初恋
子供の小学校に用事があって行った。
校庭にこだまが返る位校庭に木霊(こだま)が返る位の怖い声で
男の子が熱血先生に叱られていた。
割と若い男の先生で子供たちにも人気の先生。
でも、その声は本当に怖いと感じた。
ここが小学校だから、なんだろうか。
大人の私が自分よりずっと年下の先生に
怖いと感じるなんて。
何をしでかすか判らない、怖い人、というんじゃなくて。
子供の頃、きつくきつく叱られて、身がすくんだ記憶。
そういう怖さ。子供が大人に感じる、あの絶対的な怖さ。
それが引き金になって、思い出した感情がある。
思い出した、記憶ではなくて、感情-。
-あの子が、見ている。
きつく叱られて、すくみあがっている、惨めな自分を、
あの子が見ている。
どうしようもないみすぼらしい自分を
みんなが見ている。
先生が何か怒鳴ったり、
一瞬何が起きたか判らないうちに頬が熱くなり、
ビンタされたことのショックよりも
さらし者にされている、という「痺れ」に
私は支配されていた。
いつ頃から、沢山の同級生の中から
あの子だけをすぐ見分けられるようになったのか
よく覚えていない。
でも、多分、目があった時に、あの子が
ニコリと笑った、多分そんなことだったと思う。
あの子がこちらを見て、友達と笑った。
見た、と思ったのは私の一人合点かも知れない。
でも、あの子がこちらを向いて笑うたびに
空気が読めない、今の時代ならそう言われるだろう私の
嗤われているのではないかという疑惑と、
それでもその笑顔を可愛いと感じる自分。
笑顔が時に残酷であることを、幼い自分は
こわばって耐える以外に何の術も持っては
いなかった。
もしあの子と話をする機会があったなら
私はあの子の笑いが残酷なものなのか
それとも全く私の思い違いだったのか
推し量ろうとしただろう。
愛らしいチェシャ猫のように、
私の遠い記憶の中で、あの子の顔は
ぼんやりとして消えかかり、
あの子の笑みだけが忘れることが出来ずに
今も心の底に眠る。
他の多くの人と同様に、私の恋も
その多くは痛みとともに記憶の棚に
収められている。
初恋はカルピスの味がする、という
フレーズを昔々よく聞いた。
私には、未だに、多分、あの痛みが
初恋、といえば そうだったのでは
ないだろうか、としか言えない。
ああ、そうだ、少し思い出した。
友達と楽しそうに談笑する
あの子のうなじが放つ不思議な
感じ・・・
あの子とすれ違ったときに
かすかに肘に触れた かすかな衣擦れ
確かにどこかで嗅いだ記憶がある
甘い匂い・・・
なまめかしい、とでも言うのだろうか。
私は生まれて初めて
異性、という生々しい
自分とは異なるものを感じて
自分の心音を聴いた。
あの、熱血先生に叱られている子は
私ではないだろうか。
先生の顔を見ることが出来ずに
うつむいて手を握り締めている。
ふと視線をあげて
笑っている女の子がいないかと
探してみたが
もう、あそこにいる叱られている彼、
ではなくなった私の視界には
彼と先生以外に記憶に残りそうな顔は
見当たらなかった。
カルピスの味なんかしないや
僕は踵を返して、学校を後にした。
ちゃんとした、甘い恋、って
どんな感情だったっけ。
あ、クリーニング出すの忘れてた。