みなさまこんにちは☆彡

 

お元気でいらっしゃいますか。

 

「うらやましければやってみろ。」

 

でっかいタイトルですね。

 

これね、別に人に言ってるんじゃなくて。

わたしが「自分に」 わたしは、そうする、と、決めていることなの。

 

ファンクラブがあることもそう、秩父のライブもそう、あと、去年、介助さん+友達3人で、信濃大町へ旅行したときもそう。

 

「あの人は外出できてうらやましい」

「あの人はいい介助さんがいてうらやましい」

「あの人は友達と出かけられてうらやましい」

「生活保護のくせに、出かけるのって、ズルくない?!」

「いいよね 障害者は。困ったら、健常者より先に助けてもらえるから」

 

そういう声が 必ずある。

 

個別に返信しないけど

 

「あの人は 外出できてうらやましい」

 

裏を返せば 「わたし、一人で歩けないから外に出られないんです」

 

「あの人は いい介助さんがいてうらやましい」

 

裏を返せば たとえばだけど 「わたし、家に介助さんがくるのがおそろしいんです。意志が言えないんです」

 

「あの人は友達と旅ができてうらやましい」

 

・・・ ・・・「わたしも出かけるボランティアさんや旅好きの友達探してまーす!!!!」って

だれかに言った?

 

「今困ってる、助けて!!!」

って

 

なりふり構わず 本当の本気で言った?動いた?

 

生活保護の当事者であることを自己開示してるのはね。

 

そこに164万世帯の当事者がいるから。

 

164万人の当事者であり、読者がいると思っているから。

 

万に一人は不正受給を故意にやるような人もいるのかもしれないけれど

 

多くの人が、

江戸時代の身分制度が今まだ残ってるんじゃないかと思えるような、

「生活保護の人は昼間からお酒を飲んでパチンコをして

働かなくて楽ちんと思いながら生きている怠け者なんでしょ?」

という強い偏見や、マスメディアの過度の煽りの中で、

 

生活保護を受けていることは恥ずかしい、と、恥と感じたり

人から隠れるように生きたり、

親が貧困世帯当事者の子供さんが、いじめの原因にされたり

 

「恥ずかしい」「言っちゃいけない」「生きていて申し訳ないような思いがする」

そういうふうに、生きてる。

 

生活のスタートは、

経済的にはたしかに、人と比べてしまえば最低限の最底辺になる。

 

でも一方で

生活保護だから出かけてはいけないわけではないし

生活保護だから働いてはいけないわけではないし

やりたいことをやってはいけないなどというはずはない。

 

収入を得たら行政の福祉課に申告をして

 

「収入を得たのに、それを隠していて、生活保護ももらっちゃった」

ということさえ、なければいいの。

 

「こういう場合はどうですか」

という疑問点は、何度でも福祉課のケースワーカーの方に、聞けばいいの。

福祉課のかたを 良きファイナンシャルプランナーとか ご指南役と思って どんどん相談をすればいい。

 

それに、

「生活保護や障害年金で生きている人はズルイよね」

という考えの人もいるけど、その数以上に、

 

「自分の仕事で納めた税金が、本当に必要な人に使われるなら、誇らしい。」

「じゃんじゃん納めて、じゃんじゃん使ってほしい。世の中を循環させられることがうれしい」

そんなふうな考えで

自らが生きる姿を見せ続け

多くの人の応援の元に大活躍をして、世の中を循環させている、わたしが目指すべき生き方を見せてくれている人は

たくさんいる。

 

だkららね

「どっちを見たいか」

「どっちを見て、どっちの世界に、自分自身が生きたいか」

だから。

 

わたしね、「バリアフリーのその先へ!-車いすの3.11-」(岩波書店)という本に

神様に身をささげるつもりで

要介助の当事者であり、生活保護を受けている当事者であることを書いたとき。

過去、家にきていた介助さんの中にも、

「生活保護を受けているなんて怠け者よね」

そんなふうに いじめてくる人がいたことを書いたとき、とても反響が怖かった。

 

でもそれは

「他の誰の人生でもない、自らを生きる誓い」の本であったし

書いてしまえば

「自分」から逃げられなくなるでしょ?

 

だってもう書いちゃったんだから。

 

究極、ブログは消せるけど(でも今は残るけどね!他の人がシェアしたりとかでたぶん(-▽ー))

 

本にして出版社から出したものは消えないでしょ?

 

だから もうこれでぶっちぎるしかなくなるから

 

退路を断って

「本当のわたし自身」を

生きることにわたしは決めた。

 

だれも 世の中に ほんとうに だれもひとりも 自分しか 友達も味方もいなくなっても。

 

それまで仲の良かった友達の顔とか思い浮かべて

縁切られる覚悟とか 全部した。本の発売日のときね。

 

でも

その

「それまでで一番の本気」で自己開示した本は 4冊目で人生ではじめて 全国に届いて、版を重ねた。

まず一番に、介助や介護を受けて暮らす、当事者やご家族

生活保護を受けている当事者の方々や、家族へ届いた。

 

それから、外見からは一切見えない、まったくどこにも障害のない、健常に見えるかたであっても

実は、精神や知的、発達障害など、目に見えない障害に、長いこと悩み苦しんでいた当事者の方々にも多く届いた。

 

そして、最後には、

「もう今は、障害とか健常とか、そんなの関係ないよ。

生活保護は恥ずかしいなんて、時代が古いよ。

わたしはね、わたしの仕事で税金が払えて、それでだっこちゃんやだっこちゃんの友達が

少しでも豊かに暮らせるのならば、誇らしいよ」

 

