『哲学への権利』上映&言論カフェ@フォーラム福島3
2025年5月16日(土) 上映15:10~16:30 ·言論カフェ16:45~18:10
フォーラム福島で開催されました『哲学への権利』上映会と言論カフェの対話記録です。
当日は、同映画作品の監督である西山雄二さんをゲストに招き、50名の参加者に恵まれて内容の深い議論が交わされました。以下、その記録です。

映画製作と上映、国際哲学コレージュの変遷
西山雄二:
映画館支配人の阿部さんと、渡部さんにこのような機会を作っていただき、本当にありがとうございます。この映画自体は2009年に最初に作って公開をしました。 それで2009年から13年まで、いろんなところで上映をしました。映画館というよりは大学ですかね。 上映の後にこういう討論会みたいなものを必ずやりました。 大学とか人文学の問題や将来性に関する討論会をやりました。
この映画は、基本的にフランス語ベースで製作されていますが、英語版、韓国語版、ドイツ語版まで作って、アメリカ、フランス、ドイツ、ブルガリアとか韓国、中国とか台湾とかイスラエルとか、結局11カ国で全部で68回上映をさしてもらうことができました。今日は13年ぶり69回目ということになり、本当に感謝しています。
いろんな国と地域で上映をして、日本では東京だけじゃなくて、こういう地方も行って、違った現場の意見を聞くことができました。映画は難しい本を読むよりも、参加しやすいところもありますので、入り口という点では適切な手段です。
渡部さんは東北大学で見たことがあるとさっきお聞きしました。また、当時に映画を見た学生が今、イギリスのカトリーヌ・マラブーのもとに留学をして勉強していたりと、私が知らないところでご縁があったりもします。
この映画は国際哲学コレージュという、パリにある教育研究機関のドキュメンタリーです。この映画を撮った後、2010年から16年に私自身がこの機関のディレクターに選ばれたので、パリでセミナーを担当する期間が6年間ありました。 その時のテーマが「哲学と大学」で、その成果は日本でも『哲学と大学』(未來社)、『人文学と制度』(未來社)という2冊の論集として出版もされております。
国際コレージュは1983年にできた組織なんですけれども、2013年と2023年に30年、40年のアニバーサリーを迎えました。その時にも登壇をして発言をしたこともあります。なので、この映画では外側から取材をさせてもらったんですけれども、その後は中に入って一緒に活動するという縁にも恵まれました。勁草書房さんから2011年にDVD付きで本を出すことも叶いました。DVD付きの本は珍しいと思うのでありがたいかぎりです。
今日はどんな方が来られたのかわからないんですけれども、フランスの哲学の文脈とか、ジャック・デリダという21世紀後半の重要な哲学者の思想であるとか、大学の今日的な問題とか、哲学の立場とか、この映画にはいろんな文脈があるので、なるべくそれにお答えできればと考えています。
国際哲学コレージュは現在も存在をしています。ただ、この映画が作られた15年前と比べると、相変わらず弱体化が進んでおり、予算も減らされております。15年間で本当に大学業界は熾烈なグローバルな競争にさらされ、イノベーションをしなきゃいけないとか、留学生をたくさん入れなきゃいけない、国際化をしなきゃいけないとか、さまざまなノルマが課せられております。こういった大学の縁で、ささやかに存在しているコレージュのような研究教育組織には、かなりのプレッシャーがかかっています。 実際、この15年間、大学ランキングがかなり幅を利かしており、人々はそういうランキングになびいてしまっています。フランスでも大学ランキングを上げていかなければいけないということで、選択と集中でいくつかの大学をまとめてしまおうという案が出てきました。 2006年ぐらいから始まり、2013年に「大学共同体」というのが作られます。
フランスの大学は、とくにパリの大学は小さいので、一個一個だと競争力がないんですね。 なので、いくつかの大学をブロック化して、大きな大学共同体を作るという流れです。 国際哲学コレージュもその中に吸収されました。パリの北部を中心とした大学共同体「パリ・コンドルセ」の研究センターに付属するような形で、コレージュになんとか予算が付けられて、場所が与えられて存続をしております。
当時、国際哲学コレージュが大学共同体に参入するかどうか、論争がありました。大学に吸収されたら、これは独立した組織じゃなくなる、と。でも存続するためには、もうどうしようもないという最後の決断で、大学共同体の一つのセンターとして、今は付属しているような形かと思います。
コレージュでは、50人のディレクターが、50のセミナーを毎年開講するような形で運営がなされています。その評価選抜委員会の事情も知っているんですけれども、今年は70件ぐらいの応募があったんですよね。50人の半分の25人が3年で更新されるんですけども、今年は70件ぐらい、世界中から応募があった。本当に弱小なセンターではあるんですけれども、まだこれぐらいの数、世界中から応募があります。別に給料が出るわけじゃないし、所属したら教授などの地位に就けるわけでもない。 ただ単に6年間授業ができるだけなんですけれども、これほどの数の応募がまだ世界中からあるのは感慨深いです。予算が少ないとか、大学共同体に吸収されているとか、そういった実態はともあれ、ここで授業をやりたいっていう応募がこれほどあるのは、望ましいことだなと思っております。以上、国際哲学コレージュの概要とこの映画製作以降から現在まで変遷になります。

哲学カフェの流行への違和感
渡部 純:
