40年程前に北海道から東京に出てきての車の運転
「相互入線」に驚きと喜びを感じたことがあります。
そして、ハザードをパカパカッと点滅して感謝の印
東京の優しさと裏を返せば「マナー」の必要性を思うのです。
6年ほどここ伊東市に住み運転をしていますが、
最初に驚いたのが対向車による右折です。
信号待ちで最前列に停車する羽目になった時は最悪です。
対向車線の右折車両は必ずといっていいほど直進する私よりも
先に右折していきます。対向車線に「右折専用レーン」があってもです。
ということで、ここでちょっと私captain流の分析
彼らは「逃げている。」のではないでしょうか?
そりゃそうですよね、直進する私が追いかけられるはずもない。
追いかけて「危険ではないかっ!」と言ったところで、どうなるでもなし。
この国の人たちなのか、この街の人たちなのか、
とにかく「異見」を嫌う傾向にあります。
これも私的にいうと「異見に敏感」ということになるのですが。
要するに動物のごとく自分と同じ匂い〔考え〕をすばやく感じ取るのです。
異なる匂い〔考え〕にはすぐさま反応して立ち入ろうとしません。
そうです、「逃げる。」のです。
例えば最近〔といっても随分、時が経過していますが〕若者が「キレル」といわれました。
原因のひとつは「貯める。」という行為です。
本来自分自身の中に「貯める。」ことなどできない、もしくは既に容量オーバー
これでは当然、溢れ出して、それが「キレル。」という現象となっていきます。
皆さんの周りでもありませんか? 友人知人が怒ったときのセリフ。
「あの時だって私は・・・・・」 「本当は私は・・・・・・・」
「いままでずっと我慢して・・・・・」 「始めから私は嫌だったのに・・・・」等など
恋人同士の痴話喧嘩なら笑って許せる〔?〕かもしれませんが。
このようなことが日常の人付き合いや仕事で起きていたのでは・・・・・。
どうして人は、そんなにもして自分の周りを心地よき理解者だけで
生きていこうとするのでしょう?
他人の生き様を「知って」「理解して」そして「批判」してもいいのではないでしょうか?
「批判」と「否定」は明らかに違います。
もう、20年近くの知人になりますが、吉田康彦氏がいます。
彼は北朝鮮問題の専門家であって「親北朝鮮」といわれています。
私は彼の考えを肯定していません。「親北朝鮮」でもありません。
でも私は吉田康彦氏を現在も師と仰いでいます。
人間的にも素晴らしく尊敬に値します。
そんな関係って、私は当然あってしかるべきものなのであります。