クリスマスの夜!!

花園大学の講演の写真DVDが届きました☆彡

先生方、ありがとうございます!!!


お送りいただいたお手紙の中に、

生徒さん達からの感想として、

「だっこさんのお話は、<人権>というテーマであっても『こうすべきだ』『こうせよ!』と声高に叫ぶようなお話がない。だから、響いた」

という共通認識があったと、とってもとっても嬉しいお言葉を頂きました。


その行を読んで、


やったっ!!!!!☆\(^▽^)/☆と思いました。


花大での講演(公演?)は、

「すべての命に花マルをー生きることに他者の承認はいらないー」というタイトルでした。


生きることに他者の承認はいらない。


言い換えれば、自分以外の人間に、ああすべき こうすべき ああせよ こうせよ あんたは障害者なんだから あんたはまだ年齢が若いんだから もうこんなに年齢を重ねた人間なのだから

オンナってこうすべきでしょ 主婦ってこうあるべきなんじゃない うーん これ本当に 何度書いても いろいろありますね、、、どれにしろ


べきべきべきべき言われたくないよ(-▽ー)


と いうことです☆


わたしね 言われまくってきました。

最初は母親でした。

今でこそ!っていうか 今でなくっても 尊敬してる素敵な(そして今にしてわたしよりはるかに柔軟で面白い)母です。

でも、0歳から22歳まで365日 一日も休「め」ず(※休「ま」ずじゃないよ?)母が介助をやってましたから。トイレも着替えも寝返りも風呂も外出介助も一切、すべて。

その当時の、親子の関係性は完全に「介助を介した共依存」でした。


「あなたは身体が弱いんだから、寒い冬に外へ出る『べきじゃないでしょ?』」

「雨の日に車いすで外へ出るのは大変なんだから、こんな日は家にいる『べきなんじゃないの?』」

「スカートなんてはいたら足が冷えちゃうからズボンに『しなさいね!!!』」

「そんな下着じゃお腹が冷えちゃうからおへそが隠れるパンツに『しなさいね!!!』」


そこの!画面の前の!今!これを読んでいるかた!、、、 、、、したことある?!こんな生活。

中学生や高校生にもなって、自分の下着の色柄をお母さんが選んじゃう生活!(しかも女子で)


わたしが家を出るまで、「365日24時間1日も休めない介護者」にならざるを得なかった母の生きがいというか生きる目的も、充実感も、フルスロットルな振り切れたストレスも、すべてを私にぶつけるしか、母にとっても、やり場も、逃げ場も、どこにもなかったのです☆

公的な介助保障制度が、2003年までは日本になかったからね。


それで、結果、どうなったかというと<介護を介した支配>、「娘はわたしのもの!!」そういうふうな、接し方に、なっていました。ならざるを得なかった母のほうがわたしの100倍辛かったかも、と思います。だって、介助一日も休めなかったんだもん!と。い・ま・は、思います。


でも、当時(あくまでも当時よ!)、徹底した「ああすべき」「こうすべき」「どうすべき」で、<自分が自分の着る服を選ぶ>ことすら、自分以外の他者の意見が必ず介在して捻じ曲げられる、、、、という育成環境にあったわたしは、ほんの1グラムでも、

「ああすべき」「こうすべき」と言いたがりの人、

人に対して「上から目線」の人、コントロール・支配したがり要素を持つ人がいると、

「自分の命を守るためにこの人には近寄っちゃいけない」と解るので、絶対に関わりません。


ああいうのは人生のうちに一回でじゅうぶん、二度は無い、っていう体験と思い、いっぱいしてきたからね。


それから。親の次は昔の養護教育。これもあくまでももう大昔だけどね。

「障害者は自立するべき」

「障害に甘えないようにしなさいね」

「何でも一人でできるようにリハビリすべき」

「重度障害者は入所施設に暮らすべき」

「できる限り、人のお世話にならないように生きていくべき」


、、、 、、、これって、たぶん、昔の養護教育だけに限ったことじゃなくて。

すごくたくさんの人が、「不得手やできないことがあること=悪い」、

「人に甘えたり頼ったりしちゃ『いけない』」と、思いこんだ、結果・・・ ・・・。

おかげさまで、今の社会問題は「孤立、孤独死、引きこもり、無関心社会」だよね。

私は、できるだけ、生活や人生の喜びを<人と分かち合うこと>が、豊かな社会の循環を作ると思ってるよ?

「自分一人で何でも全部できないこと」こそが、福祉社会を作るためには、社会貢献だとさえ持ってるよ。

だって、全部できちゃう人ばっかりだったらさ、できないやつ、弱いやつは一人ぼっちで勝手に死ねば?っていう社会になっちゃうじゃん?

