【Creep】
「そこを右に曲がってください。」
「またですか？」
タクシーの運転手は、その言葉をまた繰り返す。
その理由は無理もない。
さっきからボクは、このタクシーをグルグルと同じ道ばかり走らせている。
いったい同じ場所を何周したのかもう分からない。
ただ初めてきた道であることは変わりないが、
もうすでに交差点などの曲がり角や看板などは頭に入っている。
ことの発端は学生時代の後輩の伊藤さんからの一本の電話だった。
「私、一人暮らしをはじめたんです。」
つまりお祝いを持ってこいということなのだ。
その時有り合わせの、なけなしのお金で表参道の小じゃれた雑貨店で、
マグカップと皿のセットを購入した。
伊藤さんが一人暮らしをはじめたというアパートへ行くのだ。
一人暮らしの女の子の家へ行くといってもボクと伊藤さんは色っぽい関係ではない。
高校時代の先輩と後輩という関係だけだ。
なぜかそのまま付き合いがあって現在に至っている。
くどいようだが彼氏彼女という関係になったことはない。
それどころかめったに会うこともない。
伊藤さんはふと忘れた頃にいつも電話をかけてくる。
「どこかへ遊びにつれてってくださいよ。」
何の前触れもなしに電話をいきなりかけてくる。
腹の立つことにまるで僕が断ることなどありえないように、
さも至極当然のように電話をかけてくる。
もっと腹立たしいことはボクが電話をかけた場合はいつも捕まらないときが多いことだ。
携帯電話にかけているのにだ。
それに引き替え伊藤さんはいつも好きなときに電話をかけてくる。
気が向けば毎日でもだ。
そして気がつくと突然電話をかけてこなくなり、しばらくはそれっきりだ。
いったい伊藤さんはなんなのだろう？
連絡が取れないのでそのまま一年ぐらいご無沙汰でいるとまた電話がかかってきたりする。
こんな調子でいったい何年が過ぎたのだろう。
二人は前進することもなく後退することもなく、
いつも同じ距離を離れたまま同じ距離に近づいたまま、
今日まで緩い時間の流れの中に身を置いてきた。
「で、お前はどうしたいんだね？」
友人が僕と伊藤さんの様子を知ったある日のことだった。
正直なところ、ボクは友人に聞かれるまで伊藤さんのことを、
深く考えたコトなど無かったのだ。
「どう、っていわれてもなあ。」
「つきあってるわけでもないのに二人で遊びにいたっりしてるんだろ？
そんな調子で何年も過ぎてるなんておかしいよ。
ずっと二人とも他に彼女も彼氏も作ったりしていないみたいだし。」
「いやいや、正直なところ深く考えたコトはなかったね。
伊藤さんも何考えてるかわからないし。
突然遊びに行こうって誘われたかと思うと、
その後ちっとも連絡が取れなかったりするし。」
「そりゃ、お前のこと怒ってるんだろ。」
「え？なんで？怒るんだよ？」
「せっかく遊びに行こうって誘ってるのに、
その後お前がはっきり意思表示しないものだからさ。
遊びに行こうって誘って後はお前がどうするか待ってるんじゃないのか？」
「・・・・・僕を ・・・・・待ってる？」
男の思考能力なんて単純なモノである。
この会話以来、ボクが伊藤さんを見る目が少し変わってしまった。
頭の中に疑問符を浮かべながら伊藤さんを見るようになってしまったのだ。
本当に、本当に僕のことを待っているのだろうか？
だとしたら僕はどうしたらいいのだろう？
どうしたらこうしたらもない。
どんな形にせよ一歩踏み込んでみればいい。
そうすれば何かわかる。
いや、その前にボクは伊藤さんのことをどう思っているのだろう？
もし一歩踏み込んでみた場合、ボクと伊藤さんの関係は今までとは違うモノになるだろう。
二人は恋人同士ということになるかもしれないし、
もう二度と会うこともなくなるかもしれない。
二人の関係が終わる可能性を考えたとき僕は愕然とした。
そんなことは考えられない。
