みなさまこんにちは!

 

先日ここに書いた、

 

「わたし自身が、障害をもっているために、介助が必要であり、

生活に、生活保護を受給している当事者です 

わたしの場合は こういうふうに 生きています」

 

という内容の、

 

「うらやましければやってみろ。」

という記事が な・ん・と!

 

<バリアフリー>というハッシュタグで更新記事中、全国1位。

 

<在宅介護>のハッシュタウで2位、なんとまさか<ミュージシャン>でも4位になりました。

 

 

「うらやましければやってみろ。」(記事はこちら。)


 

それから、ご自身のお母様が、借金を抱えた5人のシングルマザーで、

わたしも生活保護を受給して子供時代をすごした当事者です

ということを書いてくださった 優花さんのブログ記事

生活保護は最高だ♡

も、おなじくバリアフリーのハッシュタグで全記事中、11位。

 

読まれ続けています。

(近所のかたや行政の方々すすめで、生活保護を受給できた、という話しは、

まだまだ偏見の強かった時代にあって、同世代にこんな体験をしたかたがいるのか、と心がふるえました。

行政のほうで、生活保護を受給できるよう、サポートして下さることも実際にあるのだな・・・と。)

 

障害の有無にかかわらず、

幼少期に困窮にあった人や、

人生の途中に、予期せぬ事故や大きな病気、災害などで、突然失職をした人。

 

生まれながらに障害を負った人。

 

もちろん天性の不屈の闘志で、 ものともしないです という人だって 

中にはいるとは思いますが

 

その多くが、「いきなり、社会からつまはじきにされてしまったような」

「自分だけが、ひとりでまわりからぽつんと取り残されてしまったような」

感覚になるといいます。

 

この

「社会から、ただ一人 取り残されてしまったような感覚」は

障害をもつ子を授かったお母さんでも、

特に子育ての初期、少なからずそのような思いを持つ方もいらっしゃると聞くこともあります。

 

わたしの子供時代や青春期の若さはもう20年~30年前ですが

 

インターネットがまだなくて

 

「私以外の車いすの人って、いったい世の中のどこにいるんだろう」

 

養護学校へ行っている間は

障害をもつ仲間がいるんだけれど

 

放課後 帰ってきてしまえば あとはもう 家に一人。

家族しか 自分の世界がなくて

 

同世代の健常者の友達がいなくて

 

ふるさとの田舎で

 

ほんとにひとり

 

ぽつん

 

 

「わたしどうにして生きて行ったらいいんだろうな」

 

 

この 今にしてやっと 困難に対しては勝気なわたしでも 不安に押しつぶされそうになったり

もう 途方に暮れるような気持ちになった 

 

「ぽつん」

 

と 言う感覚は よく覚えています。

 

でも 今 時代は 

 

歩けなければ電動車いすがあるし

 

介助制度はあるし

 

インターネットがあるだけでも 便利になったね。

 

病気や事故などによる急な失職や、

困窮についての、生活保護制度だって、

昔は

 

「生活保護の家なのに、冷暖房があるなんて贅沢ですねえ」

と 行政のケースワーカーさんさえ 言う時代があって

幾人も 夏の酷暑や 冬の極寒を

我慢して人が亡くなったような事件があって 今がある。

 

「人権」

 

という言葉が

 

やっと

 

 

今ようやく 「個人が、今いる場所から声を出せる」そしてそれが「届く」時代になって

 

日本の夜明けのように

 

共通認識であり

 

みんながきっと 望んでいる

 

集合的無意識のレベルで 浸透してきたんだよね。

 

「せっかく

 

ここに 

 

生まれてきたのに

 

命を苦しめ続けたくない。

 

自らの魂を鎖でぐるぐるにしばって

 

足で踏みつけるように 生きたくはない。

 

生きる歓びの中に

 

私たちは

 

 

生きたいんだ。

 

それを

 

この世に生きとし生ける

 

だれもが

 

できる時代を

 

自分たちの力で

 

