どんな日々でも、どんな時間でも、学ぶことはあるのだ、と再認識する。今のうちに、こうして下として働いているうちに、気付けて良かったと思えることがある。
ムラ、だ。
100パーセントのときもあれば、20パーセントのときもある。それじゃ、いけない。常に80パーセントは維持し、ことあるごとに120パーセントが出せなければいけないのだ、要は。
それをするには、ベースをあげなければならない、ということ。絶対的な、持久力と瞬発力。
幸いなことに、僕はまだ若い。自分の夢を実現させるにも、それを維持するにも、まだ時間はある。
そしてまた幸いなことに、学ぶべき対象が目の前にいる。ハッキリって、その人の総てが素晴らしいとは言えないけれど、少なくとも僕が学びたいことをもの凄くたくさん持っている。ただ、この人を見ていられる時間は、正直それほどもう多くはないかもしれない。
僕自身も「もう、大丈夫だ」と思えるまでは、時間があるとはいえ数年のことだ。ペースをあげなければいけない。
夢は描き語るためにあるもんじゃない。生き続けるために、あるのだ。
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・「センス」
手を伸ばせば伸ばすほどに遠ざかる。
目を凝らせば凝らすほどに暗くなる。
耳を澄ませば澄ますほどに閉ざされる。
鼻を鳴らせば鳴らすほどに乱される。
舌を回せば回すほどに鈍くなる。
指を這わせば這わすほどに堅くなる。
視線を上げれば上げるほどによろめく。
音を求めれば求めるほどに静まる。
香りをかげばかぐほどに痛くなる。
喉を揺らせば揺らすほどに消え行く。
この世界は、柔らかくない。
この世界は、真っ直ぐじゃない。
この世界は、丸くもない。
この世界は、優しくない。
この世界は、どこにも行かない。
五感。
・「パンケーキ・スタンド」
いつだってここに来る全員が頼むものは決まっている。茶色くて、丸くて、柔らかくてフワフワで、しっとりとして、何よりも甘くて暖かい。
パンケーキ。
ハチミツをかけるのもいい。甘さが強いのが好みなら、メイプルシロップもいい。いずれにしてもバターははじめにたっぷりと塗っておくのが礼儀だ。話は、それから。生クリームを添えてもいい、寒くなければアイスクリームも悪くない、キャラメルシロップだって抜群に良い。
甘党? そんなわけでもない。普段は酒浸りの男もいれば、タバコを握りつぶしている女もいる。外では常にとうがらしを持ち歩く老婆もいれば、携帯電話をいじり倒している老父もいる。家の中ではドライジンジャーエールを飲み干す女の子もいれば、ダージリンに舌を唸らす男の子もいる。ここには、誰もがいて、何もかもがある。
たぶん、それぞれの日常生活を覗いてしまえば、全くと言っていいほどに共通する点もないし、繋がるラインも見えないし、ましてや心を共にすることなんてないのだろう。当たり前のことだ。街は結局のところ世界の中の一つであり、狭いながらも社会なのだ。
しかしながら、この店は違う。否、「この店の中だけは違う」
この店ではあらゆる関係性が破棄される。酒浸りがダージリンに舌を唸らせ、タバコをドライジンジャーエールに持ち替え、とうがらしではなく携帯電話を持ち歩く。と思えば、とうがらしをいじり倒し、タバコをビンに押し付け、興味津々にウォッカを見つめる。極端に言ってしまえば、そういうことだ。
この店の中では、皆が本来の自己性を失う。ただあるのは、パンケーキによってもたらされるどうしようもない幸福感と、逃れようのないぬくもりだけなのだ。
イスなんてない。そう、ここにはイスがない。誰だって同じように立ち尽くし、誰だって同じように自分で自分を支えているのだ。テーブルはある、長く丈夫なテーブル。いや、カウンター、だ。しっかりとした一枚木のカウンター。節がボコボコとしていて、人工的な匂いがしないカウンター。どんな重さでも、たちまちその体にしまいこんで自分のものにしてしまう、カウンター。
甘い匂いがする。ミルクの匂い、あるいは粉の匂い。優しい音がする。バターの溶ける音、あるいは生地が焼きつく音。
何にもない。カウンターと、ハチミツをはじめとしたトッピングと、フォークとナイフ。そしてマグ。それ以外は、何もないのだ。
当然のことだよ、と誰もが呟く。そう、当然のこと。皿を置くカウンターがあり、幸せを増幅するトッピングがあり、貫くフォークと切り裂くナイフがある。そして、欠かせない要素を包み込むマグがある。
「それ以外に、何が必要だと言うのだろう?」
今日も、声が聴こえる。四方八方から、一つ声がやめば一つ声が現れる。でも、うるさくない。心地良いタイミングで、声が響きあう。
「パンケーキ! それと、コーヒー!」
負けてられないね、と僕は思う。
「パンケーキ、ダブルで!! それと、コーヒーもね!!」
左手には待ちきれずにフォークとナイフを握り締める。
右手?
