今日は、昨日とは打って変わっての晴天が、頭上いっぱいに広がっています。

やっぱり気分が上がりますね。

ボズ・スキャッグスやボビー・コールドウェルあたりが、とても似合う天気です。

通勤途中の小さな峠も、朝陽を受けきらきらと輝いています。

新緑の匂いさえ、シールド越しに風と一緒に感じられるくらいでした。

 

朝礼を終えて、外での一服です。

雲一つない青空を見上げては、確証のない希望のようなものを感じて口元が緩みます。

どういうわけか、というような感覚的なもの。

それは、曖昧で実体がなく、それでいて心の振り子を揺さぶるもの。

直観ですかね。

 

ふと、若い頃のようなある意味無責任がとても愛おしく思えます。

当時は、衝動というものが行動の基盤になっていたことにも気づきます。

歳を追うごとに、多角的な視点を獲得していき、感覚の鋭角を少しずつ削っては丸みを帯びてきたのでしょうね。

いつのまにか、建前がいつも先を歩き、本音が影のようについて回る。

利害が絡めば、そのボーダーラインは一層色濃く浮かび上がってきます。

自分は本音で語っているつもりでも、相手も同じ温度で相槌を打っているのかは正直微妙なところです。

 

でも、それを繰り返しているうちに、早かれ遅かれ必ず呼吸困難に陥ります。

溜め込まれたエネルギーは、前触れもなく噴火する火山のように、熱いマグマとなって体外へと吐き出されます。

 

私の場合、若い頃の趣味の焼き直しです。

バイク、社交ダンス、アルトサックスと。

また、新たにはじめたの硬筆のお稽古ですね。

CDやレコードは、自分の部屋からはみ出しては所狭しと並んでいます。

小説や画集なんかは、自分の部屋と寝室の書棚を制圧しています。

 

また、こうしてブログを書いたりして、その時々の心情を拙い文章で綴ったり……と。

 

最近思いますが、文字で繋がる気持ちの温もりのようなものを強く感じます。

アメリカの方との手紙のやり取りや、メールやメッセージの交換。

思い起こせば、小学生の5年生の頃から、文字は自分のすぐそばにあったような気がします。

女子たちの交換日記を友達と何人かで黙って覗き見をした時に、そこに自分の名前が書いてあり、嬉しかったのを今でも覚えています。

中学生に上がると“ちょっと、話がある”、と書いたメモを渡され、奥の校舎のトイレの前に行くと、女子が7,8人いて、取り囲まれては告白されたり……。

誤解を招くとおかしなことになるので、決して武勇伝をひけらかしているのではなく、つねにその時々の温度を持った文字がそばにあったということが言いたいのです。

 

何度も季節をくぐり抜け、幾つもの年月を通り過ぎてきた中で、やっぱり文字というものは格別な印象を与えてくれます。

その温かみは、心に彩りを添えてくれます。

容姿や環境を超えた、沸々と地中で煮えたぎるマグマのような、決して肉眼で捉えることのできない力強さのようなものを感じます。

 

どんなことでも同じなのかもしれませんが、上手い、下手ではなく、どれだけ情熱を持って取り組むか、ということが大切なことなのだと思います。

そこには、飾らない素の自分が、ずっと笑顔でいられるような、そんな気がします。

 

 

昨日、アメリカへの手紙を書き上げました。

ペンを走らせながら、相手のことを思い浮かべては天井を見たり。

気持ちが先に行ってしまい、スペルを間違えたり……と。

思いを載せた手紙は、太平洋を横断します。

私の長距離弾道レターですね。

これからも短距離、中距離と、規制がかかるまで、機を見ては飛ばしてみるつもりです。

 

本音で話ができる、そんなかけがえのない関係を、これからも大切に育んでいきたいと思います。

 

when I'm feeling blue,

you hold me close.

You've always been so special to me

歌詞の一部です。

本音と言えば、やっぱりラブソングですね。

しかも、しっとりとした熱を孕んだ……。

今日のような晴れ渡る空には、やっぱりボビー・コールドウェルの『スペシャル・トゥ・ミー』ですか。

確か、高校生の頃です。

初めて、女子高の女の子と付き合ったので覚えています。

あの頃は、違う学校の女の子と付き合うだけで、ちょっとしたステイタスでした。

ファースト・アルバム『イブニング・スキャンダル』より。

“風のシルエット”という曲も、流行ったように記憶しています。