呼びたいんだ。」

 

そんな大きな意識を

 

意識下にも

 

無意識化にも

 

強く持っている人が増えた。

 

これは 目には見えないんだけど

 

生きてみての実感というかね

 

わかるんだ。

 

『自分も 相手も

 

叩き合い 奪い合いの世界じゃなくて

 

お互いが

 

肯定の中に

 

尊び合える世界の中に

 

生きたい。』

 

こう思っている人が 増えたから

 

私ごとき社会的な立場で言ったら最底辺に生きてる一般市民、一個人のブログが

 

書けば 届くようになったんだよね。

 

わたしは今、大ベテランの作家さんでもないし

歌を歌っているけど芸能事務所のない個人だし

 

個人過ぎて自分でもたまに

「だいじょうぶかな」

ってゾクゾクしてくるくらい

 

会社組織を後ろにしょってる、だから後ろ盾に守ってもらえる、

みたいな意味での大きな力はないわけ。

 

でもやっぱり、

 

書けば

 

同じような体験を持っている人

 

同じようなキーワードが 繰り返し気になっている立場の人

 

たとえば 生活保護や介護制度のことは

 

「気になっていたけど

今までは 行政の相談窓口が敷居が高いような気がして

行けなかったけど

今日行ってきます!」

 

とか

 

そのキーワードが心の中でずっと気になっていた人に

 

少なくとも

「本当に必要だった人」

には 必ず届く。

 

「生活保護のことは、偏見が強くて、

やみくもにディスってくるような人もいるから、

あんまりさ、本やブログに書かないほうがいいよ」

 

というアドバイス(?アドバイス?ことばの呪い??)を

くださった人も複数いらっしゃったんだけど

 

「あんまり書かないほうがいいよ」とか

「あんまり言わないほうがいいよ」っていう人って

 

<本当は>

 

わたしが非難されるのを心配しているんじゃなくて

 

「ご自身の」

 

心がそのキーワードにザワついているから

肯定し切れていないから

 

「生活保護のことは書かないほうが」

「その話題には触れないほうが」

「障害者には偏見もあるから あまり目立つことをしたり、表舞台に出ないほうが」

 

と そういう言い方になってくるんじゃないのかな。

 

わたし

 

わたしをはずかしいと思ってないよ。

 

「介助制度や生活保護制度は人様の税金」

 

事実、そうだよね。

 

もちろん、感謝はしてる。

だからこそ、わたしもできる限りにお金を社会にまわしたいから、

ファンクラブも、タダでだれでもどうぞってしなかったし

彩の国ゆめコンサートも

「純利益は全額を、地域福祉へのチャリティーに」

と 自分では1円もとらないで 街に還元してしまった。

 

ぶっちゃけ、

 

『私みたいな人って

マジで私しかいない。』

 

っていう 自覚があるから やっていること。

 

このブログもそのひとつ。

 

わたしはね

 

「生活保護だからはずかしい。

だから自分はだれかよりも劣っている存在。

だから目立たないようにして

人目から隠れるようにして生きなくちゃ。」

 

とは

 

思ってないよ。

 

むしろわたしの目に映る世界のただ中には

 

「だっこちゃんのような、必要な人にどんどん税金がまわるんだったら納税が誇らしい。

払うべきものをごまかして自分にだけ多くしようなんて思わないよ。」

 

という 意識で ビジネスやCDや本の印税の収入を

 

じゃんじゃんと 世の中に全部まわしちゃう

書き手や 表現者の人しかいないから。

 

「こういう方々がいるんだから、

わたしたちだって、

できることは全力全出しでがんばろう」

 

と 言い合える 

障害を持つ仲間や仕事仲間しか

当然 身近にももういなくって。

 

「あっちの人はずるいよね」

「あの人ばっか優遇されて妬ましいわね」

「わたしのお金が人に取られて減っちゃうからムカつくわ」

 

そんな がめつい世界 世の中は 富の奪い合いなのだと

思い込んで その設定にしている世界に

 

いつまでもいつまでもいる人とは

 

話をしても 合わなくなってきてしまうんだよ。

 

そこについては 

 

過去は自分も「そこ」にいたけど

 

帰りの扉がもう閉じちゃって。

 

 

「今ここ」を

 

自分を殺して殺して殺して ガマンにガマンにガマン でいくか

 

「私このまんま行きます!!!」と 行くか。

 

それだけなの。

 

自分をね

 

鎖を解いて

 

自由にしてあげたいよね。

 

わたし先月(あれ今月だっけ?)

