今朝、風の便りに目を覚まし、玄関の外へと足を向けました。

空には薄く雲がかかっているものの、熱を孕んだ空気がじっとりと肌にまとわりついてきます。

早朝にもかかわらず……。

不思議なことに、今年はまだセミの鳴き声を耳にしていません。

 

あの殺人的なニイニイゼミとアブラゼミの鳴き声は、どうだ、暑いだろ。そら、もっと、もっと、というような意地悪坊主のもとで修業をさせてもらっている感覚に陥ります。

夕暮れ時に響くヒグラシの声に、よく頑張ったね、と優しいお釈迦様に頭を撫でてもらっているような、癒しのような安堵を覚えます。

 

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湖のほとりで きみの夢を見る

月もないのに バルセロナの夜は

どこよりも 優しく燃えている

 

女神の奏でるワルツで踊ろう

月がないから バルセロナの夜は

誰よりも 君を選んだのさ

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佐野元春のセカンド・アルバムに入っている『バルセロナの夜』の歌詞の一部です。

このところ、若い頃に聴いていた曲の歌詞の深さに、しみじみと感慨にふけりながら、あの頃の気持ちをなんとなくなぞったりして楽しんでいます。

原風景、もしくは心象風景の中へと意識を沈めることによって、不確かな不安をそっと取り除いているような、ある意味羊水の中で味わっていたであろう絶対的な信頼と安らぎを求めているのかもしれません。

 

自信がないわけでもなく、かと言って横柄になることもない。

そこには、つねに適度な緊張と遊びが絶妙なバランスで共存し、自律神経は感情のスロットルを開けたり緩めたりしている気がします。

感覚である以上、必ず理由はあとづけです。

もっと乱暴な言い方をすれば、理由なんてあっても無くてもいいくらいなものです。

 

ただ、過ぎてしまったことに対して、ふっと振り返ってみた時に、初めてその意味や理由は鮮やかな色彩をともなって表へと顔を覗かせます。

まるで、忘れかけていた情熱にあぶり出されるように、切り取られた映像は少しずつじわじわと脳内のスクリーンへと映し出されます。

様々な経験が輪郭を縁取り、その時々の感情が奥行きを増していきます。

 

 

上澄みだけではなく、底に淀んでいる澱こそが最も大切なことのように思います。

不器用さが仇となった気がしてならないのは、ある意味私も古い考え方なのでしょうね。

 

マイナスのバイアスを浴びせられてはいるものの、会社としての器の大きさ、懐の深さにある意味驚いています。

 

あとになって、どう思われるでしょうね。

 

 

今の自分を丁寧に創り上げてくれたすべてのことに、とても感謝しています。

そして、これからも同じ気持ちでいっぱいです。

まだ先の見えないレールの上で、新たな景色に胸を膨らませながら……。

 

 

これも、80年代のものですが、今聴くととても新鮮です。

アメリカの匂いがそこはかとなく漂います。

大好きなアルバムのひとつ。

是非、どうぞ。

間宮貴子で『LOVE TRIP』。