僕は伊藤さんを失う、例え今のようなはっきりしない薄い曖昧な関係だとしても、
伊藤さんを失ってしまうという可能性に恐怖すら感じた。
「お客さーん、またさっきと同じところへ来ましたよ。」
タクシーの運転手の声ではっとボクは再び我に返った。
この交差点を左に曲がれば伊藤さんのアパートは目の前だ。
もう何度目だろうか。
「右へお願いします。」
「またですかあ？」
「すいません、ちょっと考えがまとまらないもんですから。」
どのみちボクと伊藤さんは今のようなおかしな関係を続けていくことはできないだろう。
そしてボクは例えどんな薄い曖昧な関係だとしても、
伊藤さんを失ってしまうという可能性に恐怖すら感じた。
ボクは認めなくてはいけない。
伊藤さんのコトを好きだということを。
「お前がどうするか待ってるんじゃないのか？」
友人はそういったが本当にそうなんだろうか？
考えるほどに怖くなる。
一歩踏み込んでみたものの全くの見当違いだったらどうしたらいい？
「失うことをおそれていては手に入らない。」
そんなことはわかっている。
ただひたすら失ってしまうことが怖いのだ。
「今のままで十分楽しいじゃないか。」
そんな考えが頭の中にあふれてくる。
笑っている彼女が好きだ。
その笑っている彼女を見ているのが好きだ。
そしてなにより彼女と過ごす時間が好きだ。
その時間を失うかもしれない。
「お前がどうするか待ってるんじゃないのか？」
僕はどうしたらいいんだ？
時間が流れる中で、きっとボクと伊藤さんは、
ずっとどこへむかわずに長くいすぎたのだ。
でもいつかそれは終わる時間だ。
そしてやはりボクは新しい時間の流れへ向かわなくてはならないのだろう。
ボクは決心しなくてはならない。
ふと顔を上げるとまたあの交差点が近づいてきている。
「えーっと、また同じとこに来たんですけどね。どうします？」
運転手が半ばあきれ顔で尋ねた。
「・・・・・左へ、お願いします。」
「はいー。」
運転手は少し驚いたような返事でタクシーを左へ向けた。
僕は今、心を決めたのだ。
今から伊藤さんにあって、失うコトはすごく怖いけれど一歩踏み出すのだ。
たった今まで決心がつかずタクシーを同じ道を何度も走らせていたように、
ボクは無駄な時間を今までグルグルと走ってきた。
でもそれももう終わりだ。
はっきり伊藤さんに伝えるんだ、
僕がどうしたいのかを。
ずっと僕のそばにいてほしいのだと。
伊藤さんのアパートの前でタクシーを止めた。
運転手はボクの様子を見て
「なんだよくわからないけど、お客さん今から一勝負なんだね？」
と声をかけてきた。
「ええ、まあそうです。」
「がんばってね。」
なぜだか励ましてくれた。
「ありがとう。」
ボクはそういってアパートの方を見た。
伊藤さんの部屋は３階だ。
ボクは緊張しながら階段を上った。
ボクは伊藤さんの部屋の前に立ち、深く一呼吸してから呼び鈴を押した。
「あ、いらっしゃい。久しぶりですね。」
ドアを少し開けて伊藤さんが顔をのぞかせた。
彼女はいつもと変わらない様子だったが、
少しだけその顔がいつもよりまぶしく見えた。
僕はもう一度深呼吸した。
「あのさ。」
「はい？」
「来たばっかりでいきなりなんだけど、すぐにでも話したいことがあるんだ。」
「何でしょう？」
「久しぶりに顔を合わせていきなりなんだけど」
ボクはなけなしの根性を絞り出して伊藤さんをまっすぐに見つめた。
伊藤さんはそんなボクの様子を見て少しあらたまったような表情になり、
ボクをジッと見つめ返した。
「お願いがあるんだ。」
「はい。なんでしょう？」
「お金貸してくれない？」
「はい？」
「えっと。。。」
「なんでしょう？」
「どうやったらここへ来るのにタクシー代が￥20,000もかかるんですか？」
僕は深いため息をつきながら答えた。
「その理由は、死んでも君にだけは言えない。」
そしていつもと同じ、緩い時間が流れた。
