主観を客観に変えましょう | 介護職員の本音 「認知症介護を楽しく乗り切ろう」

介護職員の本音 「認知症介護を楽しく乗り切ろう」

世間の介護事情や認知症介護についてあれこれ言いあう場。政府だけに頼らず手っ取り早く現場を変えられるのは介護職員です。

押しつけ介護と野放し介護…どっちの介護が幸せなのか?


いい老人ホームだと近所で評判だったのに、入居したら酷い目に遭った――。老人ホーム選びでは口コミがまるで頼りにならないのはなぜか。それは、そのホームに合うか合わないかは人によって全く違うから。

夜はゆっくり寝かせることが正しいのか?
老人ホームの夜勤者の主な仕事は、「ラウンド」と言われる安否確認のための居室巡回と、寝たきりの高齢者等に対する排泄介助です。中でも、深夜の排泄介助は、介護職員によって考え方、対応の仕方に違いが生じてくるところです。
A職員は、深夜0時に最終排泄を実施し、そこで夜用の大容量の吸収シート付きのオムツを装着させます。そのため、朝の5時までは排泄介助に入ることはなくラウンドだけ実施すればよいので、朝まで入居者はぐっすり熟睡することができます。
B職員は、いくら大容量の吸収シートがあるとはいえ、排泄をしたまま数時間放置することはけっして良いことではないので、深夜といえども3時間おきに排泄介助に入ることが正しい介護サービスだと考えています。当然、排泄介助時には、ほとんどの入居者は起きてしまいますが、それは仕方がないことだと割り切っています。

深夜の排泄介助は、介護職員によって考え方、対応の仕方に違いが生じてくる。
読者の皆さんは、いったいどちらの介護サービスをご希望でしょうか? 老人ホームの実態がわかっている読者にとっては、この選択肢は実に悩ましい限りだと思えます。
いくら夜用のオムツが大量の尿を吸収できる機能を備えているとはいえ、本人にとっては不快であることに変わりはありません。大容量の尿を吸収するといっても、それは単に外には漏れない、というだけです。つまり、布団が「汚れない」というだけの話なのです。しかし、排泄介助を実施すれば入居者は間違いなく目を覚まし、そして一度目を覚ました入居者は、場合によると朝まで寝ることができなくなるケースも散見されます。
余談ですが、「寝る」という行為には体力が必要なので、体力の無い高齢者の場合、一度目を覚ますとなかなか寝つくことができません。結果、体調不良の原因になってしまうこともしばしばです。夜、十分に寝ることができない入居者は昼間帯で寝てしまうので、昼夜逆転の生活になってしまい、健康を害してしまう恐れも高まります。
安眠を優先して朝までぐっすりか、常に快適さを追求し3時間おきの定時排泄で快適な眠りの環境維持を守るか。いったいどちらの方法が、入居者にとって最善なのでしょうか。
私自身にも、どちらが良いのかという明確な回答は、実はありません。意地悪な表現をすれば、3時間おきの定時排泄介助で快適な眠りの提供を目指す場合、自分は「頑張っている介護職員である」という自己満足がほしいだけなのでは?とも思えてきます。
逆に、朝までおむつ交換をしないことで「睡眠妨害をしない」という場合、介護職員の職務怠慢なのでは?と言いたくなる気持ちもあります。はたして、どちらが正しい介護なのか?
私は介護サービスのことを考えた場合、行動はどうあれ、目の前の入居者に思いを寄せて、「相手のことを考える時間を持つこと」「相手のためにどうすればよいのか、悩む時間を持つこと」が一番のサービスなのでは、と考えています。
あなたは、自分が寝たきりになった場合、いったいどちらの選択肢を選ぶのでしょうか?
食事は自力で? それとも楽なやり方で?
皆さんは食事について、どう考えていますか? たとえば、手に麻痺があり、上手に食事をとることができない入居者には食事介助を行ない、安楽に食べさせてあげたいと思うでしょうか?たしかに、安楽に食べさせてあげることに対し、否定的なことを言う人はいないと思います。しかし、介護には「笑顔で首を絞めて殺す」という言葉があります。これは、介護の必要な高齢者に対し、何でもかんでもやってあげるという行為は、本人のためにはならない、ということを示している言葉です。
食事のケースでも、時間に制約が無いのであれば、そして本人の意思が自力摂取を望んでいるのであれば、どのような食べ方であっても自力で食べるということが尊重されなければなりません。

