魂の話の続きです。


前回、「わたしたちはひとつである」という真実がありました、すると、個別の魂なんてないことになる。

 

そのことは、そうでもあるし、そうではないともいえます。


その続きです。




これは、神聖なる二分法と言います。


宇宙で悠々と生きていこうと思うには、この神聖なる二分法を学び、充分に理解することが大事です。

神聖なる二分法とは、一見矛盾する二つの真実が同じ場で同時に存在しうるということです。


いまの地球上の人びとには、受け入れがたいと思います。



私たちは秩序が好きで、自分たちの考えに合わないものは頭から否定します。

だから、二つの現実があり、それが矛盾しているように見えると、片側は間違っている、インチキだ、真実ではないと決めつけます。


ですが、私たちのいる相対性の領域とは逆に、絶対の領域では、「存在するすべて」というひとつの真実が、相対的には矛盾する効果を生み出します。


この神聖なる二分法は、人間の経験のなかでもよくあります。


これを受け入れなければ、悠々と生きていくことはまず不可能だ。

不平を言い、怒り、のたうち、むなしく「正義」を求めつづけなければならない。

あるいは、正反対の力を融和させようと、むだな努力をしなくてはならない。

だがそんな力は融和するはずがない。


それどころか、もともと両者が緊張しているから、好ましい効果が生まれているのです。 (矛盾)



じつをいえば、相対性の領域はこの緊張によってたばねられています。 


たとえば、善と悪の緊張です。 究域で、私たちは悪と「呼ぶ」経験を創造しました。

善悪の両極を創造し(いまも毎日、創造しつづけ)、片方を使って、べつの側を経験できるようにしたのです。


これが、神聖なる二分法です。



さて、それでは最大の神聖なる二分法についてお話します。



あるのは「ひとつ」だけだから、「魂はひとつ」しかない。 しかし、「ひとつ」のなかには多くの魂があります。

ーーー ここで、 二分法が働きます。 前回、魂のあいだに分離はないといいました。

魂は生命エネルギーで、すべての物質的な客体の内外に(オーラとして)存在します。

それがすべての物質的な客体を「たばねて」存在させているとも言えます。 (この地球上すべてのモノ)

「神の魂」が宇宙をたばね、「人間の魂」が個々の身体をたばねているのです。


身体は魂の容器、 「家」 ではなくて、魂が身体の容器なんです。


そして、魂と魂を「分ける境界線」はないのです。


このことは、岩を見れえば理解しやすいと思います。 岩はひとつの個体ですが、無数の砂(粒子)のかたまりです、その境界線はありません。 言わば 視点の問題です。


そのように、「ある魂」が終わって、「べつの魂」が始まる場所はないのです。


すべての身体をたばねているのは、ほんとうはひとつの魂です。


ところが、ひとつの魂は、個々の魂の集まり「のように感じられる」。


実際にはそうなのです。神が意図して、そうされたのです。 


実際には魂のあいだに分離はないですが、「ひとつの魂」をつくっているものが、さまざまな速度、さまざまな密度の物理的現実として現れるもの真実です。


つまり、「リビングルームの空気」と「台所の空気」のようなもので、台所は食べ物の匂いがします、リビングルームにいくと、それはうすれます。 でも空気は同じです。 このように同じ空気ですが、ちがうようにも感じます。



これが偉大なる神秘、終わりのない謎、永遠の真実です。


私たちは、ただひとつです。 従って、 それがわたしたち(自分)であるのです。