「そこを右に曲がってください。」
「またですか？」
タクシーの運転手は、その言葉をまた繰り返す。
その理由は無理もない。
さっきからボクは、このタクシーをグルグルと同じ道ばかり走らせている。
いったい同じ場所を何周したのかもう分からない。
ただ初めてきた道であることは変わりないが、
もうすでに交差点などの曲がり角や看板などは頭に入っている。
ことの発端は学生時代の後輩の伊藤さんからの一本の電話だった。
「私、一人暮らしをはじめたんです。」
つまりお祝いを持ってこいということなのだ。
その時有り合わせの、なけなしのお金で表参道の小じゃれた雑貨店で、
マグカップと皿のセットを購入した。
伊藤さんが一人暮らしをはじめたというアパートへ行くのだ。
一人暮らしの女の子の家へ行くといってもボクと伊藤さんは色っぽい関係ではない。
高校時代の先輩と後輩という関係だけだ。
なぜかそのまま付き合いがあって現在に至っている。
くどいようだが彼氏彼女という関係になったことはない。
それどころかめったに会うこともない。
伊藤さんはふと忘れた頃にいつも電話をかけてくる。
「どこかへ遊びにつれてってくださいよ。」
何の前触れもなしに電話をいきなりかけてくる。
腹の立つことにまるで僕が断ることなどありえないように、
さも至極当然のように電話をかけてくる。
もっと腹立たしいことはボクが電話をかけた場合はいつも捕まらないときが多いことだ。
携帯電話にかけているのにだ。
それに引き替え伊藤さんはいつも好きなときに電話をかけてくる。
気が向けば毎日でもだ。
そして気がつくと突然電話をかけてこなくなり、しばらくはそれっきりだ。
いったい伊藤さんはなんなのだろう？
連絡が取れないのでそのまま一年ぐらいご無沙汰でいるとまた電話がかかってきたりする。
こんな調子でいったい何年が過ぎたのだろう。
二人は前進することもなく後退することもなく、
いつも同じ距離を離れたまま同じ距離に近づいたまま、
今日まで緩い時間の流れの中に身を置いてきた。
「で、お前はどうしたいんだね？」
友人が僕と伊藤さんの様子を知ったある日のことだった。
正直なところ、ボクは友人に聞かれるまで伊藤さんのことを、
深く考えたコトなど無かったのだ。
「どう、っていわれてもなあ。」
「つきあってるわけでもないのに二人で遊びにいたっりしてるんだろ？
そんな調子で何年も過ぎてるなんておかしいよ。
ずっと二人とも他に彼女も彼氏も作ったりしていないみたいだし。」
「いやいや、正直なところ深く考えたコトはなかったね。
伊藤さんも何考えてるかわからないし。
突然遊びに行こうって誘われたかと思うと、
その後ちっとも連絡が取れなかったりするし。」
「そりゃ、お前のこと怒ってるんだろ。」
「え？なんで？怒るんだよ？」
「せっかく遊びに行こうって誘ってるのに、
その後お前がはっきり意思表示しないものだからさ。
遊びに行こうって誘って後はお前がどうするか待ってるんじゃないのか？」
「・・・・・僕を ・・・・・待ってる？」
男の思考能力なんて単純なモノである。
この会話以来、ボクが伊藤さんを見る目が少し変わってしまった。
頭の中に疑問符を浮かべながら伊藤さんを見るようになってしまったのだ。
本当に、本当に僕のことを待っているのだろうか？
だとしたら僕はどうしたらいいのだろう？
どうしたらこうしたらもない。
どんな形にせよ一歩踏み込んでみればいい。
そうすれば何かわかる。
いや、その前にボクは伊藤さんのことをどう思っているのだろう？
もし一歩踏み込んでみた場合、ボクと伊藤さんの関係は今までとは違うモノになるだろう。
二人は恋人同士ということになるかもしれないし、
もう二度と会うこともなくなるかもしれない。
二人の関係が終わる可能性を考えたとき僕は愕然とした。
そんなことは考えられない。