 

公開日まだすぐのときに

 

「グレイテスト・ショーマン」を見てきたの。

 

生まれながらの 家柄の違い 貧しさ

身体障害を含むマイノリティーへの好奇の目

黒人の方々や メイドさんていえばいいのかな

裕福な人へ仕える仕事をしているような職業の女性など

いろいろな理由で

 

圧倒的差別(たとえばそれは、道を歩けば石を投げられるレベルの)がまだ あることが当たり前だった

19世紀のアメリカで

 

それまでに世の隅に

それこそ逃げ隠れるように生きていた人々とともに

「あなたのその個性のままで

堂々と光の下に現す姿こそ

ショーの上では、最大のあなたの武器になる。」

歴史上はじめて

マイノリティーを多数雇用した

サーカス団を成功に導いた興行主と

さまざまに関わる

パフォーマーや、興行主の家族や、ビジネスパートナーたちの話し。

 

先天的に髭のある女性(多毛症って言えばいいのかな?)や、

小人症の方や

いろんな方が登場するんだけどね

(小人症のかたは、CGとかじゃなくて、当事者のかただったのかな)

 

それまでは

仕事に就くことも叶わず

食うや食わずのような生活をしていた幾人ものマイノリティーの人が

「今までは日陰に隠れていたけど

自分たちの生きる場所を

自分たちで掴み取る!!」

という意志を表わすいくつもの場面が

 

圧巻で。

 

歌もすごいし

実話という重みも手伝って

脚本もすごいし

もう セリフを 歌詞を

「一言一句聞き逃したくない。」

 

「瞬きも忘れて」

って

こういうときに使うんだと

 

魂の底の底から感動してきたの。

 

その中に(すでに超有名だけど)

 

【This IS me】

 

という歌があってね。

 

少なくとも

 

全世界中の

 

「低所得層の当事者で自分をいま『恥ずかしい』と思っている人と

病気や障害の当事者で自分を ゆえに『情けない、恥ずかしい、申し訳ない』とか

思いながら生きている人は

 

マジで全員これを見ろ。(-V-)

 

って ホントにホントに

 

ホントに思ったんだよ。

 

それで 見た後に

 

「わたしは 絶対

 

書いて歌って

 

表に出るべき人間だ。」

 

って

 

また (それまでより深く) わかったんだよ。

 

だからね

 

この<自覚>が揺らぐことはもうないんです。

 

もうないんです という 強い気持ちが

 

こうして 目に見えて 届いてうれしい。

 

困窮でも障害でも

お金がないでも介助がないでも

その反対でものすごくありますとかどっちでも

 

なんでもね

 

そこには当事者がいるんだよ。

 

自分と同じ人はいないけど

 

今 似たような境遇の中にいて

 

何かをがんばりながら

 

同志を探している人というのは 必ずいる。

 

『自分を

 

解放してあげたいよね。』

 

という気持ちのところに

 

同じ願いを持っている人がいたら私は同志が欲しい。

 

一人より10人のほうが

 

動くときは 叶うのが早くなるから。

 

いつもありがとう。

 

☆朝霧 裕公式ファンクラブ陽の下会はこちらから☆

まだまだ、会員募集中です。

 

グレイテスト・ショーマンの劇中歌

「This is me」を 劇中でお髭のある女性のアンというパフォーマーを演じた

キアラ・セトルさんが、はじめて歌ったときの

You tubeの映像

何度見ても好きなので貼っておきます。