、、、 、、、っていうか、すでに、もう、けっこうなっちゃってない?


他者や制度に頼りたいとき「頼りたい!」、助けてほしいとき「助けてほしい!」って、

言えない人ばかりを作り出す社会を自分たちの間違いでみすみす作り出すことのほうがよほど問題で、その顕在化が、今、目の前に広がっているこの世界の中にある貧困層や引きこもり当事者の固定化なんだと思う。家の中でDV受けてもガマンしてる人が本当には何万人もいるだろうこととか。

人ってさ、人にべきべきべきべき言っているときってたぶん、言っているその一瞬だけは気持ちがイイんだよね、だって、人に人のこと言ってるときの状態って、、、 、、、自分のこと考えなくていいから。


でも、そういう状態、人にばっかり、ああすべき、こうすべき、声高に言いたがりの人が、

本当に幸せな顔してんのわたしあんまり、いや、たぶん一人も知らない。


そういう時って、みんな「自分」がおざなり。人のコトは声高に非難するくせに、「自分自身」は、

のっぺらぼう。そういうふうに、自分がなるのは、ただ、「いやだな」って、思う。


「その人がその人として生きること」に、やっぱ、他者の承認は要らない。


「自分は自分、人は人」って言う言葉、物凄く昔昔からあるでしょ?


それを、良い意味で自分にも他者にも肯定すればいいだけ。

人権って。

自分のすべてをぜんぶ自分が肯定する。

うん。わたしはわたしであっていい、って。

生まれながらに、その権利を持ってるんだって。

「何かができなきゃ、その資格を得られない」んじゃなくって。

人権って資格性じゃないしね。

だれも、ひとりも、とりこぼさずに、わたしもあるんだってば。あなたも、あるんだってば。って、

腹の底、丹田の底の底、とでも言えばいいかな、肝の底???わかんないけど、

魂の底の底から、腑に落ちてれば、みんな自分を精一杯、こころ、身体、寿命使うのが楽しくなって、

アタマだけで演説打とうと思ってもむしろできなくなるんだよ。


強い言葉を言ってもね(私も言うし)、たとえば、語調のどこかに「こうすべき!」、たとえば、

「今飢え死に寸前で困ってる人に生活保障を早急にすべき」とか、私も言うよ?!でも、言う時って、

響くときは、言う側も、本当にそうなってほしい!!!!!っていうことがその人の本当の「願い」で、

「願い」に、命賭けてる時だと思うんだ。


この一分一秒を、その言葉を言うことに、全部使って、捧げて、命かけてるとき。


ちょっとやそっと「ああすべき、こうすべき、どうしろ、こうしろ」っていうことがかっこいいでしょ?!みたいに酔ってるような質の人が言ったんじゃ、やっぱり、届かないと思うんだ。


わたしは、だれも、ひとりも、とりこぼさずに、女性も子供も障害者も高齢者ももちろん男性も、とにかく生きとし生けるすべての人が、「自分を生きる喜びの中に生きることが叶うこの世になりますように、、、、」という、願いをいつも持って書いてる。あと話してる。

負い目持ってるとか、人の目線が怖いとか、自分の親や、誰かしらの介護をしてくれる人に支配されるとか、そんなんじゃなく。

死ぬ前に。生きてるうちに。


ほんと、生きてるうちに。


だから、願いを持ってる、って言うんだったら、自分がそれを、諦めた人じゃなくて、信じてる人にならなきゃいけなし、実践者にならなきゃいけない。


っていうことを、好きでやってる。


「〇〇たるもの、こうあるべきだ」「〇〇なんだから、こうすべき」「当然、そうするんでしょ?!」


、、、 、、、あなたは、どのくらい、それに縛られて生きてきましたか?


わたしはもうぐるんぐるんのごてごてのぼろぼろのがちがちのへろへろの窒息死から今があるのよ(-▽ー)?!


クリスマスの日、写真が届いて、お手紙が届いて、最高のプレゼントをもらった気がします。


すべての人が、生まれた瞬間の環境とか身体とか、育成の環境とか、もうどうにもこうにも選べざるものとして負わされたもの、それから、何がしかの挫折とか失職とか失恋とか、後天的なできごとから「負ったもの」その、心の、業みたいなもの?

自分が「苦しかったもの、本当は今も苦しいと思ってるもの」から、解放されるような質の、お話し会や執筆をこれからもやりたい。という、明確な願いができた。(もともとの願いが、より明確になった、というほうが近いな。)


読んでくださるみなさまに、感謝☆