第35話 夏、そして私 その9 | 【小説】Cafe Shelly next

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喫茶店、Cafe Shelly。
ここで出される魔法のコーヒー、シェリー・ブレンド。
このコーヒーを飲んだ人は、今自分が欲しいと思っているものの味がする。
このコーヒーを飲むことにより、人生の転機が訪れる人がたくさんいる。

 そう言った途端、私はまた泣きそうになった。けれど今度は泣かない。笑顔でいるんだ。それが拓郎さんが私に望んだことだから。

 このとき、なんとなく拓郎さんの気配を感じた。私の耳元でそっとこんなふうにささやいた気がした。

「未優樹さん、それでいいんだよ、それで」

 えっ。思わずあたりを見回した。けれど何もない。

カラン、コロン、カラン

 ドアのカウベルがふいに鳴った。ふと入口の扉に目をやる。けれど、扉は開いていない。あれっ、気のせいかしら? けれどそうではないことをマスターとマイさんの視線で悟った。

「風かな? でも扉が開いてないのにカウベルが鳴るなんて…」

 私にはわかった。拓郎さん、ここにいたんだ。それがわかった瞬間、別の不安が襲った。拓郎さんがここにいたっていうことは、拓郎さんは、まさか…。

 その不安は悪い方向で的中した。ふいに私の携帯電話が鳴った。公衆電話からだ。胸騒ぎがする。恐る恐る電話に出る。

「もしもし、浅田さんでしょうか?」

 聞き覚えのある女性の声。その声は震えていた。最初は誰の声だかわからず、返事をするのにとまどった。

「田上拓郎の母です」

 その言葉で電話の相手がわかった。

「はい、浅田です」

 嫌な予感はさらに強くなる。拓郎さんのお母さんからわざわざ電話がかかってくるなんて。何かあったに違いない。

「お母さん、拓郎さんに何かあったのですか?」

「浅田さん…拓郎が、拓郎が…」

 お母さんはそれ以上声にならなかった。私の表情が強ばる。カフェ・シェリーに緊張感の空気が漂う。

「お母さん、落ち着いてください。拓郎さんに何かあったのですか?」

「…ごめんなさい。拓郎の状態が急に悪くなって…今お医者様が対応しているところです。それで万が一のことを考えてくださいって言われて…」

 拓郎さんが!? 私はいてもたってもいられなくなった。

「今からそちらに向かいますっ!」

 そう言って電話を切ると、私の足は勝手に行動を起こし始めていた。

「マスター、マイさん、ありがとうございます」

 そう言って深々とお礼をし、お勘定を早々にすませ足早に店を飛び出した。

 病院に着くとすぐに私は拓郎さんの病室へと向かった。すると、病室の前にはお母さんの姿が。お母さんは私の姿を見ると丁寧におじぎをしてくれた。手には白いハンカチ。そして何も言わずに手で病室の中へと促してくれた。

 私は恐る恐る病室へと入る。テレビでよく見る、心臓の鼓動に合わせてピッ、ピッっと鳴る装置の音だけが響いている。酸素マスクを付けてベッドに横たわる拓郎さん。その周りにはお医者さんと看護師さんがいる。その表情はとても険しい。

「拓郎さんは、拓郎さんはどうなんですか?」

 お医者さんにすがるように私は尋ねた。

「非常に危険な状態です。今は落ち着いていますが、次に発作が起きたら…」

 お医者さんはそれ以上は言わなかった。看護師さんが椅子を出してくれた。拓郎さんの横に座ってください、という意味だろう。軽く会釈をして、私は拓郎さんの横に座った。そして手を握る。私、始めて拓郎さんの手を握った。温かい。この温かさが私の心を救ってくれたんだ。この心が私を救ってくれたんだ。だから今度は私が拓郎さんを救う番。

「お願い、戻ってきて」

 拓郎さんの手を両手でギュッと握る。

「私ね、今日カフェ・シェリーに行ってきたんだよ」

 私はまだ開かない拓郎さんの瞳を見つめ、今日の出来事を語り始めた。マスターやマイさんから助けられ、そしてシェリー・ブレンドのおかげで私が何をすべきなのかを悟ったこと。その様子を淡々と語った。もちろん、拓郎さんからの反応はない。けれど、きっと拓郎さんは聞いてくれているはずだ。それを信じて私は語り続けた。