今日は、曇り空です。

晴れるみたいなことを予報では言っていましたけどね。

 

忖度してほしいものです。

でも、それは無理というもの。

空に対して差し出すものが何もないから……。

 

確か何年か前、政権が変わった時、私の住む地域で、町の土建屋さんがいくつも手を上げました。

それも、年度はじめの4月、5月でしたね。

公共事業の見直しだったのか、政治の透明さをアピールしたのか、今では理由さえすっかり忘れてしまいました。

ただ、地域に激震が走ったことは覚えています。

 

今でも引き続き、形を変えて、アメリカと中国の激しい応酬が繰り広げられています。

中立的立場にある人でさえ、その時の風の強さや雨の激しさで右往左往してしまいます。

でも、それはつまり、本当の意味での中立ではない証拠ですがね……。

 

水面下に忍ばせた本音を、どれだけ整合性を備えた建前で浮上させるか……。

 

それは、大きな局面だけとは限りません。

私たち一人一人の中にも確かに存在します。

生まれて間もない赤ちゃんを抱いて、この子も喜ぶと思って、連れてきました、とインタビューに笑顔で答える花見客。

本音をどれだけオブラートで綺麗に包んでいても、常識という剥離剤に晒されると、どう繕ってみても通用しなくなってしまう。

 

ワンシーンを切り取っただけでは、実際のところ、真意はわからないもの。

 

布製のマスクにも同じことが言える気がします。

配布されるマスクは、誰かが経営する会社が作るモノ。

教科書選定と同じ理屈ですかね。

それは、市役所の土木課と通じる土建屋さんにも当てはまりそう。

 

本音はどこにあるのでしょうかね。

年を追うごとに、利害関係のない岐阜にいる友人との会話が心地よく響きます。

 

 

毎日楽しく拝見しているブログがあります。

なんで? みたいに思われているかもしれません。

初めて目が止まった記事は、確か、電車から降りる際の車椅子の方の態度に対しての内容が少し書かれていました。

それを読んで、あることが脳裏を過りました。

あれは、後期高齢者医療制度が発足した頃でしたかね。

ずいぶん前のことです。

長生きは罪ですか?

と拡声器と横断幕が、車道の流れを止めていたのを覚えています。

 

 

どんなことでも、立場を変えて見てみると、その分だけ正しく映るものが存在することに気づきます。

複雑な迷路を楽しみながら空を見上げ、また出くわす袋小路さえも厭わずに、次のステージへと進んでいきたいものですね。

 

 

誰でも泊まることはできるけど、チェックアウトができない。

確か、そんなような歌詞だった気がします。

混沌と憂鬱。

出口の見えないもどかしさ。

中学生の頃です。

見開きのジャケットを広げ、ちょっとしたステイタスを感じたもの。

でも、今の心境を歌っている気がするこの『ホテル・カリフォルニア』。

よく考えてみたら、どんな時にもこういう景色を見ているような気もします。