ありがとうございました。 ここからすぐに皆さんにいろいろなご感想とかお考えとかお聞かせいただく対話に入っていきたいと思います。ただ、なかなか「デリダ」とか初めて聞くような方も多いと思いますので、どんなことでも引っ掛かった言葉とか、そういう疑問やご感想をどんどん挙げていただければいいかなと思いますが、まずは私の方から少し感想を述べたいと思います。
この作品を13年ぐらい前に見たときからの変遷を少しお話しさせていただきますと、おそらく東北大学で2012年ぐらいに上映された際に観ました。その当時はですね、 いわゆる「哲学カフェ」がもう流行りになってきていて、私自身も仙台の哲学カフェに関わり、その後、福島市でも開くわけなんですが、その時期に仙台の哲学カフェでファシリテートをする 前日に〈3.11〉が起きたという経緯がありました。
あの出来事をめぐっては、とにかく私も含めて皆何をどう考えていか分からないという状況になっていて、そういう人たちがやっぱり非常に福島が多く、そこにマッチして哲学カフェが開かれまして、そこに関わっていたわけなんですが、そういう意味で言うと、他の地域の哲学カフェとはちょっと様子を異にしており、一定の意味があったかなと思うんですね。 ただ、そこの共同運営者との信頼関係が壊れたこともあって、私は福島の哲学カフェとは手を切ったんですけれども、実はその手を切る時期にですね、だんだん哲学カフェというのが、それ自体が制度化しちゃって、だんだん商品化していることを内心感じていました。
同時にですね、哲学カフェの活動はテーマがあって、それに一人ひとりが意見を出して語り合うわけなんですけども、それが哲学という営みとどう関わっているんだろうか、という疑問を覚えてきた時期でもあったんですね。というのは、それぞれ個人の考えや経験というものにとても考えさせられるんですけれども、それが「知」として深まっているだろうかという疑問があったんです。 そこで、哲学カフェとは手を切ったタイミングで、新たに活動を始める際に哲学カフェの「哲学」という名称をもう使わないと決めました。だから、国際哲学コレージュがずいぶん「哲学」というものにこだわっている点、フランスという土地柄もあってこだわっているところがあるとは思いますが、その点を少し西山さんにお聞きしたいなと思っていたところです。
それよりはもっと幅の広い「ロゴス」という、まあ「言論」ですよね。 それこそ、政治や映画、文学といったテキストを媒介にする方が思考や知が深まる。この映画では他分野との「近接」というワードがよく出てきましたが、様々な分野を扱う「言論」と言いながら、そこにはおそらく哲学的な営みというものが潜んでいるんじゃないだろうか、という思いを込めて、2017年に「カフェロゴ」(カフェ・ド・ロゴス)という名称を使って言論カフェ活動を始めたんです。そこでは、本や映画だけじゃなくて、ゲストの語りというか、トークというのもテキストでありますし、そういうテキストを媒介にして考えるということが、この言論カフェの方法となっています。あえて「哲学」というワードはもう使わないです。
なんならですね、福島県の教育委員会が掲げている教育目標の1つに「哲学対話」というワードが入ってるんですよ。「対話」だけでもいいはずなのに、なぜ「哲学」をつけるのか。そもそも、それをつけた人が誰だかは知りませんけれど、その人が「哲学」をどう理解し、何を求めているのか全く示されもしないのでわからない。今、「哲学」というワードだけが流行として先走り、人口に膾炙していてですね、対話であればなんでもかんでも「哲学対話」という、そういう状況に非常に違和感もあって、あえて僕は「哲学」という言葉をだんだん使わなくなっている。
ただ、今日のこの上映会の趣旨は、上映前にご説明したように、やっぱり地方で人文学に触れるとか、そういった機会がかなり危機的な状況にあるということに、大学の外側の人間としても非常に危機を感じているということから始まりました。今日参加されている方々も、大学関係者の方ももちろんいらっしゃると思いますが、多くは市民の方々だと思いますので、その市民から見た場合に、この映画がどのように映ったのかなということをまずは皮切りにいろいろ聞いてみたいと思います。

「哲学」という名を維持すること
西山:
今回はそういったいろんな問題意識があってお招きいただいたということで、本当にありがたく思います。私としてはさっき申し上げたように、もう68回も上映して、本にもなっているので、13年ぶりぐらいに上映して大丈夫かなと思いました。ただ、こういう会がちゃんと成立するということは、問題意識が共有されている証かと思います。
「哲学」の名前を付けるかどうかっていうのは、確かに重要ですよね。この国際哲学コレージュはカルチャーセンターではないんですけれども、こういった研究センターのようなところは、世界中にたくさんある。コレージュにいくつかオリジナルな点があるんですけども、その一つは「哲学」という名前にこだわっているというところです。というのも、フランスでは哲学が教育上制度化されています。高校の時に哲学が義務で必須なので、理系も含めて、哲学という科目を高校生が学ばないといけない。3年ぐらい前にカリキュラムの改革があって、かなり柔軟化されましたが、「倫理」ではなくて、「哲学」っていう科目が高校で必修のように教えられている。古くからの伝統として、若者が哲学を学ぶ。そうすることで、市民としての社会参加を、大人の教養を身につけるという幅広い教育の完成として、哲学が勉強されています。
大学入試でもまだ哲学という問題が残っているので、大学入試の段階で哲学のある程度の能力を身につけないといけないんです。フランスの場合、哲学の先生は基本的に公務員です。大学も高校も私立が少ないので、ほぼ大学・高校の先生は国立公立で公務員です。社会制度的にみて、哲学、教育、哲学者、哲学の先生というのが制度化されているところがあります。
