およそ世の中で生活をしていれば、誰でもある程度の悩みや問題なんかを抱えていて、いつだってそんな悩みや問題がなく生活が出来ればいかに幸せだろう、と思ったりする。
程度の差は確かにある。
それが生活そのものを脅かすコトなのか、あるいは生活に付加価値を与えるようなコトなのか、もしかしたら生活以上のコトかもしれない。
そんなとき、僕らは。
誰かを頼ったり、誰かを想ったり、誰かに手を伸ばしたりする。
言葉を求めたり、言葉を投げかけたり、言葉を考えたりする。
たとえどんなに、虚しさを感じたとしても。
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・「再認識」
自発的に巻き起こした物事を、出来るだけ客観的に捉えて、冷静な判断を下す。主観的な感情は抑えて、流れる川を眺めるように、あるがままを再認識する。
そうすることで、本当は自分が何を求めているのか。そしてまた、本当は自分が何をしたいのか。そういう類の幾つかが見えてきたり、感じ取れたりする。
中には、「殊勝な考え方だ」と思えることもあれば、「なんと幼い幻想か」と思えてしまうこともある。
でも、客観的に見れば見るほど、実は何も分からなくなることもある。
・「ボーダーライン」
それは限りなく一直線に、目の前を通り過ぎる。
色も形も匂いも温度もない。
けれど、通り過ぎるのは分かる。
そんなボーダーラインを踏み越えて、足を踏み入れ、手を伸ばそうと思うことがある。
正しくない。
正しくなくとも、心のどこかが悪くないと思ってしまう。
ただし。
ボーダーラインをボーダーラインと見極めていられるうちは、越えることはないのだと思う。
ボーダーラインが通り過ぎる瞬間を、色も形も匂いも温度もない瞬間を。
捉えられなくなった時こそ、越えているのかもしれない。
・「虚勢」
「もう、しばらく会わないと思っていたけれどね」
「うん。それは僕もそう思ってたんだ。総ては整理がついたし、思っていたよりも状況も悪くない。問題が何もないといえば嘘になるけれど、具体的な問題が起こっているわけではないし」
「でも、俺はここにいる」
「ここにいる」
「ということは、だ。具体的な問題は起こっていなくても、抽象的な問題が君を蝕んでいるということなのかな?」
「たぶん、おそらく」
はっきりしたことは、正直なところ分かっていない。何が問題で、何が問題じゃないのか。だからこそ、影が再び目の前に現れたわけだけれど。
「整理はついたんだろう? 状況も悪くない。けれど、君はどこか漠然とした不安を抱えている。というよりは不安であるかどうかすら分からない、もっと漠然とした何かを抱えている」
「そういうことだと思う」
「でも君は、随分とタフになったと思うけれどね。少なくとも、俺の見る限りは」
「確かにタフにはなった。強くもなった。ほんのわずかだけれど賢くもなったし、ある意味で寛容にもなったと思う、自分でもね。でもまだ、僕の中心の中心にあるいわば核みたいなものが、随分と無防備な気がするんだ」
「誰しもが無防備なものだぜ、核なんてさ。核の周りに鎧を着ている人間なんて俺は見たことがないし、ましてや核の無防備さについて考えている人間なんてのも、君が初めてだよ」
「でも」
「いや、分からないでもない。君は少しだけ、勘違いをしている。核が無防備であることはなんの問題でもないんだ。しかしながら、君の核そのものがやわであるかもしれないということが、問題なんだと俺は思う」
「やわ」
「そうだ。タフでも強靭でもない、やわ。ガラスのように脆いでもない、ゴムのようにぐちゃぐちゃしているでもない、ただ純粋に、やわなのかもしれない」
「弱い、ということなのかな」
「あらゆる付加を削ぎとって、総ての修飾表現を無に還したなら、そういうことになるかもしれない」
「弱い、か」
ショックだった。いずれ出てきた答えの一つとはいえ、多少は強くなってきたと認識してきた自分が、結局のところはまだ弱いという。それも、その答えは自らが感じてきていたことで、言うなれば自らが発見し、あるいは創り出したことなのだ。
「でも核が弱くたって、君は生きていける。きっと幸せにもなれる。それだけの知識や心や意味は持っている。そうじゃなかったかな?」
「悪くない知識はあるよ。人並みに心だって抱えているし、様々な意味を考えてきてるつもりだよ。それは否定しない。そこから得た多くのものだってあるし、失ったものもある。でも総じて言えば、結構よくやっている方だとは思う」
「けれど」
