皆様へ☆彡

 

さっきの記事の、補足記事↓


 

定期的に、介助の不足や、心理的虐待の中に生きる人のことや

生活保護や貧困世帯のことを

自分が その当事者として 書いているんだけどね

 

なんでばっ!!!!!っと書いたかというと 

最近 すごく感動したことが 立て続けにあったからなの。

 

ひとつは このブログを読んでくださっている方の中で

 

長時間介助を受けながら暮らしている障害当事者の方が

介助さんから

「トイレをあんまり頼まないでくださいね」と言われたり

これって どこからどう考えても 障害者虐待防止法にどんぴしゃで当てはまるよね?

という 状況に生きている という相談を もらっていたのね。

 

でもその方が 

「生きても死んでも新しい生活を掴み取ります!」

と 動いたと連絡をくださって。

 

もうひとつは わたしの友人知人にも

昔うつ病を患ったことがあるとか

今 闘っているという人がけっこういるのだけれど

 

その中のひとりの友達が

 

「でも、自分がうつになってみなければ

精神科なんか行く人ってこわいから関わらないほうがいいとか

うつって自分が弱い人がなるものなんじゃない?

かわいそうぶるっていうか、とか

そんなふうに

なにがしかで追い詰められるような当事者の気持ちがわからなくて

甘えてるんじゃない?とか

弱いんじゃない?とか

ダメだよね、っていうふうに、言ったと思うんだよね。

 

でも 人って、強いばかりの一辺倒ではないし

もし そのままでいたら

いつか自分ががんばりすぎて辛くなったり

家族の状況が変わったりして、自分が助けてほしい時、

 

『弱い自分なんてダメよ!』

 

って 時には弱い自分であることに 大バツをつけて生きて

 

心弱い時助けてくれる人が誰もいない人生を送っていたんじゃないかと思うの。

 

だから、

 

『うつって怠け病だよ』というふうに言ってきた人もいたし

本当に辛い時はあったけど

 

時には 休みたい自分

泣きたい自分

人に支えてほしい弱い自分

 

どんな自分にも マルをつけられるようになって よかった。

 

ここで気持ちがわからなければ

今弱い立場にいる人を 

下に見るような、嫌な人間になっていたかもしれないから」

 

そんなふうに 10年以上苦しんだうつとの闘病のことを振り向いて

話してくれる機会に立ち会って。

 

結局は

「今」は辛い時期にある人も

それは「一生」じゃない。

 

でも 「一生」じゃないはずなのに

 

障害者だから人生諦めた~~~ 

貧困だから人生諦めた~~~っていう人もいれば

(それでいい人はいいんですけど)

 

自分だけの 誰とも違うタイミングで 

 

勝機を得て

 

死に物狂いの命がけで新生活を取りに行く人や

 

今いる場所から 自分の心と向き合いながら


たとえばね

 

「毎日毎日手首を切ってリストカットをしてしまうのが辞められない」

「向精神薬を何十種類も飲んでいなければ死にたくなってしまって手放せない」

 

こんなような状況下から

 

一歩ずつ 一歩ずつ 

もうね 何ミリ単位の 一歩だよ

でもそれでも一歩ずつ

 

「今日は、しゃべれて、楽しい日だったね」

 

って 笑いあえるところまで

 

魂を、自分の中心に再び戻していく人がいる。

 

考えてみたらそうだよね。

 

赤ちゃんのときは

「生きているだけでいいぞよーーーー(・v・)」

って 愛1000%で存在を受け入れられるのに


這えば立て立てば歩めの親心(>v<)!!

 

でも それは すてきなことだけど

 

「あの子はできるのに

なんでうちの子はできないの?!」

 

って


身体や頭脳の能力の比べっこになるころから

 

何かが きっとずれていくんだ。


でも 親も親もそのまた親も きっと多くが そう育ったんだよね。

 

知能や身体能力で〇・×がついて

テストで〇・×がついて

学歴で〇・×がついて

職歴で〇・×がつく時代が

 

200年も300年も 何百年も

続いてきたんだもん、わたしたち。

 

でもそれじゃ 魂が疲れちゃうよね?

 

だから 少しでも

「フツー」や「世間から見たいい子」からはずれた人は

 

「恥」か「変人」か

 

望むところだ(-v-)と自分が思い切れなければ

 

うつ病か

就職が決まらなかったら自殺とか

学校だったら 落ちこぼれ とか そういう扱いになりやすい。

 

だけどやっとこさ

時代の中に

「多様性」

という言葉が出てきたじゃない?

身体とか生き方とかジェンダーとかさ。

 

今 障害の種別や有無を問わないで

 

「わたしこの今の俗に言う<普通>の環境、普通の仕事で

恵まれているはずなのに

心が苦しい

生きづらい

ザワつく

違和感がある」

 

という人は

 

きっとなにかの だれかに言いたいことや 

ほんとうはやりたいことが

大なり小なり 「ほんとうは」あるか

未来の自分が

「こっちに来い。こっちに来い。」

って まだ今全貌が見えてなくても

 

呼んでるんだよ。

 

ああ それ わたしだ。

呼ばれてる気がする。

 

って 今これを見て

 

心がざわつく人は

 

人を羨んで

床を見て

そのまんま死んでしまったらだめだ。

 

もったいないよ。

 

絶対にもったいない。

 

魂を 自分のど真ん中 

正位置に 戻す。

 

たぶんそれは 肚が座るとか

肚から力が出る という状態のことだと思うのだけど

 

これは 生きるしかない。

 

だれも他人が 手を下して 助けてあげられない。

 

でも 

 

絶対に誰にでもできるから

 

ハンパなところで自分から死んでしまわないほうがいい。

 

もったいないよ。

 

そう思う。

 

結局ね

 

誰かが何かを言おうが言うまいが

ブログを読もうが読むまいが

 

やる人はやる。

 

誰を見ても何を読んでも

 

やらない人はやらない。

 

でも、こうやって書いているのは 誰かを煽りたいわけじゃないし

 

(自分で「自分が読みたいこと」をこれは書いているだけだから。)

 

人のことを見て

いいなあ とか

わたしもやろう と思っても

 

「なかなか身体が動かない」のは 時期じゃないのかもしれないし

 

『タイミング』は

 

自分にしかわからない。

 

「飛び込め!」

「今だ!」

 

っていう時は 自分自身にしかわからないの。

 

でもね その

「今だ!」

という感覚を

 

知って死ななきゃもったいない。

 

もったいないよ。

 

 

いっしょに、魂の自由を生きる、

空気読むとか 顔色伺いとか

遠慮のしあいっこはなしで 思ったことは言ってみる、そしてやってみる

練習の仲間を得たいと思う人は

もしよかったら、遊びにきてね。

わたしもまだまだ実験中です↓

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