まー人生語っても仕方ないんだが、母について書きますか・・・・。
今現在、母はこの世にいません。生きてれば61歳ですか、そんなこんな14年前数え47歳で他界しました。
俺18歳、2番目弟17歳、3番目弟9歳・・・。
親孝行今からやってくんだと、自衛隊に入隊した矢先でした。
俺が新隊員として入隊して、自衛隊内の公衆電話で「ここなら、がんばっていけるが!!」って安心させたのは、ついこの前のように感じます。
そしてその、3ヶ月目前期教育課程が終了し、ゴールデンウィークの為、母に自衛隊まで迎えに来てもらったのが最後でした。よく考えればあのときにも、母の病状は進んでいたのだろうと思います。
母の病気は「癌」でした・・・。
病気が解ったのは、ゴールデンウィーク終わって、後期教育課程始まってすぐでした。母の体に異変が出てたのです。
内臓疾患からくる特有の足のむくみ・・・。はじめはそんなこと知らないから、貧血か何かと思って、かかり付けのクリニックで点滴を打った程度の処置でした。
相手は「癌」です。そんなんじゃ治らないはずなので、ますます病状は悪くなるのは、当たり前でおかしいと思った親父は、隣の町の病院に連れてくことにしました。
そのとき親父は、母を乗せた車でぼそっと「家には戻れないかもしれん・・・」と口にしたそうです。幸い母の耳には届いていなかったようで・・・・。
母の入院生活は、始まって訪れた母の日も病院内でした。自分の働いた給料で母にカーネーション贈ったのは、これが最初で最後でした。
そして、正式な病状がわかったのは、その何日もしない後でした。もちろん親父から・・。その日の夕方母の見舞いに行くのを渋ったのは、よく覚えてます。
急変した日も覚えてます。
教育訓練で高千穂登山して、疲れてベッドでクッテッとしてるとき教官が慌てて「すぐ病院にいけ!」と言われた日、駆けつけたベッドの母の酸素吸入器をつけてる姿を見て・・・・、そこで初めて号泣した。思った・・・、「もう助からないんだ」と・・。思わず頭もおかしくなりそうだった。
そして、病院につきっきりで過ごしたけど、何日たったのか、何回夜が来たのか覚えていない・・・。そんだけ、自分も混乱と心配と不安とで、頭がいっぱいいっぱいだった。
そんな中、一日だけ容態が安定した日があって、夕方自宅に帰ることになりました。
親父またここで一言「帰ってる時に、なんもなければな・・。」
的中した・・・。
自宅就いたと思ったら、即電話・・。容態急変したと・・・。
その日が、最後でした。もちろん間に合いました。親戚の人たちも・・。
死が近くなる間際、ずっと手を握りました。
後悔しました。たぶん手を握るのは、小学校の入学式以来久しぶりだったから・・・、何でもっといっぱい手を握らなかったのだろうと・・・。
あの手の感触は、忘れてません。そんだけ後悔したから・・。
そして、息も絶え絶えしくなるころ、親父が「もう無理すんな、楽になれ」と声をかけ、見守る中深く2回息を吐いた後、あの世にいってしまいました。
あの後2番目の弟は、自分の単車で「帰る」と言い帰ったのですが、先に出たはずの弟より自宅に帰りついたので、たぶんどこかで泣いたんだなと思いました。
肝心の3番目は、9歳と言う歳が「死」に対することがどれだけ、怖いか・・、その先は書きません。俺も小さかったら、そういう状況になるだろうから・・・。
そんな中、ひとつだけ当時の教官からもらった言葉があります。
「悪い言い方かもしれんけど、お前のお母さんはがんばって死んだんだ。だからお前もがんばらなきゃ・・・」って。
この言葉は、母の死の直後だったので胸に響き、この先どうしたらいいか、示した言葉でした。
そうした葬式後、家に帰っては、母の死に現実感がもてず、泣きそうになったり・・・泣いたりの繰り返しが続いたのは言うまでもありません。
今は、親父がまだ生きてることに幸せを感じるが、何もしてやれん自分がはがい~ですww。
とにかく思いついたこと、書きなぞらえ長文になってしまい、申し訳ありません。このブログ読んでくださった皆さんには、沢山親孝行していただきたいと願い思うばかりです。
以上。