距離と時間と速度。距離は時間×速度、時間は距離÷速度、速度は距離÷時間だ。あくまで、計算上の話。幾何学上の話で、現実的な話ではないように思える。世の中では正確にいくと、距離と時間と速さは、それぞれが複雑な関係性において、絡まっている。




 時にそれらはそれぞれの間を飛び越え、もはやそれらの枠の中には収まらずに、何かを生み出したりする。そんな何かは、やはり時には大きな大切な何かになり、やはり時には大したことのない些細な何かになったりする。




 大きな何かであれ、些細な何かであれ、その何かを自ら体験することもあれば、それを眺めることもある。いずれにしたところで、悪いものではない。悪いものではないけれど、総てが心地良いものでもない。




 もう少し、もう少し。なんだか良く分からないけれど、そんな風に思う。また新しい何かを探して、また新しい何かに辿りつくのかもしれない。でも、もう少し。そうさなぁ、梅雨時、新しい幕が開けるまで。




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 評判、名前、装丁、出会い。多くの要素が本との巡りあいには関わってきます。そのどれかが強い印象を残しても、あるいはそれぞれの総合が強い印象を残しても、良い。巡り合う。……ただし、難しいところは、必ずしもそういう巡り合せが正しいとも限らないし、素晴らしいとも限らないということです。しかしながら、日々めぐり合うことで、たとえ正しかったり素晴らしかったりしなくとも、得られることはある。




かたつむり


 多くの要素の一つ、タイトル。そんなタイトルだけで買った本、『食堂かたつむり』。まぁ、なんといいますか、結構売れてるみたいなので、アレですが。期待を高めて読みました。高めすぎたのかもしれません。




 面白いと思います、物語としても、あるいは設定としても。でもなんでしょう、僕としてはどこか物足りなくて、どこか余分で。この本の中には、とても沢山の料理や食べ物の描写や過程が出てくるのですけれど、そしてそのどれもが確かに良さそうで楽しそうで、そして美味しそうだったりはするのですけれど……なんか違う。




 この本は、小説になるよりも現実になるべきだったような気がします。つまりはコンセプトやプロットとして小説が存在し、ファクターとして料理や店を創り出し、それをメタファーとして本にすれば素晴らしかったのではないか、と。




 この本が、そして小川糸さんの書く文章が、村上春樹や吉田篤弘に相当するそれには、どうやらなりえないようです。それは、至極残念なことで。しかしながら、こういうことはむしろ多くあって、残念にならないほうが数としては圧倒的に少ないのです。




 もっと、本当は色んな本を読むべきなのだよなぁ、と思います。でもそんな時間は、限られていて。どうして学生のころに、もっともっと読んでおかなかったのだろう。現代小説にせよ、古典にせよ。そう考えれば、音楽ももっともっと聴いておくべきだった。食べ物だって、もっともっと漁るべきだった。




 後悔しているわけではないのです、ただひたすらにそう感じるだけ。そもそも、今の段階で感じることが出来るという時点で、とてもラッキーで幸せなことだと思うのです。まだ、先は長い。やり直しというのではないけれど、まだ時間が多い段階で気付くことができている。……さてと、やるべきことは沢山あるなぁ。




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 岳というマンガは、凄い。山が好きだろうと興味がなかろうと、関係ない気もする。そりゃ山にカッコよさを見られるほうが、より凄く感じるんだけれど。面白い、でもない。楽しい、でもない。でも心に残るマンガで。って、マンガを讃えすぎか。でもねぇ、カッコいいんですよね。     arlequin