こうした状況において、厳しく制度化された哲学だけが哲学じゃないと主張するためにも、かなり強い意味合いで、「哲学」の名前を維持している。違ったタイプの哲学を、哲学の自由という形で、国際哲学コレージュに関しては、「哲学」の名前をあえて使い続けています。
コレージュの場合はプログラムがいくつかのジャンルに分かれております。哲学/芸術、哲学/教育、哲学/政治というふうにいくつかの部門に分かれています。これは大学でいうと、政治学科とか教育学科とかそういう感じなんですけども、 コレージュではすべてに「哲学/教育」、「哲学/政治」みたいな形で、哲学と何かが対話している形になっています。
一番興味深いことに、「哲学/哲学」というセクションがあるんですね。哲学が哲学を問う形です。単に「哲学」っていう看板をつけると、確固たる「哲学」があるんだと思われるかもしれない。だから、「哲学」という名称を外すのは一つの手なんですけども、コレージュの場合はあえて残す。しかも、「哲学/哲学」と銘打つことで、哲学は絶対に同一性を持たないようにする。確固たるものとして権威を持たない。哲学といってもいろんな形があって、対話もあるし、テキストベースの読解もあるし、英米系のやり方とヨーロッパ系のやり方は違うし、合理主義的な哲学と宗教的な哲学は違う。色んなタイプの哲学があるので、哲学と哲学は常に対話をして、みずからを問い直し続けるという意味です。
いま、哲学カフェとおっしゃいましたが、哲学カフェはフランスでできたんですよね。1990年代にバスティー広場にカフェ・デ・ファール(灯台カフェ)があり、そこでマルク・ソーテという方が始めたというのが発端とされています。 日本にも2000年代ぐらいに入ってきて、日本各地で哲学カフェが行われております。フランスでもカフェや公民館とか、いろんなところで行われております。ファシリテーターと呼ばれる場をうまく回す司会者がメインになって対話をうながす。その成否はそのファシリテーターの腕次第、参加者のモチベーション次第で、本当にいろんなやり方がありますね。
渡部さんみたいに、それがちょっと物足りないという方もいるかもしれません。ただ、日本の場合だと女性も含めて一般の方も入りやすいし、ケースバイケースの実践かなと思いますね。対話なのかテキストがあるかというところが大きく違いますね。コレージュはもちろんテキストベースなので、気軽な対話ではない。その点ではコレージュの方はもうちょっとシリアスなやり方でやっているとは思いますね。
渡部:
はい、では会場の皆様からいかがでしょうか?

敵との対話
参加者1:
今日は西山先生、はるばる福島までありがとうございます。映画って、いつ見ても刺さるんですよ。思ったのは、学術会議のことと、トランプさんのあのハーバード大学をはじめ助成金の凍結、この二つがこうすぐ思い浮かびました。質問なんですが、「国から税金もらっているんだから、国のやり方に反対する意見を言うな」みたいな人もいるのと、トランプさんは私はとんでもないと思うんですけど、やっぱり国民の半分が支持して大統領になったんですよね。なんでそういう人たちがいるのかという質問と、あと西山さんが対話する時に明らかに考えが違う人と対話する時に気を付けることとは何か。そういった話を聞かせていただきたいと思いました。
西山:
ありがとうございます。その点は触れようと思っていました。2004年の大学の独法化を思い出します。すべて国がお金を出すと大学は自由じゃない、日本学術会議も自由じゃない。だから自分である程度お金を確保しなさい。そうすれば、あなたたちはもっと自由になる。でも、国がきちんと監督はするという流れです。そうなると、予算もなくなるし、自由もなくなってしまいます。ある程度、大学もマイナスの面も被った改革の流れなので、本当に気をつけないといけないことかと思います。
トランプさんの場合も予算と、あとは思想内容ですよね。学術の思想内容にまで踏み込むなんて、本当に致命的かと思います。こうした状況において、今日の映画でも出てきた批判とか抵抗とかが人文学の一つの使命となります。
私としても、ここまでひどい介入が行われるとは想像以上でした。ジェンダー的な言葉を学問で使うなとかね。そうすると、アメリカのアカデミズムの首を絞めてしまうことになるので、ここまでひどい敵が出てきた時にどう対応するのか、抵抗するのかっていうのは、すごく難しいポイントかと思います。
デリダは、70年代にフランスで哲学教育の改革が行われたときに、かなり抵抗運動をしました。 そのとき、周りの仲間をちょっと驚かせたのですが、デリダは改悪を進める 敵の言葉にも全部哲学があるんだと言っていました。いまの状況で例えるならば、つまり、トランプ大統領も哲学者なんだとわけです。悪魔じゃなくて、トランプさんの思想も哲学者の言葉とみなし、何かを学ばなければいけない、というスタンスをデリダは取ったんですよね。 一緒に活動している人からは、「とんでもない」と折り合いが悪かったんです。ケースバイケースですが、ただデリダのように、お互いに議論できる場を哲学という視点から見定めるのもひとつの方法でしょう。
教室風景の不在、生成AI時代の人文学
参加者2:
今日は本当にありがとうございました。世代的にはポスト構造主義みたいなのを若い時にシャワーを浴びて、それでなんかいつの間にかそれが消えていったみたいな感じの世代です。渡部さんと時々一緒にイベントをやったりしています。
質問は4つあります。小さいことからですが、 一つ目は本体を見せないことの意味は何だろうということです。実際に授業がやられている現場は全然出てこない。もちろん人があってのことだと思うんですけども、どうしただろうということ。