「生活保護はズルだ、怠け者だなんていう人は、

きっと、心配しなくても、そもそもが、だっこちゃんのことを支えてないよ。

他人まで支えられるほど稼いでないよ。

だっこちゃんのことはね、わたしの印税が支えてるんだよ。

わたし、だっこちゃんを支えられているんだったら、自分の仕事が誇らしいよ。

だって、だっこちゃんや仲間たちは、社会の中に、いなければならない人なんだから。

言葉や姿を、見せ続けないといけない人なんだから。」

 

そんなふうに 言葉をかけてくださる著名な方々

それこそ、幾冊も本を書いたり テレビやラジオに番組を持つ方々

月100万PVを越えるブログの著者の方や

音楽や芸能に身を置く方

 

時代を 後追いではなく

 

誰に何を言われても(変人と言われようとも 賛否両論常あろうとも)

自分の信念を生き

時代を 自らを生きることで先に進める人達の手に届いた。

 

「今の」

わたしのことだけを 少しばかり見ただけだったら

 

人生が 今 うまくいっていていいなあ と 思われるだけかもしれない。

 

だけど

 

そもそもが たとえば 介助のことなんか 生活の最最最低限の

 

「毎日365日のトイレや着替えや風呂をどうするか」というところなんだから

 

「そこに人がいなくていなくて困ってるんです」なんて

 

本当は 本来ならば 人権上 あっちゃいけないんだよ。

 

でも 歩けていたけどある日突然 事故や難病やガンになって歩けなくなったとか

障害や病気をもった「だけ」で

 

本当はもっと外に出たいけどガマンしたり

本当は毎日お風呂に入りたいけど週1回でガマンしたり

本当は近所に散歩に行きたいけど介助がないからガマンしたりしながら

 

一回しかない 今しかない 人生を

ガマン ガマンで生きている人が 全国のどこかには かならずいるでしょう?

 

ガマンが すきで ものすごくすきだったらいいんだけどね

 

「本当は・・・ ・・・・」

と 思うことがあるんだったら

 

「助けて!!!わたしまだここに生きてるよ!!!」

 

と 自らが言わなければね

 

障害も 介助不足も 貧困も

 

当事者がそこに生きてることすら認識されないんだよ。

 

わたし 10年くらい前 約3年間くらい うつ病だったの。

その 生活保護のことをからかってくる 責め立ててくる人たちが 私生活にいて

精神的に追い詰められて なっちゃったのね。

その一件は解決したことだけど

 

当時 わたしも

活躍している人を見て

「いいなあ」

「いいなあ」

って

TVの向こうを見るように 世界に膜がかかったように見えていて

 

「あーあ あの人はいいなあ」

「あーあ この人はいいなあ」

「あーあ いつ死のう」

 

って 思っていたの。

 

でも そのうつの体験は 一人暮らしの中盤戦で

けっこう それまでにも

苦労もしたし

 

同じ難病の友達は10代や20代前で亡くなる人も多かったし

 

どこか ほんとの

自分の心の

最後の最後の最後の底力 みたいなものが

 

「あなたはこんなところでは

死んでいいような人間じゃない。

自分の命を自分の足で

踏みつけるような死に方をしていいはずかないって

あなたは知っているはずだから。」

 

って

 

知ってたの。

 

「言ってたの」だと、足りないの。

 

「知ってた」の。

 

『心が(魂が)知っていることを 

 

わたしが 知ってた』

 

という感じ。

 

これを、子宮の声、魂の声と言うんだなという感覚を

死まで考えるようになるまで思い詰まって

息を殺して生きていたような 最後の最後の もうあと一歩自分を殺したら

自死 自殺しかない というときに 解ったんだよ。

 

・・・ ・・・伝わりますか。

 

だからね

たとえばライブをやります!!って言って やるのも

ファンクラブつくりました!!!って言って やるのも

 

その過程では

こわくないわけ 不安がないわけ ないじゃんか。

 

ライブやりますって言ったけど お客さんゼロ人だったらどうしよう

ファンクラブやりますって言っちゃったけど マジでだれも一人も入ってくれなかったらどうしよう

恥ずかしいな 恥をかきたくないな

って 思うもん。

 

でもね

 

エッセイとは 「体験談」なのですよ(・v・)

 

「山あり谷あり」の「谷」や、

失敗談がなにもひとつもないエッセイなんて だれが読みたい?

 

「やってみたけど、こうでしたー!!!!」

「やってみた結果、こうなりましたー!!!!」

 

って やって はじめて エッセイに書ける内容が できるわけじゃない?

 

挫折や失敗イコール 〇マル ×バツの バツではないってこと。

 

それだけを 肚を括って 決めたらやってみればいい。

 

できなかったら

「できなかったー!!!(^▽^)」

 

って 言えばいいのよ。

自分にうんと悔しがったり 自分に怒ったり 自分に泣いたり すればいいのよ。

 

わたし ほんとに たくさんたくさんしたよ(・v・)

 

でも それでも 

 

自分を生きていればね

 

少なくとも なんにもしないで 「いいなあ。」「いいなあ。」って ブログを見ても 本を読んでも 

ただ人のことを羨んだままで死ぬか

 

「ほんとうはわたしは違う意見だったのに、だれが言ったから従ったらこうなった。」

「ほんとうはわたしはやりたくなかったのに、だれにこうやさられたから、こうなった。」

って

自分の取捨選択を 人のせいにするよりは

 

少なくとも マシな人生になるから。

 

自分がだれか人を見て

「いいなあ。」

と思ったらそれはチャンスだからね。

 

それが「本当は」押さえつけてた自分自身のやりたいことだって、ことなんだから。

そのことに、気が付けた、って、ことなんだから。

 

「うらやましければやってみろ。」

 

自分に言って、道をあけてください。

 

待っていても何も起きない。

 

私が私に、よく言っていることばです。

 

 

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