2021年7月13日 〜父親逝く | カイザーのブログ

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父が2021年7月13日の14:33に亡くなりました。

 

満91歳と11ヶ月なので大往生といってよく、3月末からは

入院していたので、覚悟もある程度できていました。

(以下は完全に私的な備忘録で、私自身が覚えておきたい

ために綴っているものです。)

 

〜〜〜〜〜

ことの始まりは3月26日夜。

急に体の痺れを感じた父は実家の廊下で動けなくなりました。

 

そこで救急車を呼べばよかったのですが、頑固な父は昨年末

に共に暮らす母親の負担を減らすために入院させられたとき

の不便さが嫌だったことから、これを拒否。

 

認知症の入った父の言うことを真面目に聞くこともないのに、

結局、母親も一日妥協をして、その後、かかりつけの医師の

助言を聞いて翌3月27日にようやく救急車を呼び、地元の市民

病院に搬送されました。

 

元々10年ほど前からガンを患っており、数年前には頸椎に転移

の上に認知症も進むなどの既往症はあったのですが、この時の

状態は原因不明の痺れ(脳梗塞の疑い→晴れる)と

寒い廊下にいたことによる肺炎(新型コロナではない)、

多臓器不全(腎臓機能低下、心臓)

と当直医師もどこから手をつけて良いのか分からないほどの

ものだったと聞きました。

 

この辺り、リアルタイムでは私には連絡はなく、母親が対応。

3/29(月)になって連絡があり、年齢が年齢なので覚悟もせよ、

との医者の話を兄貴経由で聞くこととなりました。

が、結局この時は持ち直し。

 

そして新型コロナ蔓延に伴う緊急事態宣言(3回目:4/26-6/20)

の騒動で、公立病院の病床確保のために転院を迫られ、

4/21の水曜日に小康状態になったから明日4/22転院せよと言わ

れる無体な状況に巻き込まれつつ、4月26日(月)に私立の療養

病棟を持つ病院に転院。

 

この時、高齢の母親に代わり私が退院に伴う手続き、転院そのもの、

転院先での再入院手続きなどをするために実家に赴き、処理をすま

せました。

この時、コロナ騒動のおかげでずっと面会もできなかった父親とも

話をすることができ、思ったより元気になっていたことにやや安堵。

 

「転院のために東京から息子が来ると聞いていたが、長男が来ると

思っていたら次男(=私)が来た」と看護士に話しかける父を見て

ボケてもおらず意外にしっかりしている様子でした。

 

そしてこの時、転院先でもコロナ騒動で面会謝絶になろうことを

踏まえて、生きて会える最後の機会になる可能性も考え、人払い

をお願いし、父に対して今までの感謝とお礼の言葉を述べ、それに

対して父からも私に対しての言葉をもらって別れました。

 

思えばこれがまさしく生きて父と会話できた最後の機会で本当に

話ができて良かったとも思っています。

母は短い時間で唐突なことだったので、この時ははかばかしい話

はすることができず、後日手紙の形で父に届けていたようです。

 

7月に入り、再び緊急事態宣言の声が聞こえてきた7/9に兄から

電話で、

「父の食欲が落ちたという連絡を病院から受けた。どうという

状況でもないけれども、ガン患者の場合食欲が落ちると急激に

体力が落ちるので、覚悟はしておいて欲しいとのこと」

という連絡を受けました。この時は頑丈な父の体力を考えると

数ヶ月ぐらいの話か?と兄とも話していました。

 

そして、7月12日(月)

この日は東京の緊急事態宣言が解除されたことから、役員に就任

したばかりの前職時代の部下を訪問する約束があり、午後に前の

職場を訪問。

行く前から私の体調がすぐれず、蒸し暑さかな、コロナ騒動の

閉塞感かなと思いつつ、なんとなくモヤモヤとした不調さを感じ

つつ訪問していました。(今思えば虫の知らせというやつです)

 

そして帰宅すると兄から、

「父が今日の午後に危篤状態に陥り、酸素吸入をする事態になった。

母も14:00頃に駆けつけ、5分ほど面談を許されたらしい」

との連絡。

その後小康状態になったので母も帰宅し、Covid-19での面会謝絶

が続いているため、駆けつけても面会はできないので、そのまま

自宅待機。時期は分からないが覚悟はしておくようにと兄から言われ

ました。

 

7月13日(火)

午前中に職場のCFOらに状況を連絡し、場合により職場を離れる

可能性のあること、リモート主体で在宅勤務にするかもしれないこと

などを伝達。

 

そして午後に妻からメイルが入り、14:33に父がなくなったとの連絡

を義姉から受けたとのこと。そのまま辞去し、一旦自宅へ。

兄と連絡を取りつつ、兄は即座に実家に急行し、私は翌朝向かうこと

として、周辺準備にお互い着手。

 

7月14日(水)

父は外交的であると共に65歳を過ぎてからオーストラリアに頼まれて

赴任するなど、顔も広く、90歳を過ぎても地域社会で幅広く活動して

いたことや、兄も私も伝統的な業種の大企業に長くいた関係で、本来

であれば大々的な葬儀になるところでした。が、父本人の強い希望と

コロナ禍での葬儀ということもあり、参列者なしの家族葬を選択。

 

