『六月の夜と昼のあわいに』。恩田陸の本だけれど、これが非常に個人的に素晴らしい。正直なところ、恩田さんの小説は初めて読んだ頃からずっと、大概が妙に苦手で、タイトルや言葉の風合いは好みなのだけれど、良い記憶がない。




 けれど『六月の夜と昼のあわいに』は、あまりにも素敵だ。そもそもタイトルの響きが脳をくすぐる。そして本そのものの装丁も綺麗で、いかにも手に取らんという気分になる。




 ある種の縛りを設けて書かれた短篇集。絵画と序詞があり、そこからインスパイアを受けて紡ぎ出されるストーリー。はじめにありきは序詞。そのような試みというかやりかたも好きだ。




 僕も文章を書く際に、自ら縛りを入れることもある。それは文章がある程度好きで、自分で書きたいと思う人なら一度はやることだと思うんだけど。例えば、人称の問題であったりそのスライドの問題であったり、あるいは言葉の取捨やその繋がりであったり。僕の場合は、タイトルで縛ることも多い。タイトル、いわばモチーフを先に決めてしまって、そこから何かを紡ぎ出す。




 果たして文章を書くことによって、あるいは文章を読むことによって得られるものとは何なのだろう? 昔からずっと考えていることだ。もちろん常識的に、「知識や教養や感動」とかいうのはどうでも良いとして、だ。




 僕がひたすらにブログやら自分のノートやらに、長くもなく、でもメモ書きほどでもない、いかにも中庸的な文章を書いて、一体何になるのだろう。何にもならないと思っても、書くということを辞めることが出来ない。




 『六月の夜と昼のあわいに』は、僕がやりたいことの一つを表現してくれている本の一つだと感じる。モンキービジネスの季刊の雑誌も、同じように。現代においての文芸とは、こういう形で表すべきなのかもしれない、と。




 あぁ、本が、創りたい。今日は気になることを羅列。




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・「本当にやりたいことや、組織の中で抱えている心」




 思うに、素晴らしく成功している会社の組織は、多かれ少なかれ矛盾したことや理不尽なことがあるとしてもきっと、「それなりに正しい人材の配置と、人からの意志や情報の採択」が出来ているのではないか。無論それは、その配置や意志や情報を、いかに組織の中で際立たせて動かすかと言う、上の問題ではなくいわばこちら側の力量の問題もあるには違いないだろうが。




 それにしても、心の中に熱い素敵な何かを抱えている人は、いる。僕はぶっちゃけた話、今の組織の中で大真面目に何かを考えて、大真面目に企画を考えて、大真面目のその展開を考えて、本当の意味で組織の向上や全体の成功を目指そうとしている人間は、今のところ自分以外には一人しかいないと思っていた。ヒドイ話だ。本当はもっともっといるのだ。




 それは、周りのほかの人が何も考えていないということではなく、あくまでも僕が感じる上での「何か」を考えているかどうかという話であり、とても偏ったことではある。当然ながら皆、日々どうすべきか考え、何をするべきか考え、多くを考えているのだろうとは思う。それは接していて分かる。何も考えていない人なんて、ほんとにわずかしかいない。




 しかしながら、えてして本気で考えている企画や、成功を導けるであろう方向性や、具体的な事柄は総てが無視される。そんな提案があったことすら無にされ、初めから何も無かったことになる。悲しいことだな、と思う。




 きっとそれは、「分からないから」なのだと思う。その考えの持つ意味や、持ちうる力や影響力たるもの、そしてその周りにある風景や背景、そんなモノ達を分からない。考えている側はわかっても、それを採択する側は分からない。若しくは、分かろうとする意識すらないからだ。




 仕方がないことだな、とも思う。誰もが皆、正しいと思うことは違うし、ましてや素晴らしいと思うことは違うのだから。ただ残念なのは、たとえそのような違いがあるにせよ、「合理的に素晴らしいであろうこと」までもが、同じように捨て去られるということだ。




