人権侵害!なわけですけど、このルールはどこから持ち込まれたかというと、当然ながらユダヤ教からなわけです。

 

今回は、大好きな田川建三先生の著書『新約聖書訳と註・ヨハネの福音書(P448~P463)』に、ユダヤ教内で問題を起こした人の処分方法についての記載をみつけたので、ユダヤ教における追放処置について、はしょってはしょって簡単に紹介したいと思います。そして最後に、私の感想や小言の記事を書きたいと思います。

(はしょってないところなどなどが気になる方は、『新約聖書訳と註・ヨハネの福音書』を手に取ってみてください!)

 

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ユダヤ教社会の「追放」という処置には3種類あります。先ず2種類を紹介します。

1「nediphā」(ネジファー)
警告するという動詞から作られた名詞。これだけでは追放はされません。

 

そして、2つ目の段階には、さらに2種類あって……


2-1「niddūi」(ニドゥイ)
遠ざけるという動詞から作られた名詞。
2-2「shammattā」(シャムター)
ぞっとするという名詞から作られた抽象名詞。

1つ目の「nediphā」以外は追放処分にあたります。金銭的犯罪、律法やその教師を軽んじたり、不道徳の繰り返しなどをした人が受けるものでした。

 

そうなるとどうなるかというと……

 

・家族とは普通につきあえる。
・商売上のつきあいもできる。
・家族以外は3m以内には近づけない。
・原則30日間の処置で、改善されれば解除。改善されていなければ延長される。

 

どのように決定されていたかというと……

 

・指導的律法学者なら誰でも下せる。
・乱用を避けるため、決定の際には3人からなる裁判委員会のようなものが設けられた。
・宗教指導者自身は処分対象にしてはならないという決まりがあった。


しかし、追放処分に関しては、先に挙げた2種類よりも、もっと重い処罰、エホバの証人でいうところの「排斥」のようなものがありました。それが3つ目の「h(下に.)erem」(へーレム)です。「herem」は「niddūi」や「shammattā」を受けたあと、様子を見ても(30日×2回)反省の色が見られないと受けることになり、人づきあいも、商売も、より強い制限を受けるようになりました。
(これらの処分はユダヤ人の一員として暮らしている人に意味があるものであって、キリスト教徒の会堂からの追放とは無関係でした。ましてや「herem」をキリスト教徒が受けたということはありませんでした。もはや成員ではなく「異端者」なので、それはそれでまた別の扱いとなったようです。)

 

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ここから私の感想や小言などなどでする真顔

 

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私はこれを見て、処分措置に3段階あるところ、決定のために審理委員が3人で開かれるところ、その後の信者の対応、本当にエホバの証人の仕組みと似ているなと思いました。 ユダヤ教のやり方を、しっかりトレースしているように思えます。

 

エホバの証人がユダヤ教と似た処分制度を持っているのは、コリント会衆で問題を起こした人への対処方法がひな形になっているわけですよね(コリント第一5章)。パウロは、当時の会堂のやり方にならって、その人を会衆から追放するようにすすめました。そして、さらにパウロは、十分に処罰を受けた人の復帰を許さない会衆の態度が、サタンの策略にはまる原因になることを指摘しています(コリント第二2章)。

 

実際、排斥された人が復帰の努力をしても、なかなか復帰できないみたいなことってありますよね。ただただ、うわさ話のネタになるだけ。そのうちに集会に来なくなります。これって、エホバの証人がクリスチャンにとって一番肝要な愛を示しておらず、サタンの考えを行っている証拠になるのではないでしょうか? 厳しい戒律を持つユダヤ教でさえ、あまりにひどい場合をのぞいて、追放を受けても30日程度で復帰ができ、家族とも普通に暮らすことができるのだから、エホバの証人の処分制度は度を超していると思います

 

そして、使徒20章29節には、圧制的なおおかみが会衆に入り込み、群れを優しく扱わなくなることが予告されています。そんな人たちに処分制度が運用をされたら、どうなるでしょうね? 自分に都合のいい集団を作るために、処分制度を悪用する珍獣が現われると相場は決まっていますよ。

 

ちょっとでも気に入らない態度を取ったら、処罰することをちらつかせたり、実際に処罰してしまえばいい。成員も処罰を受けた人の話は聞けないし、珍獣たちに逆らった場合の見せしめにもなります。そして、復帰の判断をするのも珍獣なのだから、そいつの靴でもなめない限り、二度と戻ることはできないわけです。

 

私は、長老団全体での不倫の許容などなどや、「私たちに従うなら制限を解除し、特権を許してやる」と言われたことに躓いて、日本支部の奉仕部門に手紙を書いたあと、話し合いの連絡も、処分の決定も、その処分となった原因についての連絡も一切ないまま、無秩序な者として会衆に対して発表をされてしまいました。

 

そして、ある地域監督の生前最後の言葉は「支部だけには逆らうな」でした。逆らうと恐ろしいことになるそうです。

 

83年12月15日号の『ものみの塔』の記事によると、圧政的なおおかみは、イエスの使徒たちの死ぬ前でさえ,初期クリスチャンたちの間に姿を現わし始めました」というわけですから、現在会衆にいる長老たち、そして組織がそうではないなんて言えるわけがないと思います。

 

というわけで……

 

生殺与奪の権を珍獣に握られるな!!

 

という某人気漫画のせりふのパロディを、この小言の締めとしたいと思います。にっこりお茶