例えばいろんな角度から見て、少しずつ差異が感じられるとしても、そんなもんはなんでもない。大きな流れが重要なことであり、そこがしっかりとしていれば、些細な事柄は打ち消すことが出来る。




 正直に生きることと、素直に生きることは、実は違うことかもしれないと感じた。




 これまで随分と「正直に生きていきたいものだ」と思い、そう信じて行動なりをしてきたけれど、本当は「素直に生きていきたいものだ」ということだったのかもしれない。




 そしてまた、誰にでもそうしていたいわけではなくて、自分が信じられる人達にだけ、完全に素直でいたいのかもしれない。




 それがとても我が侭で、難しいことだとしても。




 気づかせてくれたことに、強く感謝する。




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 ・「東京タワー」




 ずっとずっと遠くから、姿を見つめてみる。それはそれで美しくて、それはそれで心地良いものなのだけれど、何かが足りないと感じる瞬間でもある。けれど、その何かが何であるのかは、明言が出来ない。




 もっともっと近くから、姿を仰いでみる。それもそれで煌びやかで、それもそれで魅かれるものなのだけれど、何かが欠けていると思う瞬間でもある。けれど、その何かが何であるのかは、言及が出来ない。




 ある地点、ある角度。




 この必然、この偶然。




 その日、その瞬間。




 遠くでもない、近くでもない、まぁまぁの距離感でそれをフレームに収める。周りのあらゆる風景を、ともすれば人工的なもの達だとしても、それらを一纏めにして、絵画のようにフレームに収める。




 弾ける。




 言葉が、心が、感情が、自分自身を構成しうるほとんんどが、活発に動きだし、それぞれが弾け飛ぶ。




 研ぎ澄まされる。




 感覚が、痛いくらいによく分かる。




 喧騒の総てはただの泡と化し、聴こえるのはただただある種の声でしかない。




 ゆっくり、手を伸ばす。




 あの東京タワーは掴めないけれど、今ここで掴める確かな存在はあるのだ。




 何もかもが足りていて、何もかもが満ちている、存在。




 歩く。






 ・「フレーズ」




 我を忘れるように、あるいはもしかしたら我を取り戻したかのように、ふと紡ぎ出されてしまうほんの短いフレーズの中にこそ、本来の姿が現れる。




 考えに考え抜いたフレーズや、使いに使い慣れたフレーズが、何かしらの意味を持って、それなりの強さを持ったとしても、それらは仮初めでしかない。




 多くの時は、その仮初めに騙される。




 そんな仮初めのフレーズを、出来うる限り排除して本来の姿が詰まったフレーズばかりを用いて、人と繋がりあうことが出来たならば、どれだけ素晴らしいことだろうか。




 そこでは、作為的なものは影を潜め、徹底的に自然的なものだけが生活する。




 




 いつか、そんな風にフレーズを紡ぐ。






 ・「影響」




 一つの物事が引き起こす、あるいは連れてくる影響は、決して一つではない。もちろん、歓迎すべき影響だけでもなければ、遠慮したいような影響もある。




 それぞれの、つまりは正と負の影響に気がついていながらも、そこを見てみぬフリを通そうとする。若しくは、正だけを見つめて、負の影響は他の事柄からの影響なのだ、と言い聞かせる。




 暗示?




 そうかもしれない。




 いずれにしたところで、フェアじゃない。トレンディでもなければ、ましてやポップでもない。当然、トラディショナルであるはずがない。




 負を見つめて、認識する。そしてそれを正に変わるように、真摯に受け止める。




 フェアだ。トレンディでポップだし、トラディショナルな趣もある。




 オーケー、認めよう。僕は逃げてきた。




 立ち向かうべき対象は、十分にわかっている。




 十分だ。






 ・「たぶん、きっと」




 「たぶん、きっと、僕は幸せなんだと思う」




 「随分と、不確実なのね」




 「うまくその感覚を掴むことが出来ないんだ。自分が幸せであるという、感覚。絶望や悲しみを捉えることは出来ても、希望や喜びを捉えることが出来ていない」




 「ペシミスト」




 「そうとも言える。でも、本当は違うんだ。全く、ペシミストなんかじゃない。むしろ真逆なくらいだ。ペシミストの真逆がなんであるかなんてのは、知らないけれど」




 「じゃあ、ネガティブとでも言えば良いのかしら」




 「一理はある。しかし残念ながら、ネガティブでもないんだ。深い奥底にある部分は恐ろしいくらいにポジティブで、ネガティブという要素が顔を挟む隙間すらないんだ」




 嘘は何一つとして、ない。けれど、どうして僕は「自分は幸せである」と言い切ることが出来ないのだろう?




 「満たされていないのかしら」




 「ある面においては、そうだと思う。まだまだ満たさなければならない部分は多いし、むしろ満たされている部分はごくわずかであると言ってもいいくらいだからね」




 「どうすれば、満たされるのかしら」




 「それは、時間と順序とタイミングだ。長い時間をかけて、確かな順序を通り過ぎて、然るべきタイミングに生きていれば、満たされる」




 「そうすれば、幸せを感じられる」




 「あるいは」




 でも本当に、そうなのだろうか。それで、僕は理解が深まり、幸せを語ることが出来るのだろうか?




 「私は、待ってる。その長い時間と、確かな順序と、然るべきタイミングを」




 「随分と、大変なことだよ」




 「分かってる」




 「結局、何も変わらないかもしれない」




 「それでもいいわ」




 「オーケー、ありがとう」




 「いいえ、これはお礼を言われるような何かではないわ。ただただ、私は信じているのよ。いえ、分かっているのよ。絶対に長い時間は越えられるし、確かな順序も過ぎられる、然るべきタイミングだって見つけることが出来る、あなたはね」




 「どうして」




 「私には、分かるの」




 「僕には難しい問題なんだけれどね」




 「でも、分かる」




 「たぶん、きっと」




 「そう。たぶん、きっと」






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 「東京タワー」の文章は、とても心地良く書けた。そういう具体的な何かをテーマにして文章を書くことはそんなにないけれど、楽しかった。たかだか数百文字。あまりにも短すぎる文章だとしても。様々なものが詰まっていて、様々な意味が込められていて、そういったなんやかやが交じり合っている。     arlequin