足元の悪い母親の負担軽減ということもあり、近場の公益社の会館を

用いて祭壇は組むけれども、参列者を呼ぶ通夜は省いての密葬となり

ました。

 

この間、兄がガンガンと電話をかけまくり、死亡手続きを進めていきます。

生命保険会社、年金事務所、健康保険事務所、市役所、入院先の二つの

病院などなど。

職種柄、相続手続きに詳しいのと、お通夜での参列者対応がないこと

からガシガシと手続きを進めていきます。

相手方の窓口も「昨日亡くなった」と聞くと「素早い手続き申請ですね」

と驚く早さ。

 

私自身は、故人を偲ぶためにももう少し静かに過ごしたかったのですが

実質的な喪主である兄の進め方に文句が言えるはずもなく、また、

実際に現地にいて必要な手続きは済ませなければならないことを

考えると、告別式の前日にやるのか、翌日にやるのかの差でしかない

ことなのでお任せしていました。

 

夜は父を偲び、思い出の面影を追いつつ、近所を歩き回っていました。

 

7月15日(水)

朝から大荒れの雷雨。しかし、告別式に出かける時間には晴れ間が

広がる不思議なお天気になります。

 

参列者謝絶、弔電謝絶、香典・供花も謝絶、としていたのですが、

近所に住む私の叔父と従兄弟の親子は生前お世話になったので、どう

してもと言い参列。私自身叔父と会うのは15年ぶりぐらいでした。

 

あとどこで聞きつけたのか地元選出の議員の奥様が衆議院議員・

参議院議員の弔電を持って駆けつけてきていました。これは参列は

お断りして、弔電だけをありがたく受け取ります。

供花も全てお断りしていましたが、私の会社のCEOからのものは

ありがたく受け取り、簡素な祭壇に少しだけ賑わいが増しました。

 

祭壇まえでの読経・お別れを済ませて、火葬場へ。2時間かかるとの

ことで一旦葬祭場に戻って、お斎をいただきます。この間も我々は

気づかなかったのですが、再び外の天気は大荒れになり落雷しばしば

だったようです。

 

そして雨上がりの晴れ模様の中を再び火葬場に向かい、お骨拾い。

出てきた骨を見て、係の人も驚くぐらいの立派な大腿骨。91歳の身長

165cmの小柄な男性のものとは思えないほどの太さ・長さの立派さ

でした。他の部位の骨もしっかりしていて我々も驚きました。

 

思えば、中学時代に柔道、高校で硬式テニス、大学でラグビー、その間、

相撲や水泳・高飛び込みの選手をやり、応援団の団長も務めるスポーツ

マン。

しっかり鍛え上げた身体は、3月末に入院するまで毎日1時間の散歩と

体操や筋トレを通じて、91歳を過ぎてもしっかり維持されていたみたい

です。

 

告別式を終え、私は父の骨壺を抱えて自宅に帰還。

私は母と共に父の昔話をしつつ、兄は疲れたのか早めにホテルに引き

上げます。

 

7月16日(木)

朝ふたたび母と話をし、やってきた兄に後事を託して、私は帰京。

慌しくも、一生記憶に残る1週間を終えました。

〜〜〜〜〜

 

 

 

父は明るく、元気でいつも前向きな人でした。

家庭では一切仕事の話をせず、愚痴は聞いたことがない。

 

営業職だったので、夜遅くまで飲み歩くことも頻繁で、決して家庭的な

人ではありませんでしたが、要所要所はしめる人で、よく私のことを

褒めてくれ、気難しい私の性格をつかんで導いてくれたとも言えます。

 

その才能は息子の私がいうのもなんですが、ひときわ目立つものがあり、

アイデアマンとしても、演出できるプロデューサーとしても、また、

ユーモアを解する粋な人としても傑出したレベルでした。

しかし、その性格が災いしたことと上司運に恵まれなかったこともあり、

若い頃から地位には恵まれなかった人と言えます。

でも、そのようなことへの不満は口に一切出さず、家庭を守り、息子を

育て上げ、自身も自由に生きて、周囲を納得させるだけの力量のある人

でした。

 

お仕事をしっかりやることは昭和ヒトケタの男として当然として、知床

半島の自然を守る活動や、満洲からの中国残留孤児などの支援活動にも

理解を示し、小学時代に見た蒙古馬のサーカスへの憧れから共産主義

から自由経済へ移行するモンゴルの支援を行い、モンゴル国営航空会社

を個人保証したこともありました。

 

また、若い人のグローバルな活動を手伝いたいとして、オーストラリア

のコミュニティカレッジの校長を引き受け、70歳過ぎても活躍するなど

「国士」としての側面もありました。

 

父には生き方を教わったのは確かです。そしてまた、今回、死に方までも

教わったような気がします。

私は仏教徒ですが、死後の世界についての確たる考えはまだありません。

 

不肖の息子ではありますが、その遺志を受け継ぎ、遺託を守り、しっかり

と残りの人生を生きていきたいと考えております。

 

(2021年7月17日)