手を貸すという行為は、一見、親切なように見えますが、実は本人に残された残存機能の消滅に手を貸す悪魔の行為、という解釈もできるのです。
逆に、常時介護職員がいるのだから、食事は楽に取りたい、取らせてあげたい、と考えることも当たり前の欲求です。
つまり、食事一つをとっても、手伝う流派と手伝わない流派に分かれ、そして、その流派の下で介護方針が決まっていくというのが、老人ホームの介護サービスなのです。
皆さんは、もし自分がそのような立場になった時には、介助を受けて食べさせてもらいたいでしょうか?それとも、どのような無様な格好になったとしても自力で食べることを選ぶでしょうか?
その昔、アメリカの介護施設(ナーシングホーム)に行った時の話です。その施設は広大な敷地に自立している高齢者用シニア住宅からターミナルケアを専門に行なうナーシングホームまで、さまざまな状態に対応する施設が並んで建っていました。その中の一つの施設で昼食時に私が見た光景は、次のようなものでした。手の悪い高齢の男性が、スプーンを使わず手づかみで食事をしていました。手が不自由なため、スプーンが上手く使えず、手づかみで食べていたのです。その食事のありさまは、私にとって衝撃的でした。
テーブルいっぱいに食べ物をこぼし、ゼイゼイと肩で息をし、必死の形相で食事をしています。私は、近くにいたホームのスタッフに「なぜ、職員は彼の食事介助をしないのか」と尋ねたところ、その職員はこう答えました。
「このホームは、身の回りのことをすべて自分一人でできる人専用のホームです。食事介助が必要な場合は、隣りの介護用ホームに移ってもらう決まりになっています。が、彼はそれを拒否しています。したがって、彼がこのホームにいるためには、身の回りのことをすべて自分でやらなければなりません」
この話を聞いて、ひどい話だ、残酷だ、と考える方も多くいると思います。しかし、これは当の本人の希望であり、本人が望んで行なっていることなのです。
食事介助で介護の本質に触れることができる
話が少しそれますが、お正月に箱根駅伝を見ていると、たまに脱水症状などのハプニングで選手の足が止まり、見るからに身体に異変が生じているのを目撃することがあります。遠くからじわりじわりと、監督やコーチが選手に近づいていきます。しかし、選手は手を貸さないでほしいという素振りを見せ、監督やコーチも選手の状況を見極めながら慎重に選手との距離を縮めていきます。これは、選手の身体に監督たちが触れた場合、その選手は棄権になり、チームのレースが終わってしまうからにほかなりません。
その後の選手の気持ちや人生を考えた場合、教育者でもある監督は、おいそれと棄権させるわけにはいかないという思いがあります。その一方で、無理をさせて万一のことがあってはならない、という気持ちもあります。それらの気持ちの〝せめぎあい〟の中で、どう動いたらいいか、自ら瞬時に決断をしているのです。その監督の気持ちがテレビ越しにも伝わってくる気がします。だから、その決断は正しいと、われわれは信じて疑う余地がないのだと思います。
食事は職員に介助してもらいながら安楽に食べる。いやそうではなく、私は指の先が動かなくなるまで、どんなに無様な格好でも自力で食べたい。いったいどちらが正しいのでしょうか?実は、私にもわかりません。
私は食事の介助を介護現場でしたことは多々ありますが、自分の食事を人に介助してもらったことは、成人になってからは一度もありません。
そこで私が言えることは一つ。介護職員にとって、高齢者の食事介助をするということは、その人の命を支配するということです。それは多くの介護職員にとって実に神聖なものであり、慈しみの気持ちが湧き出てくる素晴らしい業務だと思っています。
介護職員の多くは、食事介助という業務を通して、介護の本質に触れることができます。その時、今自分は、目の前にいる高齢者の命を預かっているのだと、感じるのです。
無防備で、職員の介助に従って、口から喉を通して胃袋に食物を流し込んでいるだけの高齢者が、そこにはいるのです。その様子を見ながら、今日の自分の行動を反省し、明日の自分の介護に対する気持ちを整理すること。介護職員にとって、食事介助という素晴らしい仕事を神様は用意してくれたのだと、思っています。
これを機会に、読者の皆さんも、ご自身や両親などの介護方針について、考える時間をぜひ持ってほしいと思います。



ネットニュース一部抜粋





この手の話題は時々どこの職場でも話に上がるのではないでしょうか……………



私もこのことについては深く考えさせられることがあります。



また介護には答えが無いと言いますが、私は時々これについても疑問を持ちます。


介護保険法には…
尊厳を保持し、その能力、適正に応じた自立した生活を営めるように、常にその人の立場になって誠実に業務に


いわゆるこれらが答えになるわけですよね。



そしてブレてはならない尊厳の保持と自立した生活が営めるということなどは誰にでも共通している訳です。
あとは我々介護職が考えるところは、能力や適性をどう判断するかです。

それはケアマネをはじめとする専門職がアセスメントやカンファレンスを通じて、その人にあった介護を話し合うことで答えが成立するのではないでしょうか。






けして1人の職員の主観だけで答えが何なのかを出してはいけない。


確かに利用者一人ひとりの答えは異なりますが、誰でも共通している答えは尊厳の保持と自立した生活です。
そこへ向かうための計画書と言えるものがケアプランであり各専門職とのチームケアなんだと思います。


各介護職員の思いは様々です。
自分だけの主観だけで終わらせるのではなく、一人の主観をみんなで話し合えることで客観的となり、自立と尊厳を目指した介護に向かうことができるのではないのかなぁと思っています。



答えに到達する道は一つではありませんが、最終的に到達する答えはひとつです。

尊厳と自立。



これは政府が掲げた答えですが、今の日本の介護はこれに向かって行くしかないんでしょうね〜。
これを乱すと滅茶苦茶な介護になってしまいますから。