久々にしっかりと雑記を書いてみたいところ。
**********
本の話。
『夜は短し 歩けよ乙女』と『それからはスープのことばかり考えて暮らした』の文庫版を買う。どちらも出来れば常に携帯できる状態が望ましいと思っていた小説なので、ようやく。
そしてまた、吉田篤弘さんの『圏外へ』を読んでいる。随分と長くて分厚い小説なのだけれど、これは完全に良い小説とは言えないと思う。まだ途中だからなんとも言えないけど。最近の吉田さんの小説は、いささか狙いすぎていると同時に、村上春樹が行っている「同じ章内での人称や主の変化」というものをやろうとしすぎて、美しい形にも効果的な形にも出来ていない。
正直なところ、吉田さんの小説は初期から前作までが素晴らしかった、としか僕も表現のしようがない。これはつまり、悲しいことだけれど起こるべきことだ。そしてまた、そこから次にまた変化が訪れ、更なる輝きを見せるのかもしれない。
それは分からないことだけれど、期待と不安が入り混じるようなニュアンスになる。
ところで、本という存在を真剣に考える。
それは僕が昨日、某ブックディレクター(つーか、今ブックディレクターと名乗れる人って2、3人くらいしかいないんだけど)とお会いして、話を出来たからだ。
彼はもの凄く真剣に、本を愛していて、それは文章そのものというよりも「本そのもの」を愛していた。つまり、内容が良いとか悪いとかしっかりしているとか乱雑だとかそういうことではなく、あらゆるジャンルとあらゆるシステムの本、つまりは文字や写真や何かが印刷された紙の集合体を愛していた。
それらにもっと力があることを、影響力があることを、魅力があることを、総てが備わることを、そして何より愉しみが溢れていることをもっと広めたい、と考えていた。
なんて素敵なことなんだろう、と思う。僕もずっとそういうことを考えている。それが本であれ音楽であれ、洋服であれ。
その本の部分をこの方が見事に担ってくれている。そして次のムーブも起こすべき力も感覚も、感情も持っている。あまりにも素敵だった。
だから、僕ももっと本に触れようと思う。また、僕が創る空間には、やはり本を見繕おうと思う。
そしてそれを、周りのどんな皆にも同じように願う。
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酒の話。
ビールも好きだし、結局ワインもドンドン飲めるようになった。むしろ美味しく感じる。
でも思うのは。
酒ってのはやっぱり、そのものだけで何かが素晴らしいものでは正直ないと思う。酒を飲む場所、時間、そして人。
それらが揃ったときに美味しいわけであり、何もないところでふと酒をかっくらっても何の感慨もない。
もう一つの機能が、人を繋ぐ役割を持つ。
つまり必要な要素の「人」の部分を、酒があることにより成立たせることが出来る。
無論、毎度毎度ということではなくとも、そういうこともある。
昨日、今日は飲んだなぁ…ビール2本、ワイン1本、さらに梅酒もあけてたもんな。
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器の話。
桃居にて、坂野さんの展示を見る。白金や真鍮の叩きだしや、銅叩きだしに銀メッキなど、様々な種類の器やカトラリーを並べる。
格好いい、と思う。現実の使い勝手はともかくとして、格好がいい。
ところで思うのは。
使いやすさと美しさ。
実用美や機能美といった言葉で分かるように、実用に優れ機能的に充実したデザインが美しさをかもし出したり、あるいは表層的な美しさを求めた形作りの結果により、以外な実用性や機能性を得ることはあると思う。
もちろん、それにこしたことはないと思うのだけれど、それでは逆に同居しないものが格好よくないのか、ということになるとまた話は別だ。
つまり、良いモノというのは。
そのモノを見て、あるいは使って、「何か誇るべき点や感動を呼ぶポイント」があれば良いのだ。たとえばそれが実用性はゼロに等しい器であろうと表層的な形がグゥの音も出ないほどに綺麗だったり精巧に出来ていたり、あるいは素材が特殊だったり構造が素晴らしかったら、それは良いモノなのだ。使えなくても。
それと同時に、見た目の美しさは全く感じられず、作りもアラはあるし素材もありがちだし、構造も一朝一夕で考えたようなものとしても、むしろそれが従来の考え方以上に実用性に溢れているとすれば、それはそれで良いモノだと思う。