 僕のいる組織の中で、また一つ大きな何かを失う。それは僕が唯一、今の組織の光だと思っていた何かだ。そしてその光の持つ意味や、持つ方向性や影響力は、誰よりも僕が見てきて誰よりも理解していたと思う。恐らく、直接的に言葉として何かを投げかけられていたのは僕だけだと、思っている。少なくとも、具体的には。




 なんてことだろう、と感じる。何かを持った人はここを去るか、あるいは何かを隠したまま抱えて細々としているしかないのだろうか。たぶんそうなのだろうな、とも思う。




 会社が崩れていく過程というものは、そうそう見れるものではない。というのも現代的な流れで行くと、どの会社も外から見れば気付けばいつの間にか崩れてしまうからだ。それを中から、そして自分が様々なことに首を突っ込みながら見ていけるというのは、良い経験かもしれない。




 でもそれを、経験で終らせることは出来ない人だっている。また僕も自分の考えている方向性の方が、正しいことを知りたい。だからこそ、僕は経験などではなく「なんとかして崩れないようにしたい」と思っているのだけれど。でも、それは難しい。




 言い方は汚いけれど、バカは死ななきゃ治らないという言葉は、本当にウマイ言葉だと思う。明らかにおかしい会社も、一度崩れないと分からないのだ、きっと。




 正直、「どうでもいいや、もう」と思う瞬間がないでもない。「勝手にしてくれ」と思ったりもする。でも、僕自身はともかくとして、安定した生活やリズムを守ってあげたいと思う人がいる。投げやりには出来ない。懸命になろうとする。




 熱があろうが―インフルエンザは別として―、気持ち悪かろうが、様々なことにウンザリしようが、そこはもう仕方がない。いろんなことを踏みにじられて、無視をされて、理不尽なことを突きつけられて、それでも無理やりにでも動き続けるしかなくて、なんていう嫌な思いをするのは僕だけでいい。




 全部抱えてしまえばいい。






・「音を奏でることに、理由などない」




 10月に予定していたライブが、会場変更の都合により、11月にずれ込むことになった。会場も表参道ではなく、今度は飯田橋というなんとも微妙な位置に。とはいえ、前回と異なり一応普通の小さいライブバーなので、飲み物が提供できるというのは良いコトかもしれない。




 音を奏でることに、理由などない。「よくやるよねぇ、趣味でなんて」といわれることはあるけれど、どうしてやりたくなるのか、明確な理由はない。




 11月のライブはそういった意味では、次へのステップのような意味合いでしっかり出来れば、と思う。




 そして願わくば、来年のしかるべき時に、然るべき場所で、またライブが出来たら良いと思う。






・「誰かを見るたびに、思う出だしてしまう誰かがいる」




 テレビをザッピングしていると、杏が出ている。モデル業だろうが女優業だろうが、あるいはタレントとして出ていようが、素敵な人だと思って見てしまう。ごく単純に、綺麗だ。声も良い。




 杏を見ると、思い出す人がいるのも、その理由なのかもしれない。どこか空気感を重ねてみて、感慨深い気持ちになるのだ。




 サラッとしていて。声が良くて。不思議な空気を抱えて。洋服が好きで、雑貨も好きで。そして何よりもカメラが好きだった。ほとんど総てが素晴らしい人だった。




 いつも通る駅には、『3月のライオン』のポスターが貼られている。とても大きく、しっかりと。一つはスガシカオが写っている。もう一つは、杏が写っている。




 僕はこのところ毎日、そのポスターを見るたびに、いつかを思い出し不思議な心持ちになる。




 空が、恋しくなる。






・「柔らかい布を、今年はどれだけ纏えるのだろうか」




 これまでの計画とは別に、欲しいパーカーが出てきた。同じところでジャケットも欲しいらしい。そしてまた、ベストも素敵らしい。どれもこれも、柔らかい布だ。どこか懐かしく、僕は高校時代を思い出す。そういうことだ。




 服や布を表現する際に、「素材感」ということがよくある。僕も使う。でも思えば、この「素材感」ってなんだろうね、と思う。結構現代は、「素材感」と言う言葉を、風合いみたいな意味で使ってしまっているような気がする。




