視覚に縛られていること | macocafe~まっちゃんとわたしとあいなマン

視覚に縛られていること

家入一真さんの本の中に、こんな話がありました。


「暗闇合コン」
1ヶ月間、代官山にある、あるスペースを自由にやることになった。
1ヶ月なので内装に投資してもペイしない。
ならば、内装が気にならないように暗くして使おう。
暗闇合コンというアートイベントを企画しよう。

テーマは、「暗闇で視覚を奪われたとき、人は何をたよりに異性を求めるのだろうか」。

合コンに申し込むと、日時が指定される。
初対面の男女が暗い部屋に案内され、モデレーターの言葉に従う。
「目の前の女の子にサンドイッチを食べさせてみましょう」
「飲み物を飲ませてもらいましょう」
「輪になって寝っ転がってみましょう」
「では、ちょっと恥ずかしい体験を話してみましょう」

イベント終了時に、
「実はこの中に本当に盲目の人がひとりいます。あなたたちが非日常として楽しんだ合コンは、彼らには日常なのです」
と、明かすと、参加者はハッとする。

このイベントで重要なポイントは、参加者が最後まで顔を合わせないこと。
連絡先も交換させず、暗闇の中で一度きり。
『声の記憶だけで思い出される感覚もまた独特で、僕なりのアートイベントになったと思っている』


暗闇合コン、おもしろそう。
わたしは嫌いな声というのがあまりないから、普段より惹かれやすくなるかもしれない。
ああでも、苦手な話し方というのは割とあるかもしれない。
見えない相手には、見えているときよりも期待をしそうだ。

自分が参加したらどんなことを感じるか想像してみて、
目からの情報はたくさんの豊かな経験をもたらしてくれると同時に、
かなりの制限をかけていることに気がつきました。

見えなくなったら失うものは数え切れません。
美しい景色。目で楽しむ食事。人の笑顔。

一方で、見えていることによって、かえって狭められている世界。
見た目で下してしまう誤った判断や、逃している繊細な感覚。
もし見た目に囚われずにいたら、生活はどう変わるのだろうか。

ヒトは、他の動物と比較して視力に頼る部分が大きな生き物。
見えたら、囚われるのは仕方のないことなのかもしれません。
そういう生き物なのかもしれません。

暗闇合コンの話を読んで、
今まで見えることに何の疑いも持たずにいたけれど、
実は、とても縛られているんだという気づきを得ました。

赤ちゃんの泣き顔が見えず声だけ聞こえたら、うるさくてかなわないし、心配になるんじゃないだろうか。
かわいいケーキ見た目を楽しまず、匂いと味と食感だけで楽しんだら、おいしさは半減しそうだ。
ちょっと歩き辛いけど可愛いから我慢して履いてる靴は、絶対履かなくなるな。
桜の姿を見ることができないのは、さみしすぎるな。もとから見えていなければ、そう感じることすらないけれど。
人間に視力がなかったら、わたしを含めて、今いるカップルの組み合わせは、どう変わるかな(笑)

見えない世界、想像してみるのも楽しいです。