良いモノを求めると、両方が同居することは確かにままある。むしろそれが望ましいとも言える。でも、どちらか片方だけで確かな魅力を発揮するモノもある。
しかしながら、その良さというのはしばしば理解をされない。
価値観とは、そういうものなのかもしれない。
**********
買ったモノ①
写真を撮るのも毎度毎度アレというのもあり、少しスタイルを変えてみようと思う。こうして買ったモノや気になるモノは明記していき、何かこう衝動やきっかけがあれば、そのモノについて写真付きで記事にしようと思う。というのも、今はモノを整理していて、例の300ほどにモノを纏めて一つのブログにしてみようと思うからだ。
「開化堂の茶筒」
ようやく、と言ってもいいかもしれない。ずっと買うべきで家にあるべきだったモノ。ブリキ、銅、真鍮、銀とあるが迷わず銅をチョイス。
ここの茶筒は表面の作りの細部はまだ粗い面がある。溶接している部分も、もっと綺麗にする余地は確かにある。けれど。
本当に素晴らしい作りが中に秘められている。
蓋と筒。
位置を合わせて蓋を被せようものなら。
あとは無理に締める必要などない。勝手に、ゆっくりと蓋が落ちていき、スゥっと音がなるかのように蓋が締まる。
その動きの美しさや静けさたるや。他の茶筒ではまず、そうそうできるものでもない。これが、昔からの茶筒のあるべき姿なのだ。
そして銅の変化。この味わいを愉しまずして、どうするか。
定番にすべき、茶筒。
茶・銀座のお茶の茶筒も同じように締まるけれど、重みが。
**********
買ったモノ②
「エリック・ホグランのガラスマグ」
吹きガラスというのも、昔は当たり前であったモノで、一時姿を潜め、現代になると伝統技能として注目されつつ、ある意味ではまた名前がよく出るようになった。
エリック・ホグランのマグは暖かい。ガラスが暖かい、などというのは文学的表現から言えば遠く間違っているようにも思う。けれど、確かに暖かい。
丸みを帯びたフォルムが、絶妙なくびれが、不器用な想いを込めた様な厚さが、そしてガラスという言葉がそのまま具現化したような青みがかった色が。
総てが暖かい。
そういうガラスは、実はそんなに多くない。
**********
買ったモノ③
「4th MARKETのストライプマグ」
きっと4th MARKETという存在は。
現代では必然とも言える形で生まれ、愛されるのだと思う。
それは言うなればTIME&STYLEやh+やSゝゝや、そんな具合に正しく無理の無い、現実的な美しさのあり方として存在する。
誰もが気兼ねなく。誰もが愉しく。誰もがゆるやかに、様々なモノを愛すために。
きっとある種の思想の下、作り出すのだと思う。
僕はそういう存在を、信じたい。
**********
買ったモノ④
「辻 和美さんのめんちょこ」
一昨年、金沢を訪れる本当の理由は、辻さんにお会いしたいがためだった。けれどお店はお休みだったため、泣く泣く帰ってきたわけだ。
ようやく一方的にではあれど対面することができ、彼女のガラスに対する姿勢や考え方を知った。全くもって、思っていた通りに良い考え方をしている方だった。
彼女のガラスは、個性的とも言えないかもしれない。そして、何が高いのかと言われると理由を見つけづらいところもある。
つまり、彼女の思想ややり方を、愛せるかどうかということだ。
彼女が「透明だ」というガラスは、本当に、確かに、紛れもなく。
透明なのだ。
**********
買ったモノ⑤
「赤木 明登さんの漆椀」
赤木さんは塗師だ。輪島は京と違い分業体制をしっかりと敷いているので、ろくろを回し木地を生み出す人と漆を塗る人は別になる。
もちろんそこには「こういう木地が」という考え方や「こんな塗りのために」という意志があり、その中で人々が手を取り合い、モノを生み出す。
赤木さんは塗師だが、プロデューサーであると僕は思う。
はっきり言って、彼の塗りそのものや、テクスチャーの出し方は好きではない。個人的な好みでいえば。
しかしながら、好みは関係ない次元の部分で、彼の生み出す器(あるいは彼の関わりで生み出される何か)は良いモノであり、忘れることの出来ないモノなのだ。
赤木さんの心の中は、本当に本当に、人間的だ。
**********
買ったモノ⑥
「鯉江 明さんの湯のみ」
親が陶芸の実力者であり、権威者であるというのは、一体どういう感覚なのだろう。
その中で自分も陶芸を志し、モノを生み出しいくのはどういう感覚なのだろう。
