恥をしのんでカムアウトすると、

・・・実はリトル・リチャードもチャック・ベリーもエディ・コクラン etc. etc. も、

偉大な皆々様方をみんなまとめて「昔のロケンロール」、てな感じで、

ろくに歴史も学ばずロックファンを名乗ってました、本当にすいません。

 

そうか「のっぽのサリー」の原曲はリトル・リチャードで、

初期ビートルズのポールの裏声高音「ウーウーウー」はこの人のモノマネだったのね。

てか50年代にゲイをカムアウトして活動してたのね。

劇中で一瞬しか出て来ないけど、「殿下」プリンス様と装い面影が重なりまくって、ただただびっくり。

 

当時の黒人&ゲイへの差別という社会状況で、ポピュラー音楽として「ロックンロール」というジャンルが、いかにして(たまたま)命名され創造されたのかが実によく分かる、勉強になる映画でした。

 

・・・それはそれとして、一つ苦言を呈すると、音楽ドキュメンタリーを偏愛する者として(実はリアム・ギャラガーのドキュメンタリー映画見た時もつくづく思ったのだが)、

「音楽ドキュメンタリー」なるものの定番の作りを、製作者の方々はそろそろ考え直すべきでは?

 

ミュージシャンその人の人格や生き様を際立たせるためとはいえ、ライブ演奏の映像にすぐかぶせて(つまりはぶったぎって)識者や関係者のインタビューを挿入させる手法(名前と肩書のテロップ付で~)は、

ああそうそう、よくある手法、30分ぐらいの映像ならいいんだけど(U-nextで見ることができる「ロック・レジェンド」シリーズなど)90分の映画でずっと見せつけられると、しんどい。

やっぱり高音質の映画館で金払った観客の多くが望んでるのは、もっとじっくり名曲名演奏を楽しむことだと思うんだけど?

 

特にこの映画では「音楽民族学(ethnomusicology)」の先生や親族、LGBTQ当事者の音楽関係者のコメントが繰り返し繰り返し挿入されて、正直1時間もしないうちに飽きて疲れてくる。まるで退屈な大学の授業のような。

あらかじめ定められた「意味、意味、意味」を押し付けられるしんどさ。

そこに本当にロックンロールの精神はあるんか?

 

とか言ってると結局、最近リマスター上映で改めて話題になったトーキングヘッズの「ストップ・メイキング・センス」や「アレサ・フランクリン/アメイジング・グレイス」といった名作みたいに、

音楽ドキュ~はライブ映像だけ流せや、ということになってしまうので、それもそれでまああれだけど。

(そしてすぐれた音楽ライブ映画を作るのにも、やっぱりジョナサン・デミやマーティン・スコセッシのような才能が必要になる、という当たり前の結論になってしまうけど。)

 

ちなみにコロナ禍で見た同種の映画の中では、70年代ウェストコーストの音楽シーンを扱った傑作ドキュメンタリー「ローレル・キャニオン」やそれに先立つ「エコー・イン・ザ・キャニオン」は、ひたすらミュージシャンのみのインタビューと名曲のサビのメドレーで構成されていて、それが良かった(リンダ・ロンシュタットの半生を描く映画も感動した)。

 

さらに遡って、昨年亡くなったロビー・ロバートソンをフィーチャーした(ああ・・・)、現在配信で見れる「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」も大傑作だった。 

彼が亡くなる前でも涙なくして見れなかった。

(やっぱり結局、大好きな曲が(ここでは "The Weight" が)いいタイミングでかかればそれで満足、ということだけなのかもしれない・・・)

 

いずれにせよこんな東洋の片隅でつぶやいていても詮の無い、ちょっとした愚痴でした。

 

ともあれあわててフォロー、映画自体は言及したビートルズとの逸話やそれ以外の誰もが知るロックミュージシャンとのあれこれの逸話が山盛りで、

それはそれで本当に勉強になりました、はい。

 

それと例によって最後にツッコミ、こらピーター・バラカン、お前土曜朝のNHK-FMの番組でこの映画大プッシュしてたが、

映画始まっていきなり「字幕監修:ピーター・バラカン」って、思いっきり関係者じゃねえか!!

せめて番組内で一言ことわっとけよ、それ公共放送使った利益相反事案じゃねえのか、今日びコンプライアンス的にそれ大丈夫なのか!?

・・・暴言失礼しました。