そう言った途端、私はまた泣きそうになった。けれど今度は泣かない。笑顔でいるんだ。それが拓郎さんが私に望んだことだから。
このとき、なんとなく拓郎さんの気配を感じた。私の耳元でそっとこんなふうにささやいた気がした。
「未優樹さん、それでいいんだよ、それで」
えっ。思わずあたりを見回した。けれど何もない。
カラン、コロン、カラン
ドアのカウベルがふいに鳴った。ふと入口の扉に目をやる。けれど、扉は開いていない。あれっ、気のせいかしら? けれどそうではないことをマスターとマイさんの視線で悟った。
「風かな? でも扉が開いてないのにカウベルが鳴るなんて…」
私にはわかった。拓郎さん、ここにいたんだ。それがわかった瞬間、別の不安が襲った。拓郎さんがここにいたっていうことは、拓郎さんは、まさか…。
その不安は悪い方向で的中した。ふいに私の携帯電話が鳴った。公衆電話からだ。胸騒ぎがする。恐る恐る電話に出る。
「もしもし、浅田さんでしょうか?」
聞き覚えのある女性の声。その声は震えていた。最初は誰の声だかわからず、返事をするのにとまどった。
「田上拓郎の母です」
その言葉で電話の相手がわかった。
「はい、浅田です」
嫌な予感はさらに強くなる。拓郎さんのお母さんからわざわざ電話がかかってくるなんて。何かあったに違いない。
「お母さん、拓郎さんに何かあったのですか?」
「浅田さん…拓郎が、拓郎が…」
お母さんはそれ以上声にならなかった。私の表情が強ばる。カフェ・シェリーに緊張感の空気が漂う。
「お母さん、落ち着いてください。拓郎さんに何かあったのですか?」
「…ごめんなさい。拓郎の状態が急に悪くなって…今お医者様が対応しているところです。それで万が一のことを考えてくださいって言われて…」
拓郎さんが!? 私はいてもたってもいられなくなった。
「今からそちらに向かいますっ!」
そう言って電話を切ると、私の足は勝手に行動を起こし始めていた。
「マスター、マイさん、ありがとうございます」
そう言って深々とお礼をし、お勘定を早々にすませ足早に店を飛び出した。
病院に着くとすぐに私は拓郎さんの病室へと向かった。すると、病室の前にはお母さんの姿が。お母さんは私の姿を見ると丁寧におじぎをしてくれた。手には白いハンカチ。そして何も言わずに手で病室の中へと促してくれた。
私は恐る恐る病室へと入る。テレビでよく見る、心臓の鼓動に合わせてピッ、ピッっと鳴る装置の音だけが響いている。酸素マスクを付けてベッドに横たわる拓郎さん。その周りにはお医者さんと看護師さんがいる。その表情はとても険しい。
「拓郎さんは、拓郎さんはどうなんですか?」
お医者さんにすがるように私は尋ねた。
「非常に危険な状態です。今は落ち着いていますが、次に発作が起きたら…」
お医者さんはそれ以上は言わなかった。看護師さんが椅子を出してくれた。拓郎さんの横に座ってください、という意味だろう。軽く会釈をして、私は拓郎さんの横に座った。そして手を握る。私、始めて拓郎さんの手を握った。温かい。この温かさが私の心を救ってくれたんだ。この心が私を救ってくれたんだ。だから今度は私が拓郎さんを救う番。
「お願い、戻ってきて」
拓郎さんの手を両手でギュッと握る。
「私ね、今日カフェ・シェリーに行ってきたんだよ」
私はまだ開かない拓郎さんの瞳を見つめ、今日の出来事を語り始めた。マスターやマイさんから助けられ、そしてシェリー・ブレンドのおかげで私が何をすべきなのかを悟ったこと。その様子を淡々と語った。もちろん、拓郎さんからの反応はない。けれど、きっと拓郎さんは聞いてくれているはずだ。それを信じて私は語り続けた。