越える、という考えが正しいかは僕は知らない。
けれど明さんは。
彼らしいあり方をはっきりと提示し、また次々と模索しているように思う。
そういうことだ。
**********
買ったモノ⑦
「森岡 由利子さんの白磁」
かつて白磁というものは、その余りの白さが故、高貴な人間しか用いることが出来なかった。
磁石の生み出す、白。それはいつしか生活に溶け込み、純然たる美を現そうとする。
そこには凝りに凝った形は必要ない、とよく言うが。
そこに凝りに凝った形を加えることにより、新たな価値感が生まれることもある。
どんなに伝統と言われようが、人間が生み出したものだ。
DNAで確かに受け継がれている我々の中には、さらなる発展をさせる力が備わっている。
**********
買ったモノ⑧
「仁城さんの入れ子椀」
高いか安いか。いや、相対的に見れば高いのかもしれない。けれど、絶対的に見れば安いかもしれない。
原価、という言葉を今は一般人も平気で使い、「こんなもん原価はたかが知れてるんだよ」と知ったかぶりで物事を振り回す人間も増えてきた。
原価とは何を指すのか、もっと理解を深めるべきだと思う。
多くの人が指す原価は「原材料費」であって、そこに積み重なる人件費やデザインや企画による費用や、あらゆる費用を無視している。
仁城さんの入れ子椀は、木地からしても超高級な良い部分だけ、というものではない。つまり、原材料が恐ろしく高いわけではない。
でも彼のコンセプト、彼の漆に対する考え方、それを具現化する能力、また彼の生活とこちらの生活に与えうる形にならない幸せ。
そういったものを総合しての原価、いや価値を考えると、決して高いものであろうか。
あろうか?
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買ったモノ⑨
「ラオスの手漉き和紙」
再生紙は綺麗だと思う。現代の紙はすごく質もよく、丁寧な紙だと思う。
そうでない紙にあるのはきっと。
ぬくもりではないか、と僕は思う。
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買ったモノ⑩
「ボタンとリボン」
サブカルチャー、という言葉が嫌いだ。いつからそんな風に、あたかも現代風解釈の古典文化のようなモノを括ってしまうようになったのだろう。
僕は文化の中にレベルの違いがあるとは思わない。
音楽も文学も服飾も陶芸も書も時計も車も…あらゆる文化は等しく偉大であると思う。
ボタンとリボンは、フラットだ。
疲れない、文章の形。
**********
まだあるけれど、こんなとこにして、次は。
気になるモノ①
「イッタラ・キルタホワイト」
イッタラのティーマが全く好きになれない。でもキルタは愛らしく感じる。それはきっと時代を超えた空気なのかもしれない。
あるいは、サイズとディテールの間隔だけでこうも変わるのか。
キルタホワイトは、日常の到達点の一つでもある。
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気になるモノ②
「アラビア・ライス」
北欧は確かに素晴らしいと思うけれど、日本の技術が北欧に影響をもたらしていることも大いにあるのだ。
ライスは、美しさを求めると辿りつく場所のひとつ。
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気になるモノ③
「sisiiのレザーMA1」
レザージャケットというものを正直好むタイプではないけれど、このMA1タイプに関しては何とかしたいと思ってしまう。
なんだろう。
日常着としてのレザー。
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気になるモノ④
「ミシン」
うん十万するようなコンピュータミシンはいらないけれど、5万くらいの普通のミシンが欲しい。
モノを創りたいと考えた時に、すぐにミシンが取り出せない今の状況が、非常に息苦しい。
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一つ、一つ、モノをくみ上げて行く。
基本的に僕が買っているモノというのは、背伸びもしないし、無理もしない。
つまり、現実的に普通の人が買えるもので、そういう中で面白いモノを、と考えている。
