ここしばらくのあいだ、ずっと胸の奥で燻っていたことを、
思い切って払拭しようと、ちょうど一年と半年越しにスイスへメールを送る。
確か、二十八歳だったと思います。
あなたは正直村に行きたいのですが、先で道が二股にわかれています。ちょうどそのわかれ際に人がひとり立っています。その人が正直村から来た人か、うそつき村から来た人かはわからない。ただ、正直村の人は必ず正直に言い、うそつき村の人は確実に嘘をつきます。あなたはその人にどういうふうに言って道を尋ねる?
と何の前触れもなくジムニーのハンドルを握っている時に、“正直村とうそつき村”の話を隣のシートからされました。
当時、私は「どっちが正直村ですか、と聞く」、と答えました。
「もし、その人がうそつき村の人なら、確実にあなたは正直村へはたどり着けないわ」、と言われ、「それならそれで、うそつき村を正直村として呑み込む」、と言うと、「あたならしいわね」、と一笑に付されました。
少し慎重に考えるだけで、答えは見えてきます。
ご存知の方も多いと思いますが……。
見方を180度変えると、価値観的にはまったく問題はない。
その都度通常の思考回路に対し、反対側から電流を送る。
自分が選択し、とった行動に対しての後悔はない。
そこには、色褪せたフォトグラフのように、ある種の寂寥感にも似たノスタルジーが存在するだけ。
どんな時でも、好転可能な方向を探りながら舵を握る。
雑草と同じ。いくら踏みつけられても、決してへこたれない。
歳を重ねることで、見えてくるものがあります。
人を傷つけたり、自ら穴に落ちたり、を幾度となく繰り返しながら……。
でも、往々にして傲りが生じ、視界に靄をかけてしまいます。
自分でも気付かないうちに、身勝手な思い込みが頭をもたげます。
些細な言葉の行き違い。
互いの温度差によって、意味の捉え方に溝が生じていく。
27年というブランクが、容赦なく重く圧し掛かる。
打ちひしがれて、自分を見つめなおす。
そして、「完成したら、絶対見せてよ」、と言葉を残し、1年後にカナダへと旅立ってしまった。
“さよなら”と引き換えに交わした約束。
あの時、本気で親身になって、相談に乗ってあげられなかった自分を思い出す。
自分のことを優先していただけだったことに気付く。
今はただ、普通にいろんなことを話したいだけ……。
あの時の約束を自分は忘れてはいない。
素直に“ごめん”、と画面を見つめながらキーボードを叩く。
遠い記憶は、身体に当たる風をやり過ごすたびに、過去へと消えていく。
交わしたはずの小さな約束さえも。
感情はすでになく、ただ風化寸前の残滓があるだけ。
間に合わないかもしれない。
すべてはうまくいく。
そうであってほしいと心から願う。
いつか笑顔で挨拶をかわせるように。
Nanci Griffithの『 Everything’s comin’ up roses 』

