魔法使いになる方法(の実験)第一話。
『「楽しい」は「楽しい」を引き寄せる』を書きました。
でね、きのうおととい、地元地域のお祭りだったんですよ、うちの前に屋台がいっぱい出てて(^▽^)
で、近所のお店が、オープンガーデンみたいに、外に椅子やテーブルを出していたから
遊びに行ったの。
そしたら、そこの店員さんが、
「わたしゆうべだっこさんのブログ読んでから今ここにきたんだけど(^▽^)」
と、言ってくださり。
「わー!(・▽・)ありがとうございますっ!!」と固い握手!
、、、と、、、、隣近所にまでも読んでくださるかたが、、、、
こりゃますます悪いこと書けない、、、?(・v・)
と、思いつつ、、、、けったいなタイトルでこんにちは。(^▽^)
タイトルは、自分がすごくよく思ってること。
このごろの時勢を見てね。
わたしね、車いすで街を歩くと目立つのか、
いろいろな宗教のかたがたに声をかけていただき、
教本とかパンフレットとかお札とかお守り的ものをいただいてしまうんです。
特に駅前。
それで、私は、たびたびいろんなところに書いているように
「超党派超宗教超身体、みんな『地球人』でいいじゃん?」
と根っから思っている人間なので、
人の価値観も当たり前だけど基本、全肯定
でもわたしはわたしを信じています と 思って生きているんですね。
だからいろんな勧誘のかたに会ったときも、どっちもが嫌な気持ちにならないように
「あら、どーもー!(^▽^)」みたいなね、『愛想がいい』んですわたし。
基本、怒った顔とか、怒鳴ったりとか、
「どうせ通りすがりだから何言っても別にいいじゃん!!」みたいな断りかたとかはしないんです。
でもさ。今、ネットを見てると、
「とにかく自分と違う意見のやつは叩けばいい」みたいな投稿も溢れてて。
まあ、「見るのもいやだ」と思った記事とかは、
見ないけど、、、、。
って、書きながら思うんだけど、
「伝え方」って、やっぱりほんとうに大事だな、ってことです。
本質的にはだれかにとって(たとえばわたしにとっても)正しいと思われることを言っていても、
文字にしてそれが罵詈雑言にしか取れなかったら
「なんかもうSNSも疲れちゃったね。MLとかも内々で喧嘩ばっかしてんだもんね」
と、「見るのが疲れる」で、人は、離れていく。
それをどう回避するかというと、たぶん「シンプルさ」が一番なんじゃないかと思うんです。
今、ここから、わたしが、世界に向けて。
想いや願いを、発信します。
そうやって、主語を「わたし」で書いたとき。
他人への怒り、恨みの発信を入れないで(あっていいんだよ、胸の中には)
「わたしは、こういうことが、未来に、叶えばいいと思ってるんだ。
そういう情景が、心の中に今見えていて、信じたいんだ」
と、発信をする。
そうするとね、「届きやすくなる」と思った。
自分と違えば叩き合う、お互いが顔も知らない、傷つけても別にネットの中だしね、
どうせ実際には会うことないし。
そんな「『どうせ』が頭に付いている黒いエネルギー」を、どうしたら遮断できるのか。
震災から4年半経って、一度は、
「生きてるだけで、命が助かっただけで感謝だよね」
と、だれとでも手を取り合えたわたしたちが、
たくさんの不条理の中で再度、なぜ、今、
「人の声を聞くことにさえ、疲れてきてしまっているのか」を考えた。
で、思うことはやっぱり「ことばのつたえかた」「つたわりかた」なんだろうな、っていうことだった。
わたしは神で おまえらバカだ でもないし。
わたしはバカで あなたは神だ でも ないよ?