もちろん、トッピングを選び出す準備。
そして、コーヒーを流し込む、準備。
パンケーキ・スタンド
・「風の行方」
そうだ 僕らはいわばまるで 空を泳いで廻る魚
きっとこの世界の総てが 自由という名の領域だろう
透明な街をすり抜けて 月夜の闇を越えたりして
声に迷いながら そうして僕らは行くんだ
未来に光 わずか照らせば とりあえずただ風に乗ればいい
そして光のさらに向こうへ 泳いでみれば 幸せそこに
今こそ風が吹く時 今こそ泳ぎ出す時
僕ら 喩え 何を失おうとも 何故か どうしようもなく美しいんだ そういうもんだろう
憧憬の夢を追いかけて 浮世の痛み 耐えたりして
知らず傷つきながら そうして僕らは行くんだ
生きていること その尊さを とりあえずただ想えればいい
そして命のさらに向こうを いつか受け入れ 届く幸せ
未来に光 わずか照らせば とりあえずただ風に乗ればいい
そして光のさらに向こうへ 泳いでみれば 幸せそこに
今こそ風が吹く時 今こそ泳ぎ出す時
そうだ 僕らはいわばまるで 空を泳いで廻る魚
きっとこの世界の総てが 自由と言う名の領域だろう
・「シグナル」
「赤、青、黄色。君は今、何色なのかな」
「何色でも、ない。いや、違うかな、色なんてない」
「それは望むべくして。 それとも?」
「誰が望んで、色を失いたいなんて言うんだろう。僕が望んでいたのは赤でもあり、青でもあるんだ。いわば、不規則に色を変えるシグナル」
赤や青だけである必要性もない。オレンジやピンクになってもいい。グリーンやパープルでも構わない。グレーやベージュも悪くない。
「君の中には、パレットがあるはずだ。そしてキャンバスも」
「知っているよ。パレットは随分とさっぱりとしているし、キャンバスは真っ白だよ」
「君は、パレットの隅々まで洗い流して、キャンバスをまっさらに張り替えた。違うかい?」
「少しだけ、違うかな」
隅々まで洗い流して入れたなら、どれだけ楽なものだろう。パレットの端っこや、あるいはくぼみに固まった何色とも現せない塊り。張り替えたキャンバスに浮かび上がる、エンボスのごとき薄い形。
「君はそれらを、怖がっている。そして、苦しんでいる」
「そうだね、怖がり、苦しんでいる」
「でも、誰に助けを求めるでもない」
「これは、僕の問題だからだよ。誰にも迷惑をかけたくない。僕が怖がり、苦しみんだ果てに、どうにかすればいいんだ。誰にも、頼れない」
「良い志だ。けれどね、懸命じゃない。賢くもない」
懸命でも賢くもなくて構わない、と思う。もうこれ以上、誰かに迷惑をかけたくない。
「はっきり言って、良いかな」
「もちろん、僕はそのためにこうしてここにいるんだ」
「君は、迷惑をかけたくないなんて、これっぽっちも思ってないよ、絶対にね」
「そんなことは…」
「いや、黙って聞きなよ。はっきり言うって、言ったろう? 君は迷惑をかけたくないんじゃない。迷惑をかけて、君が嫌われたくないだけだ。考えているのは、常に自分の保身と保守だ。誰かのことを考えているわけじゃない。君は、君のことしか、考えてない」
そうかもしれない、と思う。でも、何が出来る? そんなことを知ったところで、変われるものではないのだ、人間なんてものは。
「いいよ。100パーセント正しいとしようよ。僕は、僕のことしか、考えてない。で、どうする? どうすればいい?」
「知らないね、好きにすればいい。ただの事実を言っているだけだよ、紛れもない事実。曲げようのない事実。君が考えている事実よりも、よっぽど純度の高い、輝いた事実だ」
「事実、ね」
「君は、何もしなくていいよ。事実を知ればいい。事実を知って、誰かに助けを求めればいい。卑怯でもなんでもない。汚くもない。臆病でもないし、情けなくもない。いいかい、よく聞きな。繰り返しは言わない。人は、誰かに助けを求めても、いいんだ」
「誰かに?」
「そうだ。言い換えれば、誰にでも、だ。君にはその権利もあるし、誰にでもその権利があるんだ。助けを求める。それは万人が保有する権利で、行使していい」
「それじゃ、世の中大変だろうに」
「勘違いしちゃいけない。助けを求めて良い、というだけだ。実際にそれで誰かが君を、あるいは行使した誰かを助けてくれるとは限らない。救ってくれるとも限らない。でも、自由だ。求めるのは、自由だ」
「ふむ。じゃあ僕も、助けを?」
「求めるべきだ、と思うね。少なくとも、今の君は良い顔をしていない。表層の話じゃない、深層の問題で、だ。今の君は仮面を被っているようだよ。気持ち悪い。正しい笑顔じゃない」
「それは分かってるよ、わざとそうしているんだ。クセみたいなものだよ、小さい頃からね」
「君はもう、そのクセを治したほうがいい。仮面は被らないほうがいい。今はまだ大丈夫だよ、外せることも知っているし、その時のことも知ってる。それにまだ、被っている認識がある。でもな、あと何年か経つと危ない、とても、非常に、危ない」
「危ないって?」
「外せなくなる、いや、外れなくなる。そして、うずまる。溶け込む。君の仮面が、君を支配する。君は君だけれど、君は君の仮面になる。そういうことだ」
「うん、それもね、知ってるんだ。ずっとずっと、昔から」
「じゃあ、なんで?」
「そうせざるを得ないからだよ。被るしかない。そうすることでしか、僕は僕を救えない」
「それは、救いじゃない、ということも?」
「ふふ、うん」
「そうか。まぁそれはもう、何も言うまい。言いたいのは一つだ。君も、助けを、求めろ」
「うん…そう、だね。助けを」
「いいか、求めるんだ。必死に、声をあげて。無様でもなんでもいい。求めるんだよ」
「求める」
「そうだ。そして、色を取り戻せ」
「シグナル」
「眩いほどの」
シグナル。
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なんだろ、パンケーキ・スタンドは書いていていとっても楽しかったな。
というか、実際にこういう店が欲しいよ。パンケーキ・スタンド。
いやまぁ、現実的に利益を考えると、バカらしい商売だけどね。
なんか日本って、そういう面白い店が少ない気がする。オシャレ風な店は、随分増えたけどね。
通いたくなる空間。それをくれる店。
って、どうでもいいか。 arlequin