【"言霊"という言葉に感じる胡散臭さ】
【A:定義】
①-言霊-ことだま
声に出した言葉、音声言語が、現実の事象に何がしか影響すると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされる考え方の事。
wikipediaより
②-引き寄せの法則-ひきよせのほうそく
ポジティブな思考が良い経験を、
ネガティブな思考が悪い経験を人生にもたらすという「引き寄せの法則」と呼ばれる19世紀のキリスト教異端派が生み出した疑似科学の事。
wikipediaより
[A注釈]
①②の定義に於いて、批判的な文脈に見えるかもしれませんが、個人的にはこれを全否定せず、"ある程度"までは正しいと思っています。
【B:問題提起】
[B-1]
最近では「言霊」とはスピった人達等が上記①と②を融合させた拡大解釈(なのか?)で「言葉にはパワーがあるので願いは口にすると叶う」みたいな意味合いで使用している事が多いように見受けられます。
例えば私が嫌いな奴に殺意を持って「死ね!」と言うとする。
すると言われた相手はその言葉の影響を受けて体調を崩したり、私の意図した通り死んでしまう。
あるいは、
「金が欲しい!」「素敵な異性と出会いたい!」という願望を持ってその言葉を口にすると、自分がその影響を受けて願いは現実の物となる。
みたいな説になっていますよね。
そしてそれはとても胡散臭い。
新約聖書マタイの福音書、第7章の有名な言葉
「求めよ、さらば与えられん」
をめちゃくちゃ都合よく解釈したような居心地の悪さを感じます。
[B-2]
事実として
悪い言葉を言われると嫌な気分になるし、
良い言葉を言われると素敵な気分になります。
そこに心に影響する「何か」があるのは疑いようのない事実だと思うのですが、
じゃあその「何か」って何?
【C:主題】
本雑記は、
個人的に「どうにも胡散臭く感じられて生理的に無理ー!!」という"スピリチュアルアレルギー"とも呼べる拒絶反応を
①分解→整理してみる。
②そこから見えてきた"本質"について考えてみる。
という試みです。
【D:考察】
[D-1:おさらい]
さて、上記のように①「言霊」の"定義"は上述の通りですね。
[D-2:その定義の解釈と整理]
ですがその本質を"解釈"すると以下のように整理する事が出来ます。
a:「言葉」は意思伝達の手段。つまり"信号'である。
b:「信号」とはそれに意味を持たせない場合、無意味である。
aは感覚的にもわかりやすいと思います。
bは少し難しいかもしれません。
なのでこんな遊びを通して掘り下げてみましょう。
↓
『"b"を理解するための思考実験:愛してる』
「愛してる」という日本語話者的には言ったり言われたりする事に特別な意味を持つこの言葉を、
例えば日本語が全くわからないアフリカやアマゾンの先住民族に聞かせたらどんな解釈をするのか?を考えてみましょう。
(人が発話する温度感や感情等の"ゆらぎ"を排除するためボカロにインプット→発音させる事とする。)
つまり変数を極力排除した"純粋な信号"を受信してもらうわけです。
その信号を受け手はどう感じるのでしょうか?
その信号(機械的な音声)に親が子へ、恋人が恋人へ向けるような"愛情"や"慈しみ"など、
己の人生に由来するおよそ言葉に出来ない喜びや切なさや悲しみが複雑に入り混じった感情を見出すのでしょうか?
ではこれを反転してみましょう。
アフリカのとある少数民族の言葉に、
「ンゴぁっ!チャカポコぉおげえぇぇ…」というものがあります(いや無いんですけどね、仮にです。仮に。)
この言葉は"強いて日本語に訳すならば"「貴方を心から深く愛している」という意味になります。
彼らの社会に於いてそれは親から子へ、
子から親へ、
恋人から恋人へ、
死に行く友へ、
既に旅立った故人へ、
深い愛情を持って発声されます。
そこには彼らの社会構造や人生観が深く関わっており、それらの言葉に出来ない複雑な感情を全て引っくるめた上で選ぶ言葉が
「ンゴぁっ!チャカポコぉおげえぇぇ…」
なわけです。
アフリカの土地と文化と歴史。
つまり、高温多湿で四季があり、生活を人質に取られ、生まれてすぐ競争を強制され、過労死が頻発するまで働きながら「自分や人生の意味」に不安と恐怖を抱き続ける現代日本社会とは全く異なる!!
そんな人生経験に立脚した価値観を持つ一人の人間が、己の生涯の、全てを込めて愛しい人に発する1言なんですね。
さてさて、貴方はボカロから(あるいはゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙から)発せられる"あの音声"でこの言葉を聞いた時に文化や言語体系に根付いた「言外の意図」を汲み取れるのでしょうか?
(ソレジャア、ユックリシテイッテネー)
私だったら絶対爆笑します。
何故なら日本語という言語に於いて「ンゴぁっ!チャカポコぉおげえぇぇ…」という語感はあまりにもコミカルだからです。
そしてそれは「日本」という国に生まれ育った"私"の人生に立脚する価値観なのですね。
[D-3:考察のための道具"科学&論理"]
ところで「科学」とはざっくり言うと、
"その事実がどのようにして起こったのかを論理的に説明しようと試みる学問"
です。
では、これを使って本雑記のテーマである「言霊」について1つ哲学してみましょう。
上述の通り「言霊」の定義は、
声に出した言葉、音声言語が、現実の事象に何がしか影響すると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされる考え方の事。
です。
これを図式で表すと以下のようになります。
↓
音声A ⇔ B事象
お気付きになりましたか?