2つ目は、西山さんの姿を出さないのはなぜなのかという点です。最後だけ出てきますよね。それまでは出さないっていうのは何か意味があるのでしょうか。なんとなく見たいなぁと思っていたので、最後は満足を得られたんですけども、やっぱり何か意図があるんだろうなと思って。
残り2つはもうちょっとざっくりした話で、AIのシンギュラリティーみたいなことがあって、人文系なんかもういらねえんじゃねえの? みたいな話が聞こえてきますが、これについてはどうお考えですか? 個人的には統計にすぎなかったり、ありものを対話しているだけじゃないかと思っていて。実は開いているようで、閉じているんじゃないかというふうな。この議論には根本的な違和感はあるんですけれども、そういう流れがかなり強いと思う。トランプどころの騒ぎじゃないというイメージもあって、どういうふうに考えればいいのか。これは抵抗したいと思っているんですけども、どうしたらいいんだろうっていうのは、ちょっとお伺いしたい。
最後は、デリダと西山さんの関係というか、立ち位置っていうか、そういうものをちょっと教えていただきたいと思います。
西山:
これを撮影した当時、私は映画監督でもないですし、若い研究者の一人でした。 せっかくこういった人たちにインタビューするんだったら、動画も回させていただこうということで、研究活動の一環で撮影をしました。まさか60回もを上映するとか、DVDになるとか、全く考えてなかったものですから、貴重な資料として記録をしました。
ただ、今日のように、人様にお見せしてお金を取ったりするわけですから、製作する段階でプロの編集の方に技術を学んだりして、極力映画になるように勉強して、仕上げました。そうした経緯から、コレージュの本体については、最初の撮影の時に撮ってなかったのです。そもそも、教室を撮影するのは非常に難しいんですよね。公的な場所ですので、許可がなかなかおりない。さらに言えば、教室を撮ったとして、想像していただきたいんですけども、じゃあ何日間カメラを回せばいいのか、教室でどどの参加者を撮ればいいのかというのは、かなり難しい。これが代表的な授業風景ですよっていうのを撮るためには、やっぱり相当の取材期間も必要で、難しくなるんです。
本体のイメージがないという形になり、そこは物足りないところですよね。 ディレクター6人だけが話すだけなので、教える側の意見しかなくて、一方通行的なところはちょっと不十分かなとは思います。
私はフランスの高校で哲学の授業をかなり見学をしています。2カ月ぐらい高校に通って、授業を見学したりもしたんですけども、やっぱり高校の哲学の授業ってめちゃくちゃ面白いんですよ。この教室を本当に撮影したいなあ、残したいなって、紹介したいなと思うぐらい面白い。フランスの高校生は本当によくしゃべるので、それを先生がどういうふうにナビゲーションするのかとか、それも含めて魅力的だと思います。
本人が登場しないのは……出る必要ないからですよね(笑)本人は別に出る必要ないと思いますので、特に私はいらないかなと思います(笑)
3点目、AIは確かに人文学にとって大ダメージな技術だと思っています。私もチャットGTPやグーグル翻訳とか使ってみたりして、学生が多分やっているであろう、いろんなことを追体験したりしておりますけれども、本当にここ数年間の進歩は激しいですね。 汎用性のある英語/日本語とか、英語/フランス語とかだったら、かなり進歩は進む。ただ、フランス語と日本語だったらまだまだマイナーなので、まだそこまでの技術にならないのないかと 数年前は思っていました。しかし、英語以外の言語でもあっという間に進歩して。翻訳や応答内容も相当精度が上がってきているなと思います。
いくつかの技術的な不備に関しては、いろいろと指摘をされていますよね。AIの世界には「記号接地」がなく、データを分析しているだけである。例えば、実際の物にAIは触っていないので、その肉体性がない。AIが処理する記号がちゃんと事物に接地していないので、ふわふわした世界観の中でデータの演算が行われている、と。翻訳に関しても、小説とか人文書に関しては、AIで翻訳するわけにはいかないので、人間が翻訳をしなければまともな翻訳にはならない。データ処理だけでは文学や哲学の読解や翻訳には向いていないのです。
今日の映画でいうと、デリダが与えたのは「意味」ではなくて「奥行き」なんだという言葉がありました。 AIは「意味」は分かるんですけども、世界の「奥行き」とか、肉体性とか、ニュアンスとかまで含めて処理するには不十分です。哲学とか文学の領域ではまだ人間にやるべき仕事が残されているのではないでしょうか。
最後に、デリダと私自身ですが、私はデリダが生きていた最後の2年間に講義に出られた最後の世代になります。研究者でいえば私の世代が一番最後にパリでデリダの授業に出たことがあるといえる世代です。自分の立場としては研究者という立場で、大学とか教育の問題で思い悩んだときに、デリダの書き残したものを参照して、考えるヒントにさせてもらっているという立場になります。
フランスの哲学教育、日本のポップカルチャーの哲学性
参加者3 :
ありがとうございました。フランスの哲学に対する状態というか、フランスの教育制度っていうのは、日本みたいにもう最初からフラットに教育が終わるんじゃなくて、小学校で飛び級があり、それでどんどん上がっていってるっていうようなイメージですが、少し教えてください。 そういう教育制度の中で、例えば高校生の今の話だと、もし日本の教育制度が違うのであれば、その辺をちょっと確認していただきたい。それから、日本で哲学っていうものが教育の現場では語られないが、フランスのような形が理想と先生がお考えになるか?