僕は伊藤さんを失う、例え今のようなはっきりしない薄い曖昧な関係だとしても、
伊藤さんを失ってしまうという可能性に恐怖すら感じた。
「お客さーん、またさっきと同じところへ来ましたよ。」
タクシーの運転手の声ではっとボクは再び我に返った。
この交差点を左に曲がれば伊藤さんのアパートは目の前だ。
もう何度目だろうか。
「右へお願いします。」
「またですかあ？」
「すいません、ちょっと考えがまとまらないもんですから。」
どのみちボクと伊藤さんは今のようなおかしな関係を続けていくことはできないだろう。
そしてボクは例えどんな薄い曖昧な関係だとしても、
伊藤さんを失ってしまうという可能性に恐怖すら感じた。
ボクは認めなくてはいけない。
伊藤さんのコトを好きだということを。
「お前がどうするか待ってるんじゃないのか？」
友人はそういったが本当にそうなんだろうか？
考えるほどに怖くなる。
一歩踏み込んでみたものの全くの見当違いだったらどうしたらいい？
「失うことをおそれていては手に入らない。」
そんなことはわかっている。
ただひたすら失ってしまうことが怖いのだ。
「今のままで十分楽しいじゃないか。」
そんな考えが頭の中にあふれてくる。
笑っている彼女が好きだ。
その笑っている彼女を見ているのが好きだ。
そしてなにより彼女と過ごす時間が好きだ。
その時間を失うかもしれない。
「お前がどうするか待ってるんじゃないのか？」
僕はどうしたらいいんだ？
時間が流れる中で、きっとボクと伊藤さんは、
ずっとどこへむかわずに長くいすぎたのだ。
でもいつかそれは終わる時間だ。
そしてやはりボクは新しい時間の流れへ向かわなくてはならないのだろう。
ボクは決心しなくてはならない。
ふと顔を上げるとまたあの交差点が近づいてきている。
「えーっと、また同じとこに来たんですけどね。どうします？」
運転手が半ばあきれ顔で尋ねた。
「・・・・・左へ、お願いします。」
「はいー。」
運転手は少し驚いたような返事でタクシーを左へ向けた。
僕は今、心を決めたのだ。
今から伊藤さんにあって、失うコトはすごく怖いけれど一歩踏み出すのだ。
たった今まで決心がつかずタクシーを同じ道を何度も走らせていたように、
ボクは無駄な時間を今までグルグルと走ってきた。
でもそれももう終わりだ。
はっきり伊藤さんに伝えるんだ、
僕がどうしたいのかを。
ずっと僕のそばにいてほしいのだと。
伊藤さんのアパートの前でタクシーを止めた。
運転手はボクの様子を見て
「なんだよくわからないけど、お客さん今から一勝負なんだね？」
と声をかけてきた。
「ええ、まあそうです。」
「がんばってね。」
なぜだか励ましてくれた。
「ありがとう。」
ボクはそういってアパートの方を見た。
伊藤さんの部屋は３階だ。
ボクは緊張しながら階段を上った。
ボクは伊藤さんの部屋の前に立ち、深く一呼吸してから呼び鈴を押した。
「あ、いらっしゃい。久しぶりですね。」
ドアを少し開けて伊藤さんが顔をのぞかせた。
彼女はいつもと変わらない様子だったが、
少しだけその顔がいつもよりまぶしく見えた。
僕はもう一度深呼吸した。
「あのさ。」
「はい？」
「来たばっかりでいきなりなんだけど、すぐにでも話したいことがあるんだ。」
「何でしょう？」
「久しぶりに顔を合わせていきなりなんだけど」
ボクはなけなしの根性を絞り出して伊藤さんをまっすぐに見つめた。
伊藤さんはそんなボクの様子を見て少しあらたまったような表情になり、
ボクをジッと見つめ返した。
「お願いがあるんだ。」
「はい。なんでしょう？」
「お金貸してくれない？」
「はい？」
「えっと。。。」
「なんでしょう？」
「どうやったらここへ来るのにタクシー代が￥20,000もかかるんですか？」
僕は深いため息をつきながら答えた。
「その理由は、死んでも君にだけは言えない。」
そしていつもと同じ、緩い時間が流れた。