例えばソニアのショッピングマニュアルは確かによく出来ているし、面白いし、現実的なモノもたくさん載ってはいるけれど。
どこか手の届かない感じもある。それが憧れにもなり、素晴らしさを与えているとも言えるけれど、ぼくがやりたいのはそういうことでもない。
例えば藤原ヒロシの本。これにいたってはもはや、単なるモノ自慢であって現実味や面白さなんて皆無に等しいと僕は思う。
例えば松浦弥太郎さんの日々の100。たぶんこういう類の中では現実味に溢れているとは思うけれど、幾分「ある種の男性的偏見」に満ちているようにも感じてしまう。
例えば雅姫さんの定番ノート。こちらは逆に女性的偏見に満ちているように感じる。
例えば……もういいか。
別にこういう本がどうこうというのではなく、どれも正直素敵だと思うし、だからこそ僕も買って読んでいるわけで。
でも、そういう感じではなくて、もっとフラットにというか。
男性的な面も女性的な面も持ちつつ、より現実的なモノの集まりがあると凄く便利で、凄く面白いんじゃないか、と思った。
マニアックに偏るでもなく、憧れに偏るでもなく、メジャーに偏るでもなく、ただひたすらにモノが好きなことに特化する。
そんな風にモノを集めて見れたら。
ある意味では「ミーハー」とも取れるし「目新しさがない」とも取れるけれど。いざ、「さぁ、~を買おうか」となったときに。
例えば、良い靴が欲しいと思ったときに。良い鞄が欲しいと思ったときに。良いシャツが欲しいと思ったときに。良い雑貨が欲しいと思ったときに。
そんな時のより場となるような集合群を作ってみたい。
そういうこと。
5月くらいには、ガシガシと作り始めると思いますが。
ブログを作って公開して、出来れば違う媒体にしてみたいとも思う。無理な話だとは思うけれど、やってみなけりゃわからない。
選定、筆記。
あと、和歌集ね。 arlequin
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本の話。
『夜は短し 歩けよ乙女』と『それからはスープのことばかり考えて暮らした』の文庫版を買う。どちらも出来れば常に携帯できる状態が望ましいと思っていた小説なので、ようやく。
そしてまた、吉田篤弘さんの『圏外へ』を読んでいる。随分と長くて分厚い小説なのだけれど、これは完全に良い小説とは言えないと思う。まだ途中だからなんとも言えないけど。最近の吉田さんの小説は、いささか狙いすぎていると同時に、村上春樹が行っている「同じ章内での人称や主の変化」というものをやろうとしすぎて、美しい形にも効果的な形にも出来ていない。
正直なところ、吉田さんの小説は初期から前作までが素晴らしかった、としか僕も表現のしようがない。これはつまり、悲しいことだけれど起こるべきことだ。そしてまた、そこから次にまた変化が訪れ、更なる輝きを見せるのかもしれない。
それは分からないことだけれど、期待と不安が入り混じるようなニュアンスになる。
ところで、本という存在を真剣に考える。
それは僕が昨日、某ブックディレクター(つーか、今ブックディレクターと名乗れる人って2、3人くらいしかいないんだけど)とお会いして、話を出来たからだ。
彼はもの凄く真剣に、本を愛していて、それは文章そのものというよりも「本そのもの」を愛していた。つまり、内容が良いとか悪いとかしっかりしているとか乱雑だとかそういうことではなく、あらゆるジャンルとあらゆるシステムの本、つまりは文字や写真や何かが印刷された紙の集合体を愛していた。
それらにもっと力があることを、影響力があることを、魅力があることを、総てが備わることを、そして何より愉しみが溢れていることをもっと広めたい、と考えていた。
なんて素敵なことなんだろう、と思う。僕もずっとそういうことを考えている。それが本であれ音楽であれ、洋服であれ。
その本の部分をこの方が見事に担ってくれている。そして次のムーブも起こすべき力も感覚も、感情も持っている。あまりにも素敵だった。
だから、僕ももっと本に触れようと思う。また、僕が創る空間には、やはり本を見繕おうと思う。
そしてそれを、周りのどんな皆にも同じように願う。
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酒の話。
ビールも好きだし、結局ワインもドンドン飲めるようになった。むしろ美味しく感じる。
でも思うのは。