 「素材感」っていうのは本来つまるところ、ウールのウールらしさだとかコットンのコットンらしさみたいなのを言うように思う。例えばイギリス、ブリティッシュなウールやツィードならザラっとして堅くて、がっちりしたということ。ブリティッシュウールの素材感。




 巷ではkolorが「素材感」という言葉を一番使われている。「素材感が良い」とか。分かるような分からないような、という気分になる。確かに素材は面白いものを使ったりしているし、色合いや風合いも素敵だと思うことはあるけれど。「素材感」って意味とはなんか違う気がしてしまう。




 だって、素材って、素の材なわけでしょ。グイーンと伸びるツイードとかって、素の材って感じじゃない。ウールって、ツイードってそういうもんじゃない。いろいろ頑張って工夫して、面白くしようとして作られている布なわけで。




 そういうのも全部「素材感」って纏められちゃうから、なんだかなぁって気分になる。




 まぁ、いずれにせよ、よく分からないからいいか。素敵なものであれば、なんでもいいっていえばいいわけだし。




 ついこの間まではやっぱりコットンが一番好きな素材だったんだけど。ここのところはずっと、ウールが良いと感じてしまっている。年を取ったということなのかなぁ。






・「伊勢丹はもはや、毎月の愉しみに出来るのかもしれない」




 毎月の愉しみ、というのがある。一つはコーヒー。毎月コーヒー豆を買出しに行き、良い豆を仕入れるのは愉しい。そして、パン。月に数回、パーラーに行くのは愉しいし、幾つかのパン屋を回り、パンの日を過ごすのも愉しい。




 また、本屋。基本的には池袋のジュンク堂が一番なんだけれど。なっがい時間をかけて本屋を回る。気になるものを片っ端から見て、ホイホイとカゴに入れる。衝撃的な出会いもあったりして、愉しい。




 伊勢丹もそれにいれていいかもしれない、総合的に。こと一番はリビングのフロアだけれども。




 また26日とかその辺りから、今度はマーガレットハウエル・ハウスホールドの企画をやるらしい。ハウエルの考える良いリビング像というのを現したのが、ハウスホールド。何も、ハウエルのモノだけとは限らなくて様々なモノがあるんだけど。




 それを特集する伊勢丹がやっぱりなぁ、と思う。どこもやらないもんね、こういうの。






・「有名なことが総てとは思わないけれど、有名である理由はあるのかもしれない」




 ちょっと前の未来創造堂を思い出していて、うーんと唸る。パパイヤ鈴木が、ガラスタンブラーに氷があたったりマドラーが触れたりする音、というのを語っていて、実際に鳴らしていたんだけれど。




 カランコロンとかカキンコキンとか聞いていて、ずば抜けて素敵だったのがバカラだった。なんと言うか音の純度が違う。音がすごく純粋に響いて、クリアだった。確かに心地良い気分になったのだ。




 高いから凄いという気は全く無いけれど、僕はバカラのクリスタルはやっぱり好きだなぁと思ってしまう。光の通り方も、形も彫刻も、モチーフにする何かも、スタイルとしても。高いけどね。




 日本では通常やってないラインの大きさのタンブラーがひとまず欲しいのと、パーフェクションのタンブラーが欲しい。そういえばアルルカン、使ってないなぁ。使おう。フツーに。






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 コーヒーを淹れて、「美味しかったです、ありがとう」といわれると、すごく心がほっこりとする。たとえそれが儀礼的なものであったとしても、だ。




 僕が普段している仕事もそういう嬉しさは多い。こちらがありがたいのに、向こう側が「ありがとう、とても愉しかった」と言ってくれる瞬間が沢山ある。その時の笑顔はとても素敵で、僕と相手の中で確かに幸せな空気が流れているのだ。




 僕はその瞬間が、今の仕事をしていて一番良かったと感じる瞬間かもしれない。どんなに小さなことであっても、ね。     arlequin