私は神だ、あなたも神だ(^▽^)
もしくは
私は人だ あなたも人だ(^▽^)
人として、「どっちが上」とか「下」なんてない。
でも、今、芸能人や著名人が何かひとつ「多数の意見と違うこと」を書こうものなら総叩き。
でも、少なくとも、「自分であること」がもう「職業」の人はさ、
注目をされること自体も、仕事のうち、だから、それで社会がまわってるんだと腹を括ればいいのかも。
でも、それを見て、
「なんか言ったら叩かれるんだ」ということだけが
繰り返し 刷り込みされて、
同じを目を見るのはいやだから
たくさんの人が 上っ面でしかしゃべらなくなる もしくは 沈黙してしまう。
「波風を立てたくないから、人と、しゃべらなくなる」
これが若い世代の人にまで伝播されてしまっていたら、
それはすごく、心が、窮屈なことだね?、と思うんだ。
生身の身体と心といのちを持って生まれた。
わたしたちの発想は 本来、豊かで
しなやかで 自由で
ゆらぐことや 悩むことさえ許容して
優しかったはずだ と 思う。
そして今多くの人が抱え込んでいる「ネットを見ること、人と話すこと自体に感じる、心の疲れ」や
「閉塞感」の打破を、わたしたちは、できると思うし、
『できると思っている人はもうやっている』んだと思う。
わたし思うんだけど。
「生きること」に他者の承認は要らない。
「話すこと」に他者の承認は要らない。
『他者の承認』を得なくても、思ったことを、話していいの。
強くなくても、神じゃなくても、その道のプロじゃなくても、話していいの。
だって、あなたには、あなたの「心」があって、
あなたには、あなたの「考え」があるから。
それは身の内から湧いて出てくるもので、
ときにぽろぽろ泣いてしまうほどの祈りで、願いで、
これを捨て置いて見ないふりをして作り笑顔では笑えない、
そのくらいの「純粋な想いや願い」が湧き出でてくるから、
怒りや悲しみも、先を信じたい祈りや希望も、
今抱えながら、生きているのでしょ?
だれもだれかにわかってほしい。
そのきもちが「ゼロ」っていう人はいないと思う。
だから、何かを書いたり、話したりする。
時には、ものすごい、勇気を出して。
自分もだよ。
でも、相手もだよ?
それをね、胸の真ん中に据えて、
自分と他者を本当に想いながら話せば、
「人と人は対等」っていう基点から話せる。
人を「上下の関係」にしたがる心に陥らないで、想いを言える。
あなたのその願いに共鳴するよ という人と 磁力があるように、会えるようになる。
「ただ一回、自分のストレス解消的に書いたこと」と
「命をかけて継続して言葉を書いている人のこと」との違いは、必ず、見る人からしたら
見えかたが違っていて、
たったひとりの、個人の声でも、必ず、か・な・ら・ず!誰かは見てる。
実際、「ただの個人でしかないわたし」が本を出したり、人前で歌を歌ったりできているのは、
学歴もない、大きな芸能事務所に所属しているわけでもない、
「たった一人の、個人の声」を、見ている人が、本当に、いたから。
そして、ことばが人に届くとき。
それは、「あなたとわたしは思うことが全部同じだから」引かれ合っているんじゃないの。
人と人とは 違って当たり前 けど
願いや想いのその中に、
「リンクする一点」があるから。
ことばを、放つときは、その「リンクする一点」が、自分が届かせたいと思ってる対象に届くかどうか。
それが一番大切なこと。
その『一番』を、「あれもこれもあれもこれも伝えたい」
「相手の気持ちなんか別にどうだっていい、どれだけ傷つけても構わない」という伝え方で濁らせない。
書いている分野がどんなものでも、たとえば、
「たとえ言葉が過激でも多くへ伝わる人」は、本当に、自分のことも、言葉を伝えたい相手のことも、
同じ比重で、心の底から、ほんとに愛しているよなあ、と、
「ことばが多くへ伝わる人」の本やブログを見ていつも感じます。
『今、ここから、わたしが、世界に向けて。想いや願いを、発信します。』
覚悟を決めて、
「私は神だ、あなたも神だ(^▽^)」というくらいの愛で。
そしたらね、そこに選ばれて、書き出され、「最後まで残ることば」はなんだろう?
そう想いながら、書いたり、話すと、
「伝えること」それ自体。そのものが、「愛おしい」こと、に変わるはず。
、、、 、、、と、言うわけで、わたしは「話すこと」も、同じように「聞くこと」もすきです、
主語を「わたし」で、話すことに、けっこう、命をかけてます。
という今日はお話でした。
いつもありがとう。