西山:
映画では手をよく写していました。日本の先生と比べると、フランス人研究者は本当に役者みたいな喋りでした。しかも、みんな即興で、あれだけしゃべって決めゼリフがバチバチと出てくるっていうのは、役者みたいで本当に絵になるというところがあります。 特に手の使い方が本当に大胆で、手で考えるところがありますので、手は映すのにすごく重要なポイントだと思って記録した次第です。
フランスの教育制度に関して言うと、たしかに日本と比べると平等ではないところがあります。グランゼコールというエリート養成校が大学とは別に存在するからです。ただ他方で、フランスでは高校も大学もほぼ無償です。フランスの大学はほぼ国立で75ぐらいあるんですけれども、日本の場合は800ぐらい大学があって、600校ほどが私立でしょう。でも、フランスの場合は高校を卒業してバカロレアという試験を受けたら、一応どこでも大学に入れるっていう建前になっています。 教育は権利なので、選抜された人だけじゃなくて、みんなが高等教育を受けられるということにはなっています。
国立大学の授業料というか、登録料というんですけども、それは年間3万円ぐらいです(今2024−25年度は175ユーロ)。 とても安いので、平等なシステムに見えます。 ただ、それとは別にエリート向けのグランゼコールのコースがある。高校が終わって、さらに2年間、進学校で集中的な訓練を受けて、試験に受かったらエリート養成学校に行って、将来が確約される。
一方では教育はみんなの権利だから小中高大学と大変安く行けますよ、 ただ就職がうまくいくかまでは分かりません。他方で、エリートコースがあって、将来が約束される。グランゼコールは、日本でいうと東大とか京大の旧帝大系プラス早稲田と慶応みたいなイメージを持っていただくといいと思います。この二重構造は差別的なところがあります。この制度自体が、フランスのいろんな不平等を生んだり、大学の競争力を低下させたり、激しい受験競争を引き起こしたりと、いろんな問題があります。そういう教育制度の建前になっているので、まあ平等であるんですけれども、エリート養成の道筋もあるのです。
哲学教育についてですが、日本でも思想的なものに関する関心は一定程度あると思うんですよね。「愛とは何か」「正義とは何か」「友情って何だろう」「国家とは何か」とか。 概念でこの世界を考えるっていうのは高校生にとっては、すごく重要で、興味を引かれるような問いじゃないかなと思います。
日本の倫理でもフランスの哲学教育でも比較的興味を持つ人は、その時期にちゃんと意欲的にコミットします。ただ、すべて先生次第ですね。フランスの高校は教科書をあんまり重視しないので、先生次第のところはあります。 面白い先生だったら興味を持つだろうし、それは何でもそうですよね。 学びとはその先達から学ぶものですから、どれだけ感染するかどうか、影響されるかどうかというのは大きな問いです。
最後に、日本でもフランス流の哲学のカリキュラムを導入した方がいいんじゃないかという議論はよくあります。フランスの哲学教育は人間の根本を考える上ですごくいい教育なので、日本にもどうですか、と。私は日本のポップカルチャーがその役割をすごく果たしているなと思うんですね。漫画とかアニメはかなり哲学的だと思うんですよ。つまり、漫画とかアニメっていうのは具体的な実写じゃない分、すべてが抽象化されたり、デフォルメされたりして、概念を描くことに適していると思うんですよね。 抽象的な議論、たとえば「愛とは何か」とか、「正義とは何か」とか、そういったものを考え、やはり集約的に描くことのできる大変優れたメディアだと思います。
例えば、言うまでもなく、手塚治虫の漫画は本当に哲学書です。最近でも『鬼滅の刃』など、いろんな哲学的な要素が入っていまて、すでに日本のポップカルチャーの中で哲学的なことを若者は結構考えてるんじゃないか。 最近の『チ。』っていうアニメも、作者が哲学科出身なもんですから、いろんな哲学者が出てきて、科学と知識と宗教と権力の関係をとても深く描いている作品です。私の子どもは中2なんですけども大好きですごくハマっている。彼でも「これはアリストテレスだね」とか言ったり、「真理は共有された方が人間にとっていい」とか語ってきます。アニメはものすごく哲学的な力があるといつも感心をしています。
フランスは日本のアニメ消費国第一位です。フランス人は本当に日本の漫画、アニメが大好きで、哲学的な要素も受け入れられています。もちろん、キャラクターがかわいいとかね、そういうポップな魅力もあります。ともかく、日本に哲学教育がないからダメとはまったく思わず、サブカルチャーに何かしらのきっかけがあると思って、少し肩の力を抜いて考えて、日仏の比較をしています。
若者の批判精神と哲学教育
参加者3:
フランスの若者とか労働者にとって、デモやストライキなどいろんな抵抗があります。映画の中で「哲学をやることは抵抗すること」と言っていたけれども、フランスで哲学教育を大事にするということと、そのような抵抗の国民性に関係があるのでしょうか。社会が何かちょっとおかしいぞと思ったときに、どのように現状を変えていくかという行動の変化に、哲学教育はやっぱり深い結び付きがあるんでしょうか。
西山:
この意見は毎年、何人かの学生がレポートで書いてくる主張です。「フランスは哲学教育がある。 だから、社会意識が高く、デモが多い」と、年に10人ぐらいレポートでそういうことを書いてきます。しかし、例えば、日本の高校で「倫理」の時間を週に何回か受けただけで、若者の行動パターンが変わるでしょうか、そんな影響力はないわけです。 所詮、義務教育ですから。ただ、哲学的な考え方が哲学の授業以外で根付いていて、フランス革命以降の抵抗の歴史というものもあります。社会は自分で主体的に変えるものだっていう自覚がフランスの性みたいなものとしてあります。
あるフランス人留学生が「フランス人が一番最初にやるスポーツはデモだ」って言ってましたね。社会運動は気軽に参加できるスポーツみたいなものだ、と。ただ、フランス人はそういう歴史があるからデモをするけど、日本人はおとなしいからしないとは言いたくないです。日本でもやっぱり激しいデモをやっていた時期があり、東日本大震災の原発事故のときも官邸前デモが盛り上がりました。決定されている国民性じゃなくて、日本人も時期が来れば行動するんですよね。日本の「倫理」科目はどうですか?
