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clocksの覚え書き

読んでもらいたくて書いてるというよりは、自分のための覚え書きです。人に見られることを前提にしていないとは言え、もし誰かが読んでくれて、何かプラスのことを感じてくれたら嬉しいです。

さて、ちょっと心境が変わってしまったかもしれないけど、前回の続きを書いてみようと思う。

音楽の演奏っていうのは、古来からある古典的なものと言える。

それが現代ではライブというものに派生して行っている。

じゃあ演劇はどうだろうか、演劇も古典的なものと言えるだろうけど、

現代で派生した何か新しいものはあるだろうか。

舞台の上の役者を客席から見る、この姿は何千年も変わらないんじゃないだろうか。

音楽は、耳だけを使う。だから、目が余ってしまっていた。

だから目も使おうと、ライブでは映像や光なんかが使われる。これが大きな革新だろう。

それと音楽は場所を選ばない、ホールに楽器があるだけで演奏会ができるし、

何もない街角でも今でいうストリートライブができる。

それは目が必要ないから高い舞台が必要ないからだと思う。

どこでもできる音楽は、そのままどこでもライブをするようになる。

武道館や、野球場や、スキー場まで。

セットを組んで、ライブを行うことが普通になり、

その結果ステージを客席が取り囲んでいたりと、派生した形が比較的自由にできるようになる。

でも演劇は、役者が見えなくちゃならない。

だから演劇が演劇場を飛び出すということは、音楽以上のリスクが伴う。

結果的に、演劇が飛び出せたとすれば、それはスクリーンやブラウン管の世界だろう。


演劇や音楽、そこに絵も加わると思うけど、そういう古典に対して、

映画や写真は同じ並びでも新しいものだと思う。

音楽は置いておいて、演劇と映画、絵と写真を比べると、人気があるのは新しい映画や写真だろう。

それらはデジタル化が容易にしやすかったことが大きいと思うけど、

それ以前に、演劇と映画を比べると映画の方が自由だったと言えると思う。

映画では、宇宙が舞台になっても、物理的に無理なことも、なんでもできてしまう。

映画の方が圧倒的に自由だ、多分世間の意見はそうだろう。

でも個人的には、演劇の方に自由を感じる。

演劇は全てを見せなくてもいい、ここは宇宙空間だと言ってしまえば宇宙空間にもなる。

猫のぬいぐるみを猛獣だと言えばそうなる。

観客の想像力に頼る部分が映画より大きい分、こういうことが可能になる。

羨ましい。

それに演劇は生ものだから、観客の反応にさらにリアクションができる。

映画は監督のもの、演劇は役者のものだと思うけど、それもまた羨ましい。

そして、演劇は舞台を飛び出せる。

映画はスクリーンに映したものが映画だと思う。

その前提がある以上、絶対にスクリーンを飛び出せない。

でも演劇にはできる。ただ今まではその決定的な方法がなかった。

今回フェルザブルタを知って、これがその方法になるかもしれないと思った。

劇場から作ってしまって演劇を見せる。

観客は文字通りそれを体感できる。

こうなってくると映画に勝ち目はあるのだろうか。

やっと3D化してその部分ではちょっと追いついたのに、

演劇界ではすでに「触れる」というレベルまで達していたとは。

もう勝っているとすれば、世界中で同時に上映できるということくらいか。

このフェルザブルタの演劇を、もし映画でやろうとすれば、

それはUSJのスパイダーマンのアトラクションのような感じになるだろう。

それはもはや映画ではない。

だけどその進化した映画に日本中から高いお金を出して見にくる人たちがいる。

もしフェルザブルタが演劇としてそれを確立してしまったら、これはすごいことになる。

本気で唖然と見つめてしまったし、鳥肌が止まらなかった。

映画は10年単位で進化を続けているけれど、その多くは技術革新に伴うものだ。

演劇も10年単位で進化を続けている、でもその多くはアイデア、哲学によるものだろう。

演劇はすごいと思う、それをやっている人たちを本当に尊敬する。

今映画が人気なのはビジネスモデルとして映画が上だったというだけじゃないかとさえ思う。

なぜ演劇にできて映画にできないのだろうか。

演劇にあって映画にないものとその逆を考えてみようと思う。