「そうなんだ。けれど。それら総ては、僕の虚勢でしかないと思うんだ。儚く消え去っていく虚勢。実のところは目の前に何も残っていかない」
「虚勢ね」
「何も残らないだけじゃない。そこに何かがあったということすら、きっと無くなってしまうんだ。文字の如く、本当に虚しい勢いなんだ」
「それで?」
「それで……。それが、怖いのかもしれない。虚勢で生きているこの今が。この虚勢無くなってしまった時、僕には何が残るんだろう?」
そうだ。いつも胸に抱えているもやもやは、きっとそういうことだ。今抱えているあらゆる虚勢―それは知識であり心であり意味であり、また違う様々なものだとして―以外に、僕という人間は何を持っているのだろう。
アイデンティティ? 時代遅れな言葉を用いれば、そうとも言える。存在意義。僕が僕であり、僕が僕でいる必要性。
バカらしい、思春期じゃあるまいし。
「君は今、バカらしいと思った」
「よく、分かるね」
「分かるよ。それは確かにバカらしいことだからさ。君はもう大人だ、子供じゃない。守られる人間ではなく、守る人間だ。生かされる人間ではなく、生かす人間なんだ。そんな人間が考えるようなことじゃない。バカらしい。下らない、と言ってもいい……けれどね」
「けれど」
「俺は君が好きだ。誇りにだって思う。そういうことを考える君が、ね。世の中のほとんどの大人は、バカらしいことや下らないことは考えなくなる。それは、バカらしいことや下らないことが、愚かだからじゃない。無駄だからじゃない。ましてや、意味のないことだからなんかでもない」
「じゃあ、どうして」
「それが楽だからさ。バカらしいことや下らないことっていうのは、すごく面倒臭いことなんだ。答えが出るとも出ないとも限らない。終りが見えない。考えているうちに、自分は何をしているのか自分自身に猜疑心すら抱くようになる」
「猜疑心」
「そして、時間がかかる。いろんな愉しみを犠牲にしなければいけないくらいに、時間がかかるんだ。それは君自信が、一番よく分かっていると思うけれどね」
「うん、なんとなく」
「俺は思う。バカらしいことや下らないことというのは、本当はすごく、いや、もの凄く大切なことなんだ。だから、俺は君が間違っているとは思わない。そこから逃げて欲しいとも思わない。願わくば、誰しもがそんな状況に陥ったときに、君だけが君自身のその経験を通して、多くの人間を導けるようになって欲しいと思う」
「そんなの、分からないよ」
「今はまだ、分からなくていいさ。苦しい、悲しい、辛い、痛い、涙もするかもしれない。でも、乗り越えるんだ。君は君自身とその周りの君の言う虚勢を信じていればそれでいい。不安はいらない、心配もいらない、俺が保証する。君は、間違って、いない」
影がこんな風に喋るのは、かつてないことだ。僕そのものに意見を飛ばし、断言している。何が起こったんだろう。それとも、僕が何かをしたのだろうか。
「それなら、僕はずっとこんな風に核がやわなままなのかな?」
「そうだね、やわなままかもしれない」
「それは」
「もう一度言う。君は、間違って、いない。核は、やわなままでいい。むしろ、やわなままがいい。そのおかげで、君は多くの人間を理解できるし、多くの人間と繋がることが出来る」
「やわなままで?」
「そうさ。やわな人間は、やわな人間を理解することが出来る。そしてやわでない人間だって理解することが出来る。やわとは何か、やわでないとは何か、と考えるからね。それはある意味で君の特権だ。君は自分自身がやわであると認識できている上に、考えている。それでいい」
「良いことなのか、難しい気がするけれど」
「そのうちに分かるさ。本当に大切な人が、本当に頭を抱えたとき。本当に大切なことが、本当に立ち止まったときにね」
「それまでは、信じるしかない」
「そういうことだよ。分かってるじゃないか、もう君も。信じるしかない」
「自分を、未来を、心を、そして誰かを」
「ようやく、落ち着いたかい」
「少しずつ。少しずつ、落ち着いてきたと思う」
「水は?」
「十分に」
「そうしたら、もうやるべきことは一つだ」
「うん、分かってるよ」
「じゃあ、今度こそ、しばらくかな」
「そうだね、そうかもしれない」
「幸運を祈るよ」
「ありがとう」
歩く。
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「虚勢」は思いのほか長くなった。ほとんどが会話だから、文章と読んでいいのか、毎度これらは難しいところだけど。でもすごく、好きだ。
楽しい。 arlequin