素直なんだか、捻くれているんだか分かったもんじゃない。本当はもっと笑うべき、あるいは笑うべき嬉しい気持ちがあり、ともすれば声すらあげてもいいかもしれなくても、そういう時こそ妙に冷ややかになってしまうのは、何故か。
その割に、その笑顔に通ずる(結果としては、同時に冷ややかさを引き連れてしまうのだけれど)気持ちを妨げるような何かが生ずると、それ相応に嫌な気持ちになり、それ相応に不機嫌さを表そうとしてしまう。「幸せの源を、奪うないでくれ」と。
だからといって、その「幸せの源」であるかもしれない何かやその現象を、自らの力で強く守ろうとか、もしくは磨き上げようとかしているかというと、果たしてそこまで言い切れるものでもない。
要は駄々っ子ということなのか。まぁ、それはそれでキライではないんだけれど、もっと大人にならないと、いつまでたってもこういう性格なのは頂けないよなぁ、とも思う。
考えようによっては、ほんの小さなことで幸せを感じられているということの裏返しとも取れる。けれどそれはまた逆に、本当に大きな幸せを感じていないということでもある。難しいものだ。
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更新するべきモノやコトはあれど、なんだか定期的な心持ちにならないので、今日はウダウダと書くことにする。
ただの文章。もしくは落書き、スクリブル。起承転結もなければ、序破急もない、山もなければ谷もないし、教訓なんてあるわけがないし、そこにあるのはただひたすらの言葉と、バラバラに浮かび上がるイメージと、それを取り巻く感情でしかない。
そんな取りとめのない、長い文章もありだと思える方のみ、この先はお読みください。
・音楽
superflyはやはり良いな、と思う。何よりも声が良い、唄が上手い。メロディーも面白いところがあるし、ついでに言えば編曲も良い。ここんとこ蔦谷好位置の編曲するものが、ツボにくる。YUKIであり、エレファントカシマシであり、そしてsuperflyであり。
また同時に、今更クラムボンが素晴らしいのではないか、と思い始める。心地良い空気感と、程よいサックリ感。かつて聴こうと思ったころは、テイストが肌に合わないとか感じたものだけれど、時の流れと感情の変化により、変わるものだ。
つばきやaikoの昔の曲に心が休まる。そして椎名林檎のライブ映像に心が鼓舞される。やはりなくてはならない音達。
そこに中山うりが一石を投じる。アコーディオンという楽器がどれだけ魅力的で心をひきつけるものか、ということ。そして僕にとっての音楽で大切なことは音やメロディーだけではなく、そこに付随する言葉やあるいは表題も重要な位置をしめているということ。笑う月、奏でる詩。
・文学、発展して思考
フィジカルとメンタルについて、考える。対しているように思えて、それは本当は表裏一体というようなもの。フィジカルは確かにメンタルに大きな影響を与え、メンタルは強烈にフィジカルをフィジカルに蝕む。ならば、考えようによってはメンタルをフィジカルなものと捉え、いわばメンタルにフィジカルなトレーニングを施し、メンタリックな事柄からもフィジカリックな事柄からも、一定のクオリティを保っていられるメンタルが作れるのではないか。
メンタルと言えば、物事に対する思考について考える。様々な物事に対して考えが浮かび、それらが纏まりなく飛び交い、結果として混乱を導くことがある。その混乱は現実的であればあるほど、悲しみや苦痛を伴い、空想的であればあるほど、好奇心や興味を導く。
村上春樹の文章において、メンタルもフィジカルも、そして現実も空想もどれもが等しく大切な意味を持つ。人によっては、そのようなものは文学とは呼ばないのだ、と主張することもある。ならば、文学とは何か。
教訓的な意味を持ち、あるいは感動的なストーリーが含まれ、さらには難しい言葉が並び辞書を片手に解読するようなものだけが文学とでもいうのだろうか。それは違うと、僕は思い、そう信じている。
文学とは言うなれば、特定の人に対する鋭利な斧、価値観を砕き再構成するような存在であるべきだと思う。そういう存在であれば、それがいかにポップであれ、いかに破綻したロジックであれ、いかに下らない言葉の羅列であったとしても、文学と読んでいいと思う。
それはつまり、思考を促す行為の総体と言っていい。およそ文字にされた言葉や考えで、本来は思考に繋がらないようなものはないと思うけれど、少なくとも深く「自らは確かに考えている、思考している」とまで思う文字というのは、非常に少ない。だからこそ、そこに文学の存在する意味があり、そうでなければ文学なんていらない。
・「ビーフカツレツ」
ビーフカツレツ。僕は決まってこのメニューを注文する。外が大雨だろうが快晴だろうが、体調が優れていようが悪かろうが、たとえ地球に氷河期が訪れようが、僕はここでビーフカツレツを注文する。
薄すぎず厚すぎず、程よく叩き伸ばされた牛肉を、きめ細かいパン粉と上質な油から生まれた衣が包む。ナイフを入れれば、サクリという音と同時に柔らかな感触が進み、またサクリという音で終わる。ゆるやかな蒸気が昇り、それ以上に魅惑的な香りが吹き抜ける。
付け合せはシンプル。薄く塩味が付けられたヌードル、そして軽く茹で上げたジャガイモ。間違っても、ニンジンを甘く煮たものだとかマカロニサラダなんて付いてこない。あくまでヌードルとジャガイモだけが正しく、それぞれがビーフカツレツを支えている。
