空耳ヘアー | 勇気づけの嵐c6217139-08

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勇気づけの嵐

 

 

 

 

ベストセラー書「嫌われる勇気」で大ブレークを果たしたアドラー心理学では、困難を克服する活力を与える「勇気づけ」をとても大切なものと考えています。


本ブログは、夫婦関係、子育て等の困難から救われた自らの経験を活かす為、幸福を目指すこの心理学の案内役となり、各種ワークショップやカウンセリング等への橋渡しができればとの思いでスタートしました。

また、勇気づいた人の象徴的存在である嵐の活動、旅や趣味の世界等についても合わせて綴っていますので、同好の方にお楽しみ頂けたらと思います。

巻き起こせ!

勇気づけの嵐
 

 

<重要なお知らせ>

 

【記事再掲載のご案内】

 

本ブログに移行して来る前の記事も改めて再掲載して行く事にしました。

 

こちらの記事一覧に加わって行く事になります。

 

2017年6月1日の記事からからボチボチやってます。

 

今回、以下の記事を併合しました。

<日替り記事>

 

 

【お・は・ら・だ・ち】

 

おもてなしが、あまり期待できないと知るなり、日本国民の犠牲をもって開催すると、逆恨みで失言を宣った、ばっかハイチョウ。

 

自分達が目立たない様に観客を入れろと主張したとの噂がありますし、あろう事か、おもてなしが期待できそうな中国人に意識が行ってしまい、日本人と言い間違いを犯す大失態も。

 

大体、5者協議の席で緊急事態宣言の中味について説明しろなんてあり得ない!

 

ネットで調べてから来いっつーの。

 

広島には自腹で行って、オリンピック貴族を連れてとっとと帰って下さい。

 

最早、コロナ禍で、おもてなしに値するメリットは霧散し、それに割ける予算等、とうに消え去っているのですから。

 

 

【ご近所様】

 

これだけの高低差でも凄い音がしてます。

 

静かに流れているすぐ上流でも、大変なエネルギーがあると改めて知らされますね。

 

更に、ゲリラ豪雨の直後はこんな具合です。

 

 

【愛聴習慣】

 

前回と真逆で、ギター無しの唄だけB.B.キング。

 

ゴスペルだけを唄ったアルバム「シングス・スピリチュアルズ」以外では珍しいですね。

 

ケント2作目LP「レット・ミー・ラブ・ユー」に入っていました。

 

何と言う事でしょう、この曲は!

 

「完売ヘア」?

 

カツラのCM曲?空耳アワー?

 

子供の頃、B.B.も教会で唄っていたかも知れませんが、タイトルも曲調も似たゴスペルがあります。

 

でもこちらの歌詞に神聖さはなくブルースそのもの。

 

ピュアなブルース・ファンからするとゲテモノ作品にも思えるでしょうが、デビュー前、メンフィスでディスク・ジョッキーをしていた経験から、聴取者の好みを意識した選曲なのかも知れません。

 

しかし、ブルースの地位向上を目指していたB.B.なので、こっち方面に走る事はなかったんですね。

 

 

<シリーズ・勇気づけの暮らし・48>(復刻)

 

さて、ここで、自身のファン歴についても簡単に触れておきます。

 

慶応ボーイのアイドルがいるとの芸能ネタを知っているくらいで、姪がデビューからはまっている事も知らず、全く嵐とは接点がなかった訳で、ドラマ「花男」をカミさんと観始めたのが、ファースト魂タクトになります。

 

その後、深夜のバラエティー番組に突き進むカミさんに付き合う内に、何か面白い人達だなと興味を覚える様になりました。

 

ところで、先週の「しやがれ」では、「あの芸能人のカッコイイ行動」として、先輩から話して頂いた事を明かされていました。

 

ニノさんは、ドラマ「涙をふいて」で共演した、故・いかりや長介さんから、芸人、ミュージシャン、俳優、アイドルとかの垣根がなくなる時代が来るので、食わず嫌いにならないでとの的確なアドバイスを楽屋で頂いたそうです。

 

これは、決してアイドルではありませんでしたが、ナベプロ先輩のハナ肇とクレージーキャッツの流れを汲んで、バンドマンからコメディアン、寄席からTVの長寿バラエティ、ドラマまで活躍された、いかりやさんご自身の経験に裏打ちされた言葉ですね。

 

もう一人、「しむどう」で一つのコーナーを任される事になった相葉さんに対しては、故・志村けんさんから、自分が台本を納得するまでディレクターと話し合いなさいとアドバイスがあったそう。

 

奇しくもお二方共、ザ・ドリフターズの面々です。

 

従来の、あやつり人形的アイドルになって欲しくないとの気持ちが込められた、嬉しい助言であって、今や5人共、見事に体現しての活躍ぶりですね。

 

この辺が、特異性のある、嵐のバラエティーに引き寄せられていく一因となった様です。


(続く)

 

 

<買収の旅・4>

 

さて、やはり政府のふところが厳しい中、計画通り官設で開業していた東海道線西端の神戸から先、下関までの区間を開通させたのは、私鉄の山陽鉄道でした。

 

こちらは、日本鉄道の様に、国が大きく経営に関わる事はありませんでしたし、安全な内陸部への幹線のルート変更を主張する軍部の希望は、建設費や経済的メリットの問題で叶いませんでした。

 

しかし、私鉄に対しても政府の強い監督があったので、開業区間が井上によって指示されたり、やはり軍事上の理由等で規格を合わせ各幹線間で相互乗り入れができ、大量の兵員や物資の輸送に支障がない様にはなっていました。

 

これは、一般民衆にとっても大きなメリットだったのです。

 

さて、その後も政府財政のひっ迫状態をよそに、百花繚乱の私鉄ブームでしたが、経済恐慌で一気に鎮静化し、財界も 営業不振に陥った私設鉄道の国による買上を主張し始めます。

 

一方こちらの懸案も最終的に我田引鉄へのシフトで挫折の結末を迎えてしまうのですが、この頃はまだ広軌への改軌を強く主張していた軍部の意見も強くなり、また政府としても、好不況に左右されず、輸送力強化、通算による運賃低減、標準化による経費節減等を達成できると踏んで、明治39年(1906年)、鉄道国有法が成立し、これで主要幹線の全てが国のものになります。

 

対象となったのは日本、北海道炭礦、甲武、関西、山陽、九州、その他全17社で、勿論タダで分捕る訳でなく、大規模な買収が実施されました。

 

言うまでもなく、路線に加えて、職員や、輸入に頼っていたSL等、数多くの車両も引き継がれそのまま運用されたのです。

 

ところで、明治の頃から執拗に軍が心配した沿岸ルートですが、実際に攻撃を受けたのは、60年後の第二次大戦中の浜松周辺への艦砲射撃でした。

 

しかし、東海道線の復旧が殊の外早く進み、現・天浜鉄道となっている二俣線に迂回した列車は極わずかで、全くの拍子抜けと言った有様でした。

 

もし、全ての幹線が軍部の意見に屈して建設されていたら、険しい峠の山岳ルートばかりとなり、建設が遅々として進まず、経済に深刻な影響を与えていたに違いありません。

 

内陸部を通るこれらの山岳部の幹線は、技術の進歩に伴い、後年多くが開通して行きますが、アプト式機関車やSLが奮闘する撮影名所となり、軍部よりもファンを喜ばせてくれたのです。

「碓氷第3橋梁ED42」の画像検索結果

 

(続く)

 

 

<鉄道動画集>

 

YOU TUBE「スヌーピー1」からご覧下さい。