帰宅後のルーティンができ始めるくらいに何も変わらない日常を送る中

最近は、オリンピック(男子女子バレーボール)観戦という日課が続いていたのだが

それも終わったため、また帰宅後ルーティン再開される日々。

 

そんな日々の中なので、思考する時間も増えた。

 

まず、オリンピック。

私の低すぎる語彙力では表しきれないのが苦しいが、

どの試合もよかった。いい試合をたくさん魅せてもらった。

ありがとうございますの気持ちしかない。

 

しかし観戦している私ですら、むむむ!!!と思ったくらいなので

選手や関係者の方の想いは計り知れない。

 

小中の同級生が別競技でオリンピックに出場しており

パブリックビューイングにも行った。

メダル獲得には至らなかったが、そもそもオリンピックに出場できることが本当にすごい。

 

私自身、天性の才能もなければ、努力を続ける才能もない。

 

人をまとめられるような、

人に影響を与えるような者ではないし

村人Aという言葉が1番似合うような人間なのだ。

 

そんな私なので、人のことをとやかく言える立場ではないのだが

パリまで観戦に行ける方が羨ましい...。

私もあの熱気を感じたかったし、応援したかった...。(高橋藍くんを拝みたかった。)

どうしたらそんな生活を送れるようになるの...。

 

まあ、私が現地にいたところで何もできることはないのだけれど。

 

昔は、大人になったら「何者」かになれると思っていた。

「何者」という邦画を観て、現実はそういうものなのかと理解したつもりだった。

しかし、いつまでも「何者」かになれる、なりたい、という気持ちが消えない。

 

では、オリンピック出場選手は「何者」かになれているのだろうか。

「何者」を特別な、かけがえのない存在のことを指すのであれば

オリンピック出場選手は「何者」かになれている、にあたるだろう。

私がいなくても日常がまわるように

出場選手が1人いなくてもまた日常はまわるが、試合結果は変わるかもしれないからだ。

 

そして、観衆の応援の影響を受けての試合結果なのであれば

その観衆も「何者」かにあたるのだろう。

 

何気ない日々を過ごす中で、知らない間に誰かの「何者」かになっている可能性もあるので

オリンピック出場、総理大臣、社長等の強く分かりやすい言葉を得ているからこそ

「何者」かにあたるわけではないのかもしれない。

 

つまり私にも「何者」かになれるチャンスはある...?

 

いや、ない。