渡部:
はい、えっと倫理はですね。間違いなく僕の実感ですと、高校生にとって面白いんですね。
西山:それは渡部さんが面白いからじゃないですか(笑)
渡部:
えっとですね(笑) ただ、それこそ制度の問題で、制度的に共通テストになってから、これは間違いなく受験戦略の問題として科目としての「倫理」を採用する高校が減っていくことは間違いです。そうすると、それに対する抵抗の問題ですよね。 抵抗の形を「お受験」という形では介入できそうにないので、どういう形でそれを作っていくかというのは、いま発言されたお二人の参加者は同僚なんですけども、学校現場のサブの部分でどう構築していくということを現場の中で実践しているんですね。
たとえば、彼(参加者3)などは 図書館でランチカフェみたいなのをやって、いろんなゲストを呼んだり、図書館で昼休みのわずか30分で哲学カフェやってみたりとか。まぁ、誰も教員は来ないですね。それでも十数人くらいとか一定数の高校生が関心を持ってきたりするので、潜在的にはそういう存在がいる。 だから、それを制度として、やっぱりどんどん剥奪されていってる一方、そもそも「倫理」を専門とする教員があまりいない。どちらの制度の問題ですよね。 それをどういう形で抵抗できるのかという課題があります。
今日は市民社会の部分での議論ですけど、学校現場の中では、先ほど西山さんがフランスの高校生はよく喋るとおっしゃったんですが、日本の高校生は喋れないんですよ。授業でちょっと哲学対話を実践すると、彼らが喋ることが好きだというのは分かるんですが、 ただ話すとか自分の意見を言うっていうことがとても苦手。高校1年生の時は結構しゃべってた子たちが、3年生になると何もしゃべれなくなる。この、年代が進むと喋らなくなるっていう問題を、哲学教育だけの問題に還元するわけじゃないんですけど、これが僕ら高校現場の課題ですね。
教育の無償化
参加者4:
映画では映画では、補助金であるとか、それから報酬とか無報酬ということで、学問とお金の問題というのが一つテーマにあると思います。最近、日本では野党も与党も高校の無償化を言い出していて、そちらの方に流れていく傾向があります。もちろん、家庭の経済状況にかかわらず、教育を受けられる点ではすごくいいことです。ただ、この高校無償化ということが、果たしてどういう流れになっていくのかについての考察をお聞きしたいなと思います。
小中学校は無償化されていて義務教育なので、ご承知の通り、学習内容も厳しく定められていて、教える側の自由が非常に狭いと思っています。 高校が無償化されるとその辺のバランスがどうなっていくのか、私としては懸念をしているところです。先ほど先生のお話では、フランスでは高校も大学もほぼ無償という話でしたので、その辺も絡めて、ご教示いただければと思います。
西山:
日本の無償化に関しては、ちょっと私はあんまり詳しくはないんですけど、具体的にどのような問題が生じるのですか?
参加者4:
金も出すけど、口も出すっていうふうになっていくのかなと私は懸念をしておりますが、その辺についてはいかが?
西山:
なるほど。現時点でその口を出す回路がすでにあるっていうことですか?
参加者4:
すみません。そこまでは私もわかりません。
西山:
なるほど。無償化に関しては、私も東京都立大学に勤務していて、小池百合子・都知事によって、本学は東京都民が授業料無償となりました。2、3年前から東京都民は大学院の修士課程まで無料になり、個人的には無償化というのはすごく喜ばしいと感じています。今のところ何か政治的な締め付けも私たちにはありません。学費が無償化されて、どういう介入があるのかは、ちょっと私からは分からないところはあります。
ちなみに、フランスは大学までかなり授業料が安く抑えられておりますが、ただ施設はボロボロですよ。トイレがめちゃくちゃ汚いとか、日本の学校でいう部室とかサークル棟とかもないですし、コピー機が壊れているとか。でも、学位を取ることが目的ですから、大学を卒業して学位まで取れるまで無償で保障されているというのはいいことじゃないかなと思います。高等教育の費用負担が少子化対策にもつながるわけですからね。日本では、子供を大学に行かせる費用を考えて、子供を産む数が制限されます。フランスでは教育費を計算しなくていいということで、少子化に関してある程度歯止めがかかっているところはあります。
グローバル化時代と知的生産力
参加者5:
今日の映画は知らない名前の人ばかりで、私としては大変難しかったです。昔はフランスって言論の自由があって、自由な国っていうイメージがあったんですが、最近はそれほどでもないなあって思うようになっています。
映画にも出てきた「グローバル資本主義」が日本でもフランスでも影響をもっている。アメリカもおかしくなっちゃってるわけですけど、北欧なんかは割とそういう自由があるんじゃないのかなっていうイメージがあるんです。特に日本っていうのは、忘れっぽい感じがして、原発のことでもそうですけど、人々がすぐ忘れてしまう。
昔は私よりずっと上の世代は結構喧々諤々といろんなことを話してたってイメージがあります。今は自分の意見を持たないから言えない、そういう話をする場が、渡部先生がおっしゃるように、ないような気がしますね。北欧をはじめ他の国とかはどうなのでしょうか。
日本学術会議は敗戦後80年続いてきました。例えば、日本の憲法は集団的自衛権を認めておらず、ある程度戦争しないような方針です。日本学術会議的なものは、フランスとか北欧とかアメリカとかにもあるのかどうか。このコレージュっていうのは一般の人が受講できる場所ですけど、学問を学問として認める機関というのが、他の外国にはあるのかどうか、ちょっとそれをお聞きしたいなと思いました。
西山:
フランスでも言論の自由は、このグローバル化の趨勢で弱まっていると思います。経済的、精神的、そして文化的な力、哲学的な力は本当にどんどん衰えてるなと思います。 10年前にニコラ・サルコジっていう大統領が選ばれたんですけども、彼がかなりアメリカ寄りのグローバル化政策を取り入れて、この10年ぐらいで急速に変わったなというのが私の印象です。