酒ってのはやっぱり、そのものだけで何かが素晴らしいものでは正直ないと思う。酒を飲む場所、時間、そして人。
それらが揃ったときに美味しいわけであり、何もないところでふと酒をかっくらっても何の感慨もない。
もう一つの機能が、人を繋ぐ役割を持つ。
つまり必要な要素の「人」の部分を、酒があることにより成立たせることが出来る。
無論、毎度毎度ということではなくとも、そういうこともある。
昨日、今日は飲んだなぁ…ビール2本、ワイン1本、さらに梅酒もあけてたもんな。
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器の話。
桃居にて、坂野さんの展示を見る。白金や真鍮の叩きだしや、銅叩きだしに銀メッキなど、様々な種類の器やカトラリーを並べる。
格好いい、と思う。現実の使い勝手はともかくとして、格好がいい。
ところで思うのは。
使いやすさと美しさ。
実用美や機能美といった言葉で分かるように、実用に優れ機能的に充実したデザインが美しさをかもし出したり、あるいは表層的な美しさを求めた形作りの結果により、以外な実用性や機能性を得ることはあると思う。
もちろん、それにこしたことはないと思うのだけれど、それでは逆に同居しないものが格好よくないのか、ということになるとまた話は別だ。
つまり、良いモノというのは。
そのモノを見て、あるいは使って、「何か誇るべき点や感動を呼ぶポイント」があれば良いのだ。たとえばそれが実用性はゼロに等しい器であろうと表層的な形がグゥの音も出ないほどに綺麗だったり精巧に出来ていたり、あるいは素材が特殊だったり構造が素晴らしかったら、それは良いモノなのだ。使えなくても。
それと同時に、見た目の美しさは全く感じられず、作りもアラはあるし素材もありがちだし、構造も一朝一夕で考えたようなものとしても、むしろそれが従来の考え方以上に実用性に溢れているとすれば、それはそれで良いモノだと思う。
良いモノを求めると、両方が同居することは確かにままある。むしろそれが望ましいとも言える。でも、どちらか片方だけで確かな魅力を発揮するモノもある。
しかしながら、その良さというのはしばしば理解をされない。
価値観とは、そういうものなのかもしれない。
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買ったモノ①
写真を撮るのも毎度毎度アレというのもあり、少しスタイルを変えてみようと思う。こうして買ったモノや気になるモノは明記していき、何かこう衝動やきっかけがあれば、そのモノについて写真付きで記事にしようと思う。というのも、今はモノを整理していて、例の300ほどにモノを纏めて一つのブログにしてみようと思うからだ。
「開化堂の茶筒」
ようやく、と言ってもいいかもしれない。ずっと買うべきで家にあるべきだったモノ。ブリキ、銅、真鍮、銀とあるが迷わず銅をチョイス。
ここの茶筒は表面の作りの細部はまだ粗い面がある。溶接している部分も、もっと綺麗にする余地は確かにある。けれど。
本当に素晴らしい作りが中に秘められている。
蓋と筒。
位置を合わせて蓋を被せようものなら。
あとは無理に締める必要などない。勝手に、ゆっくりと蓋が落ちていき、スゥっと音がなるかのように蓋が締まる。
その動きの美しさや静けさたるや。他の茶筒ではまず、そうそうできるものでもない。これが、昔からの茶筒のあるべき姿なのだ。
そして銅の変化。この味わいを愉しまずして、どうするか。
定番にすべき、茶筒。
茶・銀座のお茶の茶筒も同じように締まるけれど、重みが。
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買ったモノ②
「エリック・ホグランのガラスマグ」
吹きガラスというのも、昔は当たり前であったモノで、一時姿を潜め、現代になると伝統技能として注目されつつ、ある意味ではまた名前がよく出るようになった。
エリック・ホグランのマグは暖かい。ガラスが暖かい、などというのは文学的表現から言えば遠く間違っているようにも思う。けれど、確かに暖かい。
丸みを帯びたフォルムが、絶妙なくびれが、不器用な想いを込めた様な厚さが、そしてガラスという言葉がそのまま具現化したような青みがかった色が。
総てが暖かい。
そういうガラスは、実はそんなに多くない。
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買ったモノ③
