HELLO!!!みなさま!!

今日も元気ですか。(・v・)


いやあのね。

ガマンはよくないからと思って。


悪口の悪口(?)書いたらあっという間に100シェア越え、、、 、、、


って、、、どうしたみんな?!

だれにだって似たようなことがあるのかな。


でもさ、ゾクゾクしちゃったよ。わたし、ブログ、こんなにいろんな人が読んでくれているもんだと

ほんとに思ってなくて。


アクセスが多いときは、だれか著名なかたをFBでタグ付けしてリンクしていたりとか、
わたしの力じゃないと思っていたから。

でも、一回ごと「読んでるよー」て言わなくっても、読んでくださっている人は(ほんと、思った以上に!)いるんだね。


昨日はね、高校の頃、なんと10代の頃から今までずーっとお友達だった、まだ朝霧裕って

名前がなくて、本名で雑誌のライターしていたころから、応援し続けてくれた女性が家まで
遊びにきてくれて。
いっしょにごはん食べて、めっちゃ楽しかったよ☆


そのかたが企業でマーケティングをやったことがある女性でね。
人間の「好き・キライ・どちらでもない」の割合は、

「4・2・4」なんだって。

だから、

ライブのお客様や本の読者さんが1万人いたら、

4000人は朝霧裕さんを「好き」

2000人は「嫌い」

4000人は、「別にどっちでもない、興味ない」なんだって。


本を書いたり、歌を歌って、CDを売ったりする人は、

「アンチでもないけど、別に興味もない」っていう人達の中にだけいたら そりゃ一番波風立たないけど

それはそれでしかないってことでもあって。


ああ、声が届いてるんだ、って思った。


本当に影響力がある人やことって、必ず、激しい賛否のまっぷたつになって、「別にどっちでもない」という数が減る、と、、、これは、わたしが出版でお世話になった編集者さんにきいたこと。


でもさ、「相手の反応がこわいから、言いたいことを言わない」

「相手の反応がこわいから、やりたいことをやらない」

っていうふうに生きていると、別にエッセイを書いたり、歌を歌うかの話じゃなくて、


人生が、抑圧の人生になっていくんだよ。


「親の反応がこわいから、言いたいことが言えない」

「介助さんの反応がこわいから、やりたいことができない」

「世間の反応がこわいから、やりたいことが、ほんとうは、あるけれど、やらない」


わたしね、こういうふうに生きている人って、ハンパじゃなく数がいると思ってて。

だって

「だっこみたいに、やりたいことをやっている人は少ないから、

みんな羨ましいから、叩かれたりもするんだよ」

っていうことばを、朝霧裕になって人前に出てからあとは今までに、

100万回くらい聞いてきたから。


でも、自分を幸せにしてあげられるのは自分だよ?!


「親のせいでやりたいことができない」

「お金がないからやりたいことができない」

「昔学校とかでいじめられたトラウマのせいでやりたいことができない」


そりゃ、なにかはあるよ。(ほんとに、ない人もいるのか、それはわかんないけど。)

「なんで、わたしばっかり、こんなに苦労をしてきたのに、

まだ、なんで、こんなにも辛いのか?!」

っていう、地獄みたいな人生の時期ってあるよ?


でも、それは、一生じゃないからね。


他人の動向とか、嫉妬とか、自分の中の嫌いなものとか、怒れることとか、

それにフォーカスし切ったら、


あとは、自分。


でいいの。


今、ブログとか、どんな表現手段からでも、想いを言葉で、表現している人達で

発信力、影響力のある人達は、

とことん、「自分」と向き合って、


はい!!もう、十二分に苦しみましたので、

あとは、もういい加減、この命、自分のために使いまーす!!!って、

神様に宣言をした人達。


わたし、特定の宗教を持っていないけど、「生きる姿勢」って、

自分のご先祖さまとかさ、何がしか、目に見えない、理屈で説明のつかない、

「見えない世界」の方々に、ぜんぶ見られていると思っているから。


それでね、自分のご先祖さまとか、たとえばだけど、亡くなったおじいちゃんおばあちゃんとかね、

わたしは、友達ももうたくさん亡くなっているしさ。

その、「見守ってくれている人達」が、何を思ってくれているかというと、


「この人が楽しく幸せに生きていられますように」って、ずっと想いをこっちに送ってくれているんじゃないかって、本当に、信じてるわけ。

何か日常で、ふと、そう思ったことない?


その「見えない世界の方々」の呼び方が、

「ご先祖さま」でも、「神様」でも「バシャール」でも、「守護霊」でも、「天使」、「妖精」、「精霊」でも、

わたしは、なんでもいいと思ってて。


でもね、

『自分が楽しく気持ちよく幸せに生きること』を、もう、自分に、許可しました!!!

って、歩み出した人と、

まだその前の段階にいる人とが、合わなくなってしまうのは当たり前のこと。


だから、ひとつのものごと、人、できごとなんかを見て、

「どう見る?」

「どう感じる??」

というところで、まあそりゃあ、

「合う・合わない」、「好き・嫌い」

あって当然なのだわね☆彡


そりゃ、わたしに対しても、あるよね。


ただね、わたしは、わたしを好きな人にしか、何もあげない。

(↑これね、同じ言葉を、わたしの大好きな、子宮委員長はるちゃんも、

いつだったか、言っていたと思う。)


だってそういう意味での「(どうでも)いい人」「いい子ちゃん」、、、やってたけどね、昔は。

でももうさすがに時間が無いよ、30代からそれやってたら。


「たくさんの意見の中で、自分を見失いそうになる」

という時がもしもあったら(わたしはこのごろ本当にないけど☆)、

「わたしが、どうしたいか」だけに、集中。


だって、あとになって、「アイツのせいで人生がダメになった」とかさ。

「アイツのせいでわたしはうまくいかない」とかさ、

他人軸で生きて、自分の心の中はからっぽで、

自分を、生きないのって、

最後死ぬとき一番苦しむの、自分じゃん??


たった一回の今生。

生きているうちに、自分の魂を、幸せにするのは、自分だよ?


「魂の幸せ」について

「自由」について


本が書きたいなあと思っている今日この頃です(・v・)