その傾向は文化や哲学などのアウトプットにも影響があります。読みたいなぁと思わせる重厚な本が前と比べると減ってきたかなぁ。500ページもある学術書ではなく、お手軽な本、日本でいうと新書みたいな本が増えてきて、実際そういう出版戦略が取られています。そういった文化の生産性にしろ、批判の力とか言論の自由にしろ、かなり落ちていると思います。
学術会議に関して言うと、各国にアカデミーというのがあります。アカデミーは学者の国会みたいなものですから、各国で連携して国際交流するわけです。だから今回のような政治介入があると、「日本は大丈夫? こんなに弱体化して大丈夫ですか? 」っていう声が海外からもあがっていると、隠岐さや香さんも言ってます。アカデミーがある程度独立をしていて、政治の干渉を受けないようにしておかないといけない。学問の真理探究というのは政治の利害関心とは別ですから、両者は切り離すべきではないかと思います。
フランスの哲学教育の内実
参加者6:
三年前まで高校の社会科の教員をやっていまして、今は自宅前にカフェをあの開いている者です。久しぶりに言葉の力を感じて、聞き入ってしまった映画でした。どうもありがとうございました。自分のカフェがかつてのコーヒーハウスやカフェのようにいろんな人が来て、いろんな議論ができるところになればいいなって思っています。
感想と質問なんですけど、「哲学/哲学」っていう言葉がやっぱり印象に残りました。テンポが結構早いので、 次々といろんな言葉が出てきて、次々に上書きされちゃう感じでした。「人間の発明」って言ってたし、「想像し得ないものを想像するんだ」っていうことを言ってた人がいたと思います。それから「歓待」っていう、日本語で訳されたらホスピタリティーでしょうか。明らかに自分の意見と全く違う意見のものですら、きちんと向き合って、そしてまた新しいものを作っていく、その原動力にするっていう力。それはやっぱり哲学なんだな、「哲学/哲学」だって思いました。
高校の科目で「倫理」がありますが、「倫理」と「哲学」はやっぱり違うんじゃないかっていう気がします。 私は「倫理」を一度も教員生活の中では教えませんでした。高校っていうのは、おそらくフランスでも日本でもほぼ義務教育化していると思うので、高校までにどういう教育を受けるかってことが、とても重要だと思います。大学はまた違うと思ってるんですけど、日本の高校の教科は「倫理」です。「倫理」っていうのは、例えばソクラテスはこういうことを言ったとか、こういう人生だったっていうことは伝えられるんですね。だけど、「哲学」っていうのはまた全く違う学問じゃないかっていう気がします。
先ほど、フランスの学校では「哲学」が義務的な教科であるってことをおっしゃってて、なおかつ高校の授業を西山さんが見て、非常に面白いと思ったどそうですね。日本の学校教育はご存じだと思うので、フランスで哲学の授業がどう展開されているのか、日本の高校教育とどういうふうに違うのかを教えて下さい。
西山:
ありがとうございます。一番最後、フランスの高校での哲学の授業から答えますが、ランスの文科省が出している年次指導要綱では、キーワードが20個ぐらい示されています。「愛」とか「正義」とか「国家」とか、20個ぐらいの概念を教えてくださいというリストがあります。二つ目は人名ですね。古代から現代の哲学者までのリストが挙げられて、この哲学者を使って教えてくださいという要綱が指定されています。
テキストを使うかどうかは現場の教師に任されています。日本の「倫理」と大きく違うのは、原文のテキスト抜粋を教員が配って考えさせるというところが、大きな違いだと思います。 例えば「神」について考えさせたいならニーチェのテキストの一節を抜粋して、考えさせる。「神」というテーマとニーチェとそのテキストを使って、三位一体的に授業で議論をするのです。生のテキストに当たってみて議論するところが、骨太なやり方かなと思います。
日本の高校生にとって、ニーチェやソクラテスなど、原文の読解は難しいかもしれません。嫌いな人は嫌いだと思います。ただ、フランスでは結構難しいものとか、絵画にしてもアバンギャルドなものを「これ、面白いじゃない」みたいな感じで、わからないものや難しいものに対する免疫があるみたいです。しかも、興味を持って、わからないものに取り組んだりする傾向が日本よりもあるのかなと思います。うまく誘導すると、意外に盛り上がって、 面白い授業が展開される。そして、やっぱり先生も、私が見学した限りでは力量がすごい。授業のやり方が面白いので、すごく魅力的だなと思って授業見学をしました。
ただ、残念なのは扱うべき哲学者リストに東洋の人物がほぼ入っておらず、ほとんど西洋なんですね。30人ぐらいのリストがあって、荘子やナーガールジュなどが入っていますが、非西洋は数名しかいません。21世紀にもなってこの人選はないだろう。その意味では、日本の「倫理」の方が網羅的が学習がなされています。
パリで高校の哲学教員の組合の大会があって、私は参加して発言しました。「もう21世紀なのに、西洋の哲学者ばかり勉強するのはおかしいよ」って言ったら、「そうなんだよね。学生も意外と武士道とかに興味を持っていて」とかいう先生もいたんです。そういう点で、フランスの哲学教育にデメリットはあって、ホスピタリティーに欠けています。
西洋/非西洋のバランス、高校教員が活躍する場
渡部:
実はもう時間がですね。あと1分しかないですけど、最大あと10分までは延長が大丈夫だということですので、5分ぐらいは皆様からご質問を受けられます。
参加者7:
2点ほど質問させていただきたいんですけども、先ほど東洋哲学のお話がありましたけれども、国際哲学コレージュでは東洋哲学はどれぐらいあるのでしょうか。ディレクターと呼ばれる方々は無報酬で授業をされているということでしたけども、ということは、経済的に余裕のある人にこういった役職が制限されてしまうという認識でいいのか、という点をお伺いしたいと思います。
西山
ありがとうございます。「国際」と銘打っているわりに、50人中38人がフランス人で12人が外国人です。その意味では、国際的という点ではちょっと弱いところはありまして、東洋哲学に関して言うと、それもディレクターがどんな授業をするかによります。ただ、その点は結構気を使っているので、このディレクターの選出段階で多様性は重視されます。フランス以外のアジア、アフリカ、南米には配慮しているので、それぞれの地域の思想を担当する方はいらっしゃいます。今現在も日本関連のディレクターは2人ぐらいいらっしゃるので、今年は東アジア関連の授業プログラムが含まれています。