この定義と図式が説明しているのは「AをするとBになる。BをするとAになる。」という"関係"を表しているに過ぎないんです。
そこには図式の「⇔」部分、
「どんな要素がどのように作用し合ってそうなるのか?」
「何故そんなものがあるのか?」
という"本質"が1ミリも含まれてないんですね。
そして先程も申し上げた通り「科学」とは"その事実がどのようにして起こったのかを論理的に説明しようと試みる学問"です。
例えば身近な「火」を例に取ると、
火という事実がある
↓
どんな要素がどのように作用し合ってそうなるのか
↓
酸素という原子と炭素という原子が結びつく時に発生する燃焼と呼ばれる化学反応の1種である
ここまでは科学的に説明が付きます。
では「燃焼っていう化学反応は何故あるの?」というともう「うーん、わかんないですねー」となってしまうわけです。
この先は哲学や神学の領域だ!と言う人も居ますし、科学のパラダイム(範囲、範みたいな意味)の拡張が必要である!と言う人もいます。
もう少し噛み砕いて言うと、
小さい子供に「なぜなぜ期」というものがありますね。
例えば、
ねえパパ、どうして空は青いの?
↓
それはね、お日様が発する光のうち、人の目で見えるのは青が1番強いからなんだよぉ〜(雑)
↓
どうして青が1番つよいの?
↓
それはね、光には波長というものがあって、その波が1番強いのが青なんだよ〜(雑)
↓
ううん違くて、
青が1番強いのはわかったけど、
じゃあどうして青が1番強くなくちゃいけなかったの?
ここまで来るともう手詰まりなわけで、
そこを無理矢理説明しようとすると、
「神様がそう決めたんじゃないかなー」
とか
「いやいや待て待てそもそもお前はさ、"自分が見てる青とパパが見てる青が全く同じ色である"って前提で議論進めようとしてるけど違うからね?その方向で話進めたいなら前提としてお前とパパの"青"が"完全に同じである"って証明しないと始まらないしそんなの原理的に不可能だからね(早口)」とかのやっかいな大人ムーブをかまさなくてはならなくなるわけです(元ネタがわかった人は友達になってください。)
少し脱線しましたが、結論に行きましょう。
【E:結論】
[問題B-1]
上記により
①"言葉"の本質とは単なる"信号"である。
②科学は"言葉"と"信号"の関係を説明出来るが、その間にある言外意味→つまり"意図"の本質を説明出来ない。
③以上を踏まえて現状「言霊」というワードを使用する人達には科学的に説明可能な領域と説明不可能な領域をごっちゃにして「自分の思想を正当化するために」使ってる節が見て取れる。
④それはちょっと乱暴だし狂信的ですよねー。
⑤だから私はそれに触れると居心地悪く感じる。
と思うに至りました。
以上、酔っ払いの雑記はここで終了です。
【F:余談】
ここからは1ドラッグユーザーとしての所感ですが、
こう長々つらつら語って来つつも所謂スピった人達の意見を完全に否定するわけではなく、
冒頭で「個人的にはこれを全否定せず、"ある程度"までは正しいと思っています。」と申し上げた通り、「説明できない"何か"ってあるよね」が個人的な本音でして、
これが[問題B-2]に対する結論です。
しかし「じゃあその"何か"ってなに?」と聞かれると「うーん、わかんないですねー」ってなってしまうのですが。
例えば紙食ってて、あるいはキャンフリで、
自分の中にしかないはずの「感情」や「意見」がダイレクトに相手へ伝わる現象があります。
これ本当に不思議なんですけど、X上でも同じ体験をした人をちらほら見かけるんですよね。
思い返せば特に「感情」は相手に伝わりやすいですよね。
例えばピリピリした会議の場の「雰囲気」や、
死ぬほどムカつく事されたけど怒りを噛み殺して「全然気にしてないよ!ニコッ」とリアクションした相手はしっかり怒りを感じ取ってたり、
こういう「言外の意図」を科学は表情やジェスチャーという現象を駆使して説明しますが、
その本質については説明出来ないんですよね。
お気づきの通り科学は決して万能ではないので、それで解明出来ない物事があって当然だと思いますし、そういう「不思議」が、この世には存在するよねーという事を理解している点に於いて、所謂スピった人達を「はいはいwスピスピw」と馬鹿にする事は恐れ多いなーと個人的には考えます。
要するに「未知」を説明しようと試みる時に選択する言葉が彼らはスピリチュアルであり、他方私は科学的アプローチであり、単純に"使用言語"が違うだけなのだな。
と思うのです。
なので「波動が!」「"氣"が!」というワードを使用する、所謂"ドスピ"と呼ばれる人達とも、ちゃんと話してみると何だかんだで面白い発見があったりします。
飽くまで「なるほどー、それって私で言うところのアレか。」とか「へえー、その視点は興味深いな。」といった相互理解の範疇ですが。
この雑記で語った「居心地の悪さ」の本質は、
そういった「相互理解」を拒絶して「これが真理なの!それがわからないやつは馬鹿なの!」みたいな"各自の押し付け"の部分にあります。
そういう意味でスピ勢に対して、そして同じように科学信者に対しても「居心地の悪さ」を感じます。
そもそも相手に自分の意見を押し付けるって全然スピリチュアル的でも科学的な態度でもありませんよね。
「未知」を素直に「未知」と捉え、
広い視点と柔軟な姿勢でそれに向き合う態度こそが何より大切なのではないか?
というぼやきがほろ酔いのトサカに浮かんでは消えるのでした。