名古屋市の女子大生による姉妹のニュースを拝見して、やりきれない思いをされた方は多いかと思います。その姉妹は、喜んで、純粋に、関心のある若い人と聖書から、神への愛を伝えたかったに違いない。こんな形で終わったとしても、jehovah"が姉妹を、残されたご家族を支えて下さいますように祈ります。
加害者の女子大生は国立大学のに通う19歳。小さいときから、"生"と"死"を学ばなかったのでしょうか。
例えば、最近、"死ぬ"という語、簡単に誰しもが口にする。しんどい思いをすると、「死にそうだった」、あるいは、子どもたちが遊びの中で非常にこの言葉を使います。「死ね」とか、インターネットでも簡単に書き込みします。
昨年でも、長崎県佐世保市で、高1女子生徒による同級生の殺人事件がおきました。遺体の一部を切断するなど、常軌を逸した殺人事件。この女子高校生が通う高校は有数の進学校、父親は弁護士・・・社会的には誰もがうらやむ環境、姉妹を死に至らせた、名大女子大生と同じく優秀、そして、口に出す言葉も同じ、「「人を殺してみたかった」と。
今は、死を教えぬ教育なのだろうか。
大学受験は私のときでも、過重という教育だったような気がする。とにかく暗記、国立大学へ進学するなら一日、何時間も勉強しないいといけない。正解を覚える教育。
学習指導要領によれば、高等学校では道徳教育は授業時間としてはありません。もちろん各学校が学校設定科目として実施することは可能でしょうし、「総合的な学習」(これは全国の全ての
高校で必修)の中で、道徳的な内容を教育することは自由ですから、高校でも道徳的なことを学習しているところはあるでしょう。
今の教育がこのような弊害を生み出してしまう。高等学校に道徳の必修化を心より望む。今の学習指導要領は必須ではない、それならば、哲学、心理学、国語、社会の授業に多角的に"生"と"死"を教えていくことを感受性の強い思春期にぜひそのような教育を心より願います。
小学校でも、教員が死について生について週に1回でも教えるべき時間があれば、、道徳の時間に盛り込まれていますが、小さいときから、 「死ね」 「殺す」などの言葉の使い方をしないように子どもを生命の大切さをひとりひとり必要な存在であることを教えなければなりません。
今は、終わりの日、愛が冷えきった世ので、今回のことは、他人事とは思えません。明日は我が身、いつ災難があるかわかりません。
先日、後藤健二さんの無事を祈る、FREE GOTO(後藤さんを自由に)」などと書かれたプラカードを掲げ、キリスト教と仏教、イスラム教の信者ら約50人が27日、東京都千代田区の首相官邸前に集まった。キリスト教と仏教、イスラム教の信者、宗教の枠超え…信者ら50人後藤さんの無
事祈った。
「宗教は違っても、平和や命が大切なことは変わらない」。
生命の尊さ、この女子大生が学ぶ機会はなかったのだろうか。
死を教えぬ教育、改めて考えされられた。