的な震災教育の問題点と、本質的な教育の必要性について議論があった。小学校教員からは、自分たちの教育の成果が見えにくいことへの悩みと、今回の3名の成長への感動が語られた。理想的な小学校教育のあり方についても議論された。
● 「3月11日なので黙祷しましょうってあったと思うんですけど、なんか四年生ぐらいの時に初めてなんか体育館で映像を流したんですよね。 で、そこで今から津波の映像が流れますから、なんかまあ各々目をつむりたい人はつむっていいし、見る人は見てくださいみたいなアナウンスがあって。 先生たちもなんかいろんな表情、その時にすごいいろんな表情をしてたなって、子供ながらに思って。 なんかそれまでって先生たちのことを別に人間として見てなくて。 なんかこう、「先生っていう生き物」だとして確立されていたので、なんか先生たちにも個人の感情があって、好き嫌いもあるっていうのが、その時すごい人間として見えたというか。 それで先生たちも多分賛否両論あって、言葉にしづらいこと、だから先生たち一人一人のその状況っていうのは。 そのことをきっかけに、先生たちも全員が同じ考えを持ってやってるわけではなくて、一人一人に何かこう、これをやるのには反対だとか賛成だとかもあるし、そういう震災教育について触れていきたい先生もいれば、触れていきたくない先生もいる。 自分の傷を公開して、先生はこういう出来事がありましたって言ってくれる先生もいれば、別にその公言を差し控える先生もいらっしゃったので。 なんか私たちは被災して、こう、大変だね、かわいそうだねって言われて育ってきたけど、その周りにいた大人だって同じように被災して、そういう経験をしてきて、私たち以上に責任とかいろんなことがあったんだろうなっていうのを、その時なんかぼんやり思って、多分家で母とかと喋ったんじゃないかな。」
●「防災訓練なり避難訓練なりあると思うから、なんかそこっていうよりかは、じゃあ何が予定調和かなって思うかって言ったら、あの、今までだったら震災だけじゃなくて、戦争教育とかもそうだと思うんですけど、なんか辛いことがありました。 みんな辛い思いをしました。 大変でした。 こういうことがありました。 はい、感想を書いてね。 すごくつらかったと思いますみたいな。 大変だったと思います。 書いて出せば OK みたいな。 それが予定調和だなってすごい小さい頃から私は思って。 なんかもっと紐解いていったら、個々の事例っていうのがやっぱりあって、なんか大変だったことばっかりじゃなくて、なんかその中でも、じゃあこういうことがあって、なんかこうだったんだよみたいな。 私だったら、例えばお母さんがちくわを持ってスーパーで泣いたっていう話があったら、なんか大人ってなんか絶対じゃないんだなみたいな。 いつもは強いお母さん、いつもはなんて言うんだろう、子供たちのことを叱りつけて、なんかこう。 でもやっぱり大きな愛で包んでくれる母だけど、やはり母も一人の人間であってっていうところが見えてくるから、なんかそういうことをなんか紐解いていける教育であってほしいなって私は思っていて。 震災っていっぱい揺れて、いっぱい津波が来て大変だったなって思った、こういうことがあったってことじゃなくて、なんかもっと紐解いて、子供に今から生まれてくる子、育っている子に言えることとすればつらいし、親に語ってもらうことって容易ではないんだけど、自分の親がその時何を感じていて、どんな不安を持っていてっていうところが聞ける家庭環境であるとは絶対には言えないですけど、そういう家庭環境であるとか、周りの大人に聞ける環境があるとすれば、なんか人間のなんか営みっていうのがどんどん見えるのかなと思っていて。 なんか本当に辛かった、大変だっただけじゃなくて、そこに生きてる人間が今も生きていて、それってこういうことなんだよねっていう流れが見えるというか。 より実際に自分の経験というか気持ちというか、自分の中に何かが残るんじゃないかなと思うんですよ。 なんかこう、戦争教育って小学校、中学校でやってきたけど、自分の中に何かが残ってますかって言われると「大変だったな」とか、そういうことしか残らなかった。その時の人たちはすごい悲惨な思いをしただろうなとかも思うけど、その人たちの生活が見えるのかとか、その人たちの顔がわかるかとか、近いものだと思えるかどうかっていうのが物事を伝えていく時に、その人に残るか残らないかの差だと私は思っているので、そういうところが近いところの存在として捉えられるかどうかっていうところで変わってくるのかなって思いました。」
●「確かにその 80年、戦後 80年というところで、じゃあそういう教育をその予定調和の中でやって、可能性として見えてくるものはほぼ確かにないんですよ。 それはある意味、教科書的なものを習ってて。 でもそのまいた種が、それこそ 10年後、 20年後、何かで咲くかもしれないしっていうきっかけになるんだったら、果たしてこれ無意味じゃないんだろうなっていうことも思っていて。 なので予定調和をどれだけ予定調和として全力でやるかっていうのも大事なのかなと。 その言い方悪いですけど、予定調和を、なんだろうな、ロボットかのようにやるんじゃなくて、やっぱり予定調和の中にもできる限り心を込めるというか、そういうのも見えてこないので、なんかそれがああ、お決まりなんだろうなって見えてくる理由、ちょっとそこにほんのひとひねりスパイスとして入れてくっていう、この難しさですよね。」
## 政治的行動と市民活動の多様性
参加者から政治的な解決方法と市民活動の多様性について議論があった。トップダウンのアプローチだけでなく、草の根の活動の重要性についても言及された。柏崎市長選での市民候補の例を通じて、様々な社会参加の形があることが紹介された。
## 震災当日の記憶の共有
参加者からの質問を受けて、3名が震災当日の具体的な体験を詳細に語った。A氏は幼稚園での避難体験と津波への恐怖、B氏は卒園式直前の混乱、C氏は家族が一箇所にいたタイミングでの地震発生について、それぞれ生々しい記憶を共有した。