「4th MARKETのストライプマグ」
きっと4th MARKETという存在は。
現代では必然とも言える形で生まれ、愛されるのだと思う。
それは言うなればTIME&STYLEやh+やSゝゝや、そんな具合に正しく無理の無い、現実的な美しさのあり方として存在する。
誰もが気兼ねなく。誰もが愉しく。誰もがゆるやかに、様々なモノを愛すために。
きっとある種の思想の下、作り出すのだと思う。
僕はそういう存在を、信じたい。
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買ったモノ④
「辻 和美さんのめんちょこ」
一昨年、金沢を訪れる本当の理由は、辻さんにお会いしたいがためだった。けれどお店はお休みだったため、泣く泣く帰ってきたわけだ。
ようやく一方的にではあれど対面することができ、彼女のガラスに対する姿勢や考え方を知った。全くもって、思っていた通りに良い考え方をしている方だった。
彼女のガラスは、個性的とも言えないかもしれない。そして、何が高いのかと言われると理由を見つけづらいところもある。
つまり、彼女の思想ややり方を、愛せるかどうかということだ。
彼女が「透明だ」というガラスは、本当に、確かに、紛れもなく。
透明なのだ。
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買ったモノ⑤
「赤木 明登さんの漆椀」
赤木さんは塗師だ。輪島は京と違い分業体制をしっかりと敷いているので、ろくろを回し木地を生み出す人と漆を塗る人は別になる。
もちろんそこには「こういう木地が」という考え方や「こんな塗りのために」という意志があり、その中で人々が手を取り合い、モノを生み出す。
赤木さんは塗師だが、プロデューサーであると僕は思う。
はっきり言って、彼の塗りそのものや、テクスチャーの出し方は好きではない。個人的な好みでいえば。
しかしながら、好みは関係ない次元の部分で、彼の生み出す器(あるいは彼の関わりで生み出される何か)は良いモノであり、忘れることの出来ないモノなのだ。
赤木さんの心の中は、本当に本当に、人間的だ。
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買ったモノ⑥
「鯉江 明さんの湯のみ」
親が陶芸の実力者であり、権威者であるというのは、一体どういう感覚なのだろう。
その中で自分も陶芸を志し、モノを生み出しいくのはどういう感覚なのだろう。
越える、という考えが正しいかは僕は知らない。
けれど明さんは。
彼らしいあり方をはっきりと提示し、また次々と模索しているように思う。
そういうことだ。
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買ったモノ⑦
「森岡 由利子さんの白磁」
かつて白磁というものは、その余りの白さが故、高貴な人間しか用いることが出来なかった。
磁石の生み出す、白。それはいつしか生活に溶け込み、純然たる美を現そうとする。
そこには凝りに凝った形は必要ない、とよく言うが。
そこに凝りに凝った形を加えることにより、新たな価値感が生まれることもある。
どんなに伝統と言われようが、人間が生み出したものだ。
DNAで確かに受け継がれている我々の中には、さらなる発展をさせる力が備わっている。
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買ったモノ⑧
「仁城さんの入れ子椀」
高いか安いか。いや、相対的に見れば高いのかもしれない。けれど、絶対的に見れば安いかもしれない。
原価、という言葉を今は一般人も平気で使い、「こんなもん原価はたかが知れてるんだよ」と知ったかぶりで物事を振り回す人間も増えてきた。
原価とは何を指すのか、もっと理解を深めるべきだと思う。
多くの人が指す原価は「原材料費」であって、そこに積み重なる人件費やデザインや企画による費用や、あらゆる費用を無視している。
仁城さんの入れ子椀は、木地からしても超高級な良い部分だけ、というものではない。つまり、原材料が恐ろしく高いわけではない。
でも彼のコンセプト、彼の漆に対する考え方、それを具現化する能力、また彼の生活とこちらの生活に与えうる形にならない幸せ。
そういったものを総合しての原価、いや価値を考えると、決して高いものであろうか。
あろうか?
