先日、奥州に行ったことはブログに書いたのだが、前九年の役や後三年の役は源氏対安倍氏、源氏対藤原氏という構図であるが、源平合戦については、日本人の恐らく99.9%が勘違いしていると思うので考察したい。

源平合戦とは別名「治承・寿永の乱」と呼ばれ、「平氏対源氏」の戦いとして知られている。平氏は平清盛一族、源氏は源頼朝である。しかし、実際には「平家対平氏」の戦いであったのだ。

源平合戦より180年前、関東の有力者である平将門公が朝廷に反旗を翻し、関八州独立を宣言した。

これは「藤原純友・平将門の乱」と呼ばれ、将門公は新しい国づくりを志したが、現実には朝廷軍に討たれた。

その討伐の中心人物が将門公の従兄弟である平貞盛で、彼は桓武平氏の御曹司であった。

 

この平貞盛は桓武平氏の御曹司であり、彼以降秩父氏(後の川越氏、畠山氏、江戸氏)、三浦氏、北条氏、千葉氏、小山氏、那須氏、梶原氏、長尾氏(後の上杉謙こと長尾景虎の祖)や伊勢平氏なので有力豪族の祖であった。

特に伊勢平氏は貞盛直系の棟梁家で、後に清盛を生み出し、平氏総本家として朝廷で栄達していった。

しかし、関東の同族平氏たちは清盛一派の独占的な栄華に反感を抱き、そこへ流されてきた源氏の惣領・頼朝を旗印に立ち上がった。

板東武者は頼朝を神輿として平家を打倒するが、一族的並びゆえ結束しづらく、外戚カードを持つ北条氏が台頭する。

鎌倉幕府は、日本史上初めて武士の土地所有権を公的に認め、壇ノ浦の戦いで奪還した三種の神器(剣を除く二種)を返す代わりに司法権と徴税権を得て合法的に新政府を樹立した。

その後、頼朝・頼家・実朝はいずれも暗殺されたとされ、頼朝の死因は公式には落馬だが、古来より高貴な人物の暗殺は落馬と記された例が多い(天智天皇など)。

歴史を知ることは、先祖の生き様を知ることでもある。縄文人が冬に鍋を囲んだように、我々の生活習慣や感性は遠い祖先から受け継がれている。夏には縄文遺跡を訪ね、教科書で習った歴史の「?」を深掘りするのも一興であろう。