みなさまへ☆

おげんきでいらっしゃいますか。

 

ランダムに並べてみました写真たち。これ、きっかり1ヶ月間のできごとなんだなあー、、、、。「3、4年前ならこれで丸まる1年間分の充実度」という感じです。会いたい人に会えたり、行きたい場所に行けて歌える頻度が。増えた。

 

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ちなみにこれはきのう。(>v<)

グループホーム<しゃくじいの庭>のみなさんと、

9.24キバナコスモス祭にむけて

「もみじ」「ふるさと」「上を向いて歩こう」の練習風景です。

 

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、、、 、、、めっちゃわたしは キバナコスモスに なりたくなってきました、、、、(・w・)キバナコスモス キバナコスモス キバナコスモス と これからしばらくつぶやき続けます。

 

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実はね、おとといの夜、寝てるときに見る夢で

「一番怖い夢」を見ました。

それは10代のころの自分が、

「自分にとっての最悪の未来」だと思っていたことの再現でした。

 

その夢の中で、わたしは養護学校に通っていました。

でも、10代ではなくて、夢の設定が28歳なんですね。

それで、「養護学校をもうとっくに卒業した年齢のはずなのに、同じ学年のクラスメイトがみんなまだ学校に行ってる」っていう設定で、

そのことを母親に心配される、っていう夢なのです。

「あなたもう28歳なんだから、18歳から10年間も多くいて、

いい加減卒業したら?」

って言われるの、母に。

 

それでね、夢の中のわたしの答えが衝撃的で。

 

「だってここしか、他に行く場所がないもん。」

 

って言うのよ。

 

「行きたかったと思っていたから自ら来た」のと

「ここしかないからいたしかたなしいるしかない」っていうのは

天と地ほども違うよね。

 

「養護学校を卒業したら、あとはもう(社会の中に)居場所が無い」っていうことが、昔のわたしには究極に怖いことだったんだ。

 

それで、朝、目が覚めて、

 

ああーーーー、ほんっとうに、夢でよかった。

 

って思ったの。ほんと、冷や汗びっしょりで。

 

こっちが現実でよかった

本当によかった

 

って。で、人生のうちに、夜に見る夢の中では死んだ祖父母にたびたび励まされて、目が覚めた現実ではたびたび死にたかった時期とか、いろいろな時期があったんだけど、

今は夢のほうが怖くて

目が覚めて ああ 目が覚めてよかった こっちが現実でよかった

と やっと 自分の今を思えるようになれるまで

心が回復してきたんだ、って

「実感」と共に思った。

 

ほんと、6年がかり。

 

わたしね、生きてみて ほんとに思うんだけど

「自分の中の恐れ」さえ、それがあるから、今、これができた、っていう生きる力に、時間をかけてでも、必ず変えることができると思う。

 

わたしは、人生で

「養護学校(今で言う特別支援学校)を卒業後、実家か病院にしか自分の居場所がないこと」が、究極に恐れていることだったから家を出たし

 

これは1回やっちゃった(身をもって体験した)ことだけど

家族や、伴侶や、カレシや介助さんが、

「家の中で介護DVになる(ほっとけば介護殺人までいく)こと」が

やっぱりこれも 究極に選びたくない人生の選択で

 

これについては

 

今回と同じ経験は、、、二度とはねーわ

 

っていう過去の体験もあって

 

「身体的に動けない自分が、社会から隔絶されることへの恐れ」があったから

 

だからこそ、今に来られて、命がつながったと思ってるんだ。

 

よく、心のことを書いているブログなんかで

「恐れから強迫観念で行動しない」という趣旨のものを見ることがあるけど 危険を危険と察知できなければ命が落ちる場合もあるから

(いじめやDVから、本当に逃げるべきとき逃げられない、とかね)

 

自分が

「ごく近い未来に、こうなる自分の姿だけは絶対にいやだ」

という あえて<最低最悪の未来>を一回イメージして

 

「じゃあ 究極的に考えて

ぜったいそっちへだけは行かないためには、どうしたい?」

と 聞くとね

 

闇雲に未来が怖い

 

だけどもうすでに生きる自信を90パーセントくらい失っているから

何かを決めたり まして動くのなんかこわい

 

という 「なんだかすごくものすごい、体が鉄や鉛で固められているような、心と身体の状態」から

 

半歩 足が出る もしくは

 

「こんなところで死んでたまるか」

 

という 自分の命と心を生きる為のスイッチが

ガッと入るのではないかと思います。

 

とはいえ、今はこれだけネットの時代だから

「身体的に動けないから人とのつながりが得られない」という時代ではまったくない。昭和の時代みたいにね 恐れなくてもいいのかもしれないけれど

 

自分と他者とのつながりが「親だけ」、「介助さんだけ」とか

たとえば、「結婚して家庭を持ったらどんどん友達が減っちゃう」みたいな、自分から世界を狭くするような人生の選び方をしていると

(別に幸せならなんだっていいけど(-▽ー))本来なら、安全な安らぎの場であるはずの家が


「ワンオペ介護」、「介護疲れ」、「果ての虐待や殺人」ってなったときは

辛い苦しみの場、ともすれば暴力や殺人の場になる。

 

気がつくと もう「助けて」って言う機を逸するかも知れない。


この「追い詰められかた」については介助する側も一対で同じ。

 

だから、

身体的に動けなかったら

動けなければ動けないほど

「頼れるのは家族【だけ】」

「頼れるのは介助さん【だけ】」

という状況に身を置かないこと を

意識して生きているのでございます。

 

最初の最初の出発点は わたしの場合は

「こんな最低最悪の未来にだけは行かないように」というイメージへの

<恐れ>からのスタートだった。

 

でも、それだって 命をかけて選べば

段階を踏んで 気持ちも状況も変わる。

 

出てみれば

必ずだれかに会うもので

怖くても

動いちゃったほうが早い

 

っていうのを

障害の有無を問わない実践者に学びつつ

カンに従い、やってきて

今に至るのでございます。

 

養護学校の中しかしらなかった10代とか

大人になってからも、うつになったり、

最悪の時期の自分から見れば、

 

今が

なんかきつねにつままれたようっていうか

過去と比べたらまだ慣れてなくて

自分じゃないみたいっていうか

夢の中を生きているみたい

です。

 

でもこれは今、本当に私だから

人間はいつからでもどうにでもなれる。

 

本音に添って 今日の今 本当はどうすごしたいかを

ただ決めるだけです。

先の予定とかも 本当は あなたは どうしたいかを

ただ決めるだけです。

 

あきらめなければ

必ず 叶うし

あなたのことは、誰かが 必ず 見ています。

(そんで 決めることに慣れてきたら 特に誰も見て無くても別に大丈夫、ってだんだんなってくるから大丈夫。)

 

もしだれもいなそうだったら私が見てるからだいじょうぶです。


自分を 根気強く信じていてね。


↓自分の心、本音の声と向き合いたいときに超絶おすすめの本たち↓

「女の幸せは”子宮”で決まる!」(KADOKAWA)他

子宮委員長はるちゃんの本ぜんぶ↓

 

 

心身調律セラピスト 

地球家族の提唱者

岡田哲也さん著「ほんとはどうしたいの?」(和にブックス)

 

これはわたしの本。「自分を生きたい」すべての人に届きますように。

朝霧裕著「バリアフリーのその先へ!車いすの3.11」(岩波書店)