「たまにはさ、他のモノも食べてくれればいいのにね」
店主はいつもそう促すけれど、僕は折れない。僕にとってのこの食堂は、ビーフカツレツによって存在し、ビーフカツレツの為に存在しているといっても過言ではない。
無論、他のメニューが美味しくないわけではない。総てを一通りは試している。オムライスだって、クロケットだって、マカロニグラタンだって、ナポリタンだって悪くない。現に僕の隣のテーブルではハヤシライスが大手を振っているし、その向かいのテーブルではメンチカツが溢れる肉汁と共に香りを際立てている。
しかしながら、この食堂はビーフカツレツなのだ。他の誰もが首をかしげるかもしれないし、あるいは理解は深まらないかもしれないが、飛びぬけて美味しいのだ。ゆっくりとテーブルにつき、水を一口飲んだ後にメニューを広げる瞬間、もう既にその頃にはある一線のみが輝き、その輝きは注文が終了するまで衰えることは、ない。
安いものじゃあ、ない。明らかにメニューの中では高価な類で、オムライスにクロケットを添えて、なおかつオニオンスープを飲むことも出来るくらいだ。
「お待たせいたしました」
声が聞こえると、目の前には素晴らしい光景が広がる。さぁ、食べよう。幾重もの傷がついたナイフと、それとは不釣合いに真新しいフォークを、僕は握り締める。
・矛盾
八方美人であるということと、協調性に溢れることの違い。表面上の形でいけば、それは同じような行動を伴い、同じような存在であるかもしれない。
思うに、そこには「感情」がキーになっているような気がする。八方美人は分けて言えば負の感情であり、協調性とは正の感情か。周りとスムーズな関係を築くことに、どこかやましさや打算的なものが生じていればそれは八方美人と呼ばれ、無垢にただ純粋に楽しくしたいという心や非打算的なものが生じていればそれは協調性と呼ばれるのか。
一般的な判断。
ただ八方美人が悪いとは全く思わない。八方美人というのはある種才能であり、そう評価されるということは少なくともその人はその評価している人間以外には、「とても良く想われている」ということなのだから。
誰も彼もに安定して想われる協調性と、一部に醜く想われてもそこ以外にはとても強く想われる八方美人と、どちらか健全なのだろう。
エゴイズムの観点からいけば、よりエゴイスティックなのは実は、協調性のほうなのかもしれない。それは個人の問題でなく、つまりは全体としてのエゴイズム。人類皆平等、と同じような理論のエゴイズム。そんなの、あるわけがないこと。
・「フェイク」
「もうそんなに猶予はないんだ。どう頑張っても一ヶ月、それすらも叶わない可能性が高い」
「じゃあ、どうするの?」
「どうもしない。ただ、留まる。僕は出来る限り懸命に留まって、流れるものを見定める。そして流れるものの中から、しっかりと答えを見つける」
「見つからなかったら?」
「その時は、僕は多くのものを失う。地位や名誉や金なんかじゃなくて、もっともっと、ずっと大切な多くのものを失う。そしてその中には、君も含まれている」
「含まれている」
「そう、含まれている。いや、むしろその表現は適切じゃないかもしれない。君も含まれている、じゃない。君が含んでいる、だ。僕が留まるというのは、つまるところ、君に留まるということだ」
「わたしに、留まる」
「ただそれはもちろん、メタファーとして、だ。現実の存在としての君というわけじゃない。僕にそんな権利はないし、力もないからね」
「メタファーとして、ね」
「いつかそのメタファーがメタファーとしての存在を終えて、現実的な何かに変われば良いと思う。そのために、答えを見つけようとしているとも言える」
「果てのない旅、あてのない理想」
「そうとも言える。でもだからこそ、意義がある。果ての見えた旅の、あてのある理想の何が素晴らしいんだろう。そんなものは見えた瞬間から、実は既に色褪せているものじゃないかな」
「屁理屈」
「どう捉えてもらっても構わない。正直にいって、これは誰のためでもないんだ。君のためでもない。ひたすらに、僕自身のためでしかないからね。僕が僕の為に考え抜いた、僕を導くためのステップなんだよ」
「好きにしたらいいじゃない、時間は過ぎていくもの」
「きっと総てが分かったら、君に大きな声で言う」
「たとえそれが、悲しみを生み出すとしても?」
「僕は、そういう人間なんだ」
・道具
道具は所詮道具である。道具はされど道具である。どちらも間違っていない。道具は結局のところ道具なわけで、それが目的なわけではないのだから、過大評価しすぎるべきではない。でも確かに道具は心を通すことにより、一層素晴らしい道具となり、あるいはその行為や心なくして道具としての存在を輝かさないものもある。
しかしスタイルとして、最終的にはどちらに重きをおいて生活するかは、決めていなければならない。
僕は最終的には「道具は所詮道具である」というスタイルを取ることに決めている。
どちらが正しいわけでも、ない。
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すごく長いようで、大した長さでもない。久々に、つらつら思うがままにリミットを特に設けず、言葉を並べた。文章として思いっきり破綻しているし、結論として出てきたことは何もないんだけれど。「フェイク」の部分を書いている時間が、一番楽しかったかなぁ。 arlequin