その日オリオは、いつものように『居酒屋 ゴミ箱前』で一杯やってから電車に乗り込みました。
その居酒屋はオリオ好みの渋さで、お気に入りの店舗です。
その居酒屋では、いつも同じようなメニューを楽しみます。
500mlの缶酎ハイ。120円のおつまみを一つ。
贅沢をするなら、おにぎりも一つ。
季節を肌で感じる事のできる場所。
文字通り、『居酒屋 ゴミ箱前』。
駅のホームの、端にある一角。
そこがオリオのお気に入りの店舗です。
そこでいつものように、一杯やってから電車に乗り込んだある日のこと。
電車に乗る頃には、ほろ酔い状態。
決まって乗り込むのは、電車の最後尾。
出来るだけ酒臭さをばら撒きたくないってのと、空いている状態で身体を休めたいから。
勿論、席が空いていたとしても座りません。
隣の人がアルコール臭で喜べる人なら話は別ですけど。
その日もいつものように、運転席側の空いているスペースに背中を預けて、乗り込みました。
ここで気を抜いて口から息を吐こうものなら甘ったるい嫌な臭いしか出てこないので、耐えます。
これが出来ないサラリーマンが多いので、時々嫌になります。
電車は、しばらく停車するようでした。
オリオが落ち着こうと壁に背中を預けた時に、目の前の女性が降りていきました。
その女性はドアの脇にいたので、すぐに降りられたようです。
しばらく停車していたので、おそらく降りる駅だと気付いたのでしょう。
慌てて降りたようでした。
女性が立っていたスペースには、すぐに別の客が入り込みました。
電車でのドアの脇というのは、結構安全な場所です。
手すりはあるし、乗降にも便利。体勢保持も楽なので、人気のスポットだと思います。
だから、女性が降りた瞬間に、別の客が滑り込んだんですね。
オリオも壁に背中を預けてなかったら、そのスペースに遠慮無く滑り込んだと思います。
ところが、ここで小さなハプニング。
先ほど降りた女性が、間違って降りてしまっていたようで、また戻ってきたのです。
しかし、さっきまで自分が居たスペースは既に別の客が立っている。
仕方なく、その女性はつり革がある位置に立つ事になりました。
こればかりは仕方がありませんし、暗黙のルールと言ってもいいくらいでしょう。
誰もが疲れているし、空いたスペースに身を滑り込ませるのは決して悪い事ではない。
むしろ、誰もが望む当然のことでしょう。
だから、降りる駅を勘違いしたこの女性に不備があった事になります。
しかし、オリオは見てしまったのです。
その女性、片腕を吊っていたんです。
怪我をしているのか、それとも筋を痛めたのか。
どちらでもいいのですが、状況は単純。
その女性は、つり革の下に居てもつり革を持つことが出来ない。
空いている手は、肩にかけたショルダーバッグが落ちてこないようにバッグを支える為に動かせない。
いわゆる、自分の身体を支える事のできない状態で立ち尽くしているわけで。
オリオの目の前。
ここで、オリオの葛藤が。
オリオの場所を譲れば、女性は安定して自分の身体を支えられる。
しかし、自分は飲酒した後なので、酒臭いのは必至。
しかも、見た目が凶悪(←これは個人差があるとは思いますが)。
そんな男が、突然女性に声をかけ、自分の場所を譲ろうとしたとしても、
嫌な思いをさせてしまうのではないか。
そっちが気になってしまいました。
一瞬のためらいが、声をかける勇気を奪いました。
ほどなくして走り出した電車の揺れで、その女性の体はフラフラとふらつきます。
バッグを支え、怪我した腕を抱える女性には、下半身のみで揺れに耐えないといけません。
しかもこの女性、1人で帰っているようで、支えてくれる友人などが居るわけでもない。
その女性の体勢が気になって仕方が無いオリオ。
でも、先述の理由から声をかけるタイミングを見失ってしまっている。
更に時間は過ぎて、やっと錦糸町から一つ目の駅、新小岩。
揺れもおさまり、もしかしたらこの女性が降りる駅かもしれない。
ここで降りて、もう揺れにおびえる(←言いすぎっぽい)事もないかもしれないと、思い込む。
けれど、それも一蹴。
誰も降りずに、その女性もそのままの位置から動く事が出来ていませんでした。
また一駅、揺れ続ける事になるのか。
もう、ここはさすがに黙っていられませんでした。
いいんだ、いいんだ。
例え声をかけて嫌な思いをさせたとしても、この女性が楽な体勢になれるのならいいや。
気持ち悪い、酒臭いオヤジに声をかけられるのは嫌だろうけど、彼女が楽になれるのならそれでいいや。
そこで声をかけるタイミングを逃す事無く。
やっと、横から彼女の肩を叩く事ができました。
振り向いた彼女に、オリオの背中にある壁を指差して、
オリオは彼女の立っている位置へ身体をずらします。
すると彼女は、
『いえ、次の駅で降りますから大丈夫ですよ^^』
と、お断りを言ってきた。
それは計算済み。
きっと、遠慮するだろうと思ったので、こう答えました。
『痛そうだからさ。凭(もた)れてた方が楽だよ』
無理矢理笑顔を作って言ったので、もしかしたら最悪なくらいに気持ち悪い笑顔だったことでしょう。
それでも、怪我して片腕だけで乗っている女性に、楽なスペースを譲ることができました。
心中では、『あー、喋っちゃった。酒臭かったに違いない』と、考えてもしょうがない事で軽く凹んでました。
いいんだ、もういいんだ。
後悔しなくてもいいのにそれと同じような感情になっているアラフォー男はつり革に掴まり、
ゆらゆらと決して細くない身体を揺らされ続けました。
そして新小岩から次の駅、市川に到着。
彼女の言葉を思い出します。『次の駅で降りますから』。
オリオの目の前に来て、電車の中で満面の笑みで
『ありがとうございました^^』
と言った女性は、痛そうな腕を抱えて、宣言通りに市川駅で降車していきました。
彼女が降りて、しばらくして。
自分のやった事にちょっとだけ満足できた酔っ払いは。
津田沼に向けて動き出した電車内で、
ちょっとだけ、酒臭い息を吐きながら、
にやにやしていましたとさ。
人が人にね。
何かをしてあげようという時。
絶対に、迷う時間があると思う。
少しでも早く、その行為はやってあげた方がいいと分かっていても。
すぐに行動に移せないことの方が多いと思う。
でも、これだけは言える。
やらずに後悔するのと
やってから後悔するのと
前に進んでいるのは、絶対に『やってる人』だと思う。
席を譲るのは恥ずかしい事じゃない。
親切にする事は照れる行為ではない。
『誰かの笑顔が見たいから』っていうエゴでもいいんだと思う。
人が人と助け合うっていうのは、本当に素晴らしい。
そんな事を感じた、ある日の夜のお話でした。