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買ったモノ⑨
「ラオスの手漉き和紙」
再生紙は綺麗だと思う。現代の紙はすごく質もよく、丁寧な紙だと思う。
そうでない紙にあるのはきっと。
ぬくもりではないか、と僕は思う。
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買ったモノ⑩
「ボタンとリボン」
サブカルチャー、という言葉が嫌いだ。いつからそんな風に、あたかも現代風解釈の古典文化のようなモノを括ってしまうようになったのだろう。
僕は文化の中にレベルの違いがあるとは思わない。
音楽も文学も服飾も陶芸も書も時計も車も…あらゆる文化は等しく偉大であると思う。
ボタンとリボンは、フラットだ。
疲れない、文章の形。
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まだあるけれど、こんなとこにして、次は。
気になるモノ①
「イッタラ・キルタホワイト」
イッタラのティーマが全く好きになれない。でもキルタは愛らしく感じる。それはきっと時代を超えた空気なのかもしれない。
あるいは、サイズとディテールの間隔だけでこうも変わるのか。
キルタホワイトは、日常の到達点の一つでもある。
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気になるモノ②
「アラビア・ライス」
北欧は確かに素晴らしいと思うけれど、日本の技術が北欧に影響をもたらしていることも大いにあるのだ。
ライスは、美しさを求めると辿りつく場所のひとつ。
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気になるモノ③
「sisiiのレザーMA1」
レザージャケットというものを正直好むタイプではないけれど、このMA1タイプに関しては何とかしたいと思ってしまう。
なんだろう。
日常着としてのレザー。
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気になるモノ④
「ミシン」
うん十万するようなコンピュータミシンはいらないけれど、5万くらいの普通のミシンが欲しい。
モノを創りたいと考えた時に、すぐにミシンが取り出せない今の状況が、非常に息苦しい。
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一つ、一つ、モノをくみ上げて行く。
基本的に僕が買っているモノというのは、背伸びもしないし、無理もしない。
つまり、現実的に普通の人が買えるもので、そういう中で面白いモノを、と考えている。
例えばソニアのショッピングマニュアルは確かによく出来ているし、面白いし、現実的なモノもたくさん載ってはいるけれど。
どこか手の届かない感じもある。それが憧れにもなり、素晴らしさを与えているとも言えるけれど、ぼくがやりたいのはそういうことでもない。
例えば藤原ヒロシの本。これにいたってはもはや、単なるモノ自慢であって現実味や面白さなんて皆無に等しいと僕は思う。
例えば松浦弥太郎さんの日々の100。たぶんこういう類の中では現実味に溢れているとは思うけれど、幾分「ある種の男性的偏見」に満ちているようにも感じてしまう。
例えば雅姫さんの定番ノート。こちらは逆に女性的偏見に満ちているように感じる。
例えば……もういいか。
別にこういう本がどうこうというのではなく、どれも正直素敵だと思うし、だからこそ僕も買って読んでいるわけで。
でも、そういう感じではなくて、もっとフラットにというか。
男性的な面も女性的な面も持ちつつ、より現実的なモノの集まりがあると凄く便利で、凄く面白いんじゃないか、と思った。
マニアックに偏るでもなく、憧れに偏るでもなく、メジャーに偏るでもなく、ただひたすらにモノが好きなことに特化する。
そんな風にモノを集めて見れたら。
ある意味では「ミーハー」とも取れるし「目新しさがない」とも取れるけれど。いざ、「さぁ、~を買おうか」となったときに。
例えば、良い靴が欲しいと思ったときに。良い鞄が欲しいと思ったときに。良いシャツが欲しいと思ったときに。良い雑貨が欲しいと思ったときに。
そんな時のより場となるような集合群を作ってみたい。
そういうこと。
5月くらいには、ガシガシと作り始めると思いますが。
ブログを作って公開して、出来れば違う媒体にしてみたいとも思う。無理な話だとは思うけれど、やってみなけりゃわからない。
選定、筆記。
あと、和歌集ね。 arlequin