ここは福島なので付け加えますと、ディレクターの選出において、地方性は重視されています。パリの人ばかりに集中しないように、地方の方も必ず混合するのです。フランスとそれ以外、パリとそれ以外で、なるべく平等にいろんな人が参加できるようにはしています。
映画では「場所」の問題が出ました。コレージュでは開催場所が自由です。決まった場所がないもんですから、例えば東京で国際哲学コレージュの授業を私の大学で受ける人は、それが国際哲学コレージュになるんですよ。場所があらかじめ設定されていないところは、コレージュの特徴です。コロナ禍でオンライン化が進みましたが、それ以前に場所の制約から解放されていた。世界中どこで実施しても、それが国際哲学コレージュであり、場所に縛られない「場所のないユートピア」です。パリにいくつかの場所はあるんですけれども、実際に活動する場所はどこでもいいという自由があります。
2つ目の問いですが、無報酬なので、確かに収入がある方に限られてしまうところがあります。運営費として提供されるのは、ひとりわずか7万円です。私も最初はびっくりしたんですけど、セミナーを運営する上で1年間7万円しかない。それぐらい予算がない組織で、やっぱり定職とか研究費がないと難しいかなと思います。
コレージュのオリジナリティーは、高校の先生が教えられるということです。メンバー構成として、1/3は高校の先生、大学の先生が1/3、それ以外の芸術家とか精神分析家いう割合かと思います。一番やる気があるのは高校の先生たちです。はっきり言って、大学の先生はもう大学の授業で疲れているので、別にこんな余分な授業をする必要がないわけです。でも、高校の先生は普段決められた授業をして、自分の研究セミナーなんかはできないもんですから、一番やる気があって、すごく輝いています。高校の先生が自分のセミナーを開いて研究を披露できるというのは意義のあることで、その経験から大学の先生になる人もいるし、本を書く人もいる。この映画の中に出てきたジゼル・ベルクマンっていう女性の方は作家になって活躍しています。高校の先生が生き生きと自分の研究を教えられるところが、コレージュの特徴的な点で、そんな組織はなかなかないと思います。
参加者の現状、哲学の権利と義務
参加者8:
映らなかった本体の方では教える側ではなくて、受ける側のモチベーションがすごく気になります。学位が得られないということは、言ってみたらちょっと教養を身につけたいという人がふらっと来るとか、例えば年間を通してのプログラムだと、来続けるモチベーションを維持するのはかなり難しいし、 引きつけ続けるのがかなり難しいのではないかと想像しますが、いかがでしょう?
西山:
ケースバイケースですね。 授業内容と先生の人気とタイミングと。今月聴講した私のオンラインの講義は参加者2人だけでした。 まぁ、現実はそんなもんです。すべての授業に言えると思いますが、いろんな条件次第なので。でも、それはそれでいいんです。
参加者9:
本日はどうもありがとうございました。 なかなか福島で哲学者の方にお会いする機会っていうのは、まあ、なんか芸能人の方に会えるより希少なので、今日はそれだけでも目標を達成したような気分でいるんです。最後に1つだけ質問なんですけど、あの映画の中で残った言葉に「哲学」と「制度」という2つの言葉が何回もあったんじゃないかと思うんです。今回のタイトルの「哲学への権利」ということで、69回目にして初めての質問かどうか、ちょっと分かんないですけども、私がちょっと気になったのは「哲学の権利」じゃなくて、「哲学への権利」ということです。権利というのは通常、義務と表裏一体の関係にあると思うんですけど、制作された西山先生の意図としてはどういう意味でこういうタイトルにされたのか。権利の裏側にある義務というのは一体何で、それは誰が担うべきものなのか。映画を一回拝見しただけではよくわからないので、教えていただければと思います。
西山:
「哲学への」にしたのは、獲得されるべき既得の権利じゃなくて、つねに求める限りにおいて手が届きそうな権利というイメージです。完全に手に入れることができない権利という形で、この「への」っていう距離感を表した表現になっています。
権利と義務は表裏一体に関しては、フランスでは哲学の義務ばかりなんです。 義務教育で哲学の教育が必修で、教えられていられている哲学は東洋思想などは出てこず、西洋哲学を学ぶ義務になっている。義務というか、制約が多い状況がフランスの哲学状況かと思います。制約とか義務が多い中で、じゃあ別の形で哲学を求める権利って、何かという形でこのタイトルになっております。
渡部:
はい、ありがとうございました。もう時間が来てしまいましたので、残念ながらここで会は終わらせていただきますが、一つだけ僕から言わせていただきたいのは、僕はずっとこういう活動をやっている中でこだわっているのは、どちらかというとローカルというか、地域というところに結構こだわっているんです。ここに集まられる方もそうですけど、福島にはすごく面白い方がいっぱいいて、場というのはコレージュのように色々と移動するという場も一つなんですけども、この拠点としての場があるからという地域性というか、そういったものから哲学の可能性を僕は考えたいと思っています。
多分、この時間からが本当は皆さん、いろいろ議論したいというところだと思うんですが、残念ながらここで終了になってしまいます。最後に福島でこの会が開かれたことについて西山さんから一言だけいただいてからこの会を閉じたいと思います。
西山:
今日の映画では「制度」と「欲望」という話がありました。この映画館は一つの社会制度として成り立っていて運営されています。他方で、渡部さんがやっているカフェロゴは制度というよりも、言論への欲望というか、自分が好きだからやっているものです。「フォーラム福島」と「カフェロゴ」の協力で開催されている今日の会は、まさに制度と欲望の間で成立しています。そういった類いまれな場所がここ福島で成立しているということ、そんな福島でこういう豊かな議論ができたことは、この映画にもっともふさわしい形でした。ご参加のみなさん、ありがとうございます。