戦国大名最強は武田信玄だというのが定説になっているが、私は否を唱える。
戦国大名最強は織田軍であった!!!
だからこそ、全国統一が出来たのだ。
織田軍というより、近世の軍隊が、中世の軍隊を打ち破ったといえる。
中世の軍隊とは、足軽、所謂歩兵は徴兵で賄っていた。
詰まり、領民から戦の度に徴発していたから、暗黙の了解が敵味方の間にあった。
"農閑期に戦をする"である。
「尾張の小国など踏み潰してやる」は時代劇等で今川義元がよく言う台詞であるが、小国とは尾張国の面積であり、織田家は特に古渡織田家は、尾張でも最強で清洲の本家を凌いでいた。
古渡織田家の強みは、豊富なキャッシュフローであった。
熱田神宮や那古野湊を手中にしたために、現金収入が半端なかったのだ。
それは、伊勢神宮への寄進や朝廷への寄進からも分かる。
織田信秀侯は、北に斎藤道三、東に今川家と両面で戦をしていたのだ。
小国ならばとうに滅ぼされたいたにちがいない。
では、どうやって戦っていたのか?というと、戦が決まれば、豊富な資金力で傭兵を雇っていたのだ。
これを発展進化させたのが信長公であった。
戦の時だけで無く、常備軍として兵を金で日本全国から集めたのだ。
その広告塔が木下藤吉郎であった。
一介の農民から城持ち大名になった実物の男がいるのだから、我々で言えば毎回宝くじを買うのと同じで感覚と言えば分かりやすい。
「10億円の当選者がいるんだからさ!!!」である。
越後の長尾景虎も甲斐の武田信玄も最終的には、絶対に負けるのである。
彼らの兵は農民であり領民なのだ。
1000人が死んだから、直ぐに補充を!!!が出来ないのはお分かりであろう?
例えば、人口1000人の集落があったとする。
この集落の半分は女性であるから、男性は500人だが、年寄りと子供を除けば300人位が兵役に当たる男性となる。
しかし、300人を連れ行ったら、翌日から集落は成り立たない。
皆さんの仕事場の男性の半分がいなくなったら、会社は回りますか?
詰まり1000人の集落で徴兵できる数は100人が良いところであろう。
1000人の戦死者が出たと言うことは、10000万人規模の徴兵数に匹敵する数なのだ。
だが、織田軍は1000人が戦死したら、1000人募集すれば良かったのだ。
日本全国、多くは農民であるが、跡取りは沢山の兄弟がいても1人だけであったから、残りはあぶれたのだ。
「織田信長の元に行けば、現金で雇ってくれるよ」という噂が全国に広がるのにさして時間は掛からなかったと思う。
さて、甲州武田家だが、甲斐の名門であるというイメージであるが、それは全くの出鱈目であり、実際は武田信虎がやっとこ国人衆を纏めたというのが事実であった。
実際に武田信虎は、国人衆に城を攻められ窮地に立たされていた。
その後、現在の武田神社の場所に躑躅ヶ崎館を建てて住んだのだ。
武田家は一度滅んでいると私は考えいる。
永享の乱(永享10年:1438)という内乱があった。
これは将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏との争いであった。
前回、室町時代の戦三昧は、足利尊氏の優柔不断にあると書いたが、永享の乱も尊氏の優柔不断が招いた乱であった。
鎌倉公方とは関東統治のために置かれた役職で、初代鎌倉公方は足利基氏であり、尊氏の実子であった。
室町公方と鎌倉公方、いざこざが起こる気がするでしょう?
起こした人物は、足利六代将軍の、別名籤引き将軍であった足利義教であった。
比叡山を半分焼いた将軍であった。
彼は苛烈に守護大名の力を削ごうとしたが、目の上のこぶであった鎌倉公方も標的であった。
関東の守護大名にしたら関西の公方よりも鎌倉公方様の方が近いし、血筋も尊氏の系譜であるから当然従うでしょう?
武田家も鎌倉公方が認めた武田信満にイチャモンを付けたのが義教であったし、永享の乱は鎌倉方の負けであったが、これに与した信満は攻められ何と天目山で自害に追い込まれた。
この天目山は、後に武田勝頼が自害する山でもあった・・・
ここから甲州は大混乱に陥り、国人衆が独立し、甲州は無政府状態となっていたが、これを力で纏め上げたのが武田信虎であった。
信虎は中世の守護大名の復活を画策していたが、これが家臣団の反発を受けて、晴信を推す声が上がった。
晴信は信虎を今川に引き渡し、自身が武田家家督を継いだ。
晴信の命題は、守護大名の武田家を、戦国大名家と進化させることであった。
その矛先が、信濃であった。
信濃国も、守護大名小笠原家が衰退して、国人衆の群雄割拠状態となっていた。
地政学的にも、南や東への侵攻は事実上不可能であった。
今川家や北条家の方がいち早く戦国大名となっていたからである。
守護大名は、過去の栄光にしがみつき、"権威"によって成り立っていたが、戦国大名は軍備を整えて隙あれば他国を侵略する意志を持っている。
逆説的に言えば、守護大名は実力が無くても、室町幕府や家柄の権威で成立していたが、戦国大名は実力が全てであったと言える。
実は近江の浅井長政も父久政を隠居させていたが、晴信との政治家として違うのは、久政を国外追放にしなかったことである。
この一点だけでも、信玄の政治家としての才が光るのだ。
これが浅井家を滅びの道へ進めたことは、後日書くとする。
晴信の北上は、海が欲しかったのと、甲斐が蛸壺であり更に貧しい土地であったからである。
だって、未だに"ほうとう"が有名なのだ。
我々は甲州に行ったらほうとうを御当地グルメとして食べるが、早い話が、野菜のごった煮にうどんのようなものを入れたものである。
小麦は貧しい土地でも育つが、稲作はそうはいかない。
強い軍団を育てると言っても、分け与える領地が狭く貧しい土地であったら、兵を養えない。
だから、信州を取りに行ったのだ。
武田が生き残るには、絶対的な命題であったのだ。
結果、肥沃な信州から米や稗、粟、蕎麦などの食料品が武田軍団を支えたのであった。
そして、貧しいが故にお金がない。
だから、金の採掘を始めざる終えなかったのだ。
農作物の収穫が豊富であれば、これを他国へ持っていって必要な物資と交換できたが、武田にはそれだけの余力が無かった。
これと言った産業も無かったので、自国の甲州金は必修であったのだ。
事実、甲州金によって武田は強い軍団を持つことが出来たのだ。
つづく