先日、スタンドにて給油と洗車をお願いした時のこと。
建物に入り、煙草に火をつけ、ついていたテレビへと何気に目をやります。
どうやら、私の好きな『鬼平』のようでした。
大奥さんがコーヒーをいれてくれ、くすぐったいような気持での会釈です。
鬼平を見ていて思ったこと。
悪いことと思いつつ、どうしてもそうしなければ生きていけない場合。
また、し続けることで、申し訳ないと思う気持ちをいつの間にか失ってしまう場合。
そのあたりのことを長谷川平蔵さんは鋭く見抜くのでしょうね。
本能的な慧眼と言うべきものかもしれません。
『火垂るの墓』での空襲でのシーン。
警報が鳴り、みんなが防空壕へと向かう中、少年は空き家へと侵入しては洋服ダンスから着物を盗んだり、と。
いい、悪い、は主観と客観の相違によるものです。
それは、依怙贔屓についても同じこと。
感情があれば当然の摂理のようなもの。
抗うことのほうが難しいことも……。
戦うために犠牲を払う、つまり自分を貶めてしまうのは致し方ないのかもしれません。
でも、その脅威が過ぎ去ったあとでも、その領域で当然のように安々と生きていくのはどうかと思ったり……。
でも、それが人間の業のようなものなのかもしれませんね。
初めのうちは申し訳ない思いや感謝の気持ちがあったものの、居心地のよさに慣れてしまい、いつの間にかそこに潜む欲深さに呑み込まれてしまっている自分に気づかなくなっったり、と……。
年を追うごとに、いろんな設計図の全貌が見えつつあるように思います。
例えば、いちばん長いのが住宅ローン。
若い頃に勢いで買ったものの、いくつになれば終わるということは書面ではわかるものの、実感としてはその年月の質量をまったく理解できませんでした。
あとは、年金ですかね。
いくつになれば、これくらいの支給額を手に入れられる、という目安。
今日も天気がいいですね。
山崎銀次郎やコブラのように、いつまでも気持ちはまっすぐでいたいものです。
一休さんのとんちではないですが、未来へと架かる橋の端ではなく、堂々と真ん中を、それも大手を振って歩くのが目下の目標であり憧れです。
傲りが出ないように、小さな気づきを忘れずにしないといけませんが……。
尾身さんの後ろで何度も見かけた三原議員。
中学生の頃ですかね。
『セクシー・ナイト』、懐かしいものです。
でも、その頃から今まで、彼女の時間軸はずっと続いているんですね。
私もあやかりたいものです。
今更、政治家にはなれませんが……。