醜男の毛皮、化けの皮のマリー | clocksの覚え書き

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読んでもらいたくて書いてるというよりは、自分のための覚え書きです。人に見られることを前提にしていないとは言え、もし誰かが読んでくれて、何かプラスのことを感じてくれたら嬉しいです。

毛皮のマリーよりも先に、毛皮のマリーズを知っていた。
名前くらいしか知らなかったんだけど、どうしようもなく興味が湧いてこの本を読んだ。
わかったことは寺山修司のいい意味でなんとなくの人物像と、美輪さんの人格だ。

内容は全然濃くなくて、1冊目にこれを選んでよかったなと思っている。
美輪さんは終始、まるで隣にいて話しかけてくれているような雰囲気でこの本を書いている。
読者の表情に気を使いながら、あんまり難しい話しても飽きちゃうでしょと言わんばかりに、
寺山修司を語る、というよりも修司ちゃんとの思い出が聞きたいの?といった感じだ。
だけど同時に、これは前々から感じていたことなんだけど、
美輪明宏には、後世に伝えるという使命感のようなものを感じる。
戦争を体験している者が少なくなってきたこと、ましてそれを語り継ぎ歌い継いでいる者の責任として、
同年代やその上の世代の人たち、つまり今の文化を今の形にした人たち、
彼らの意思と素晴らしさを彼らを生で見ることができなかった若い人たちに伝えなければいけない、
それが美輪明宏の使命だと、まるで義務感のようなものを感じる。
この本も同じで、同い年の寺山修司について、
思い出話をする中で、実にうまく彼の生涯に渡るまでを語っている。

この二人は、寺山修司の最初の舞台、天井桟敷の旗揚げ公演からの付き合いで、
美輪明宏はその主演を務めた。美輪さんのために寺山修司が本を書いたのだ。
その後も「毛皮のマリー」などを共に作っている。
二人のつながりが舞台なのだから、美輪さんが語る寺山修司も主に演劇の面、
天井桟敷についてがほとんどとなっている。
美輪さんのすごいところは、あくまで主観で書くことだと思う。
多分、触れるべきなのに触れてない部分もたくさんあるだろうし、
美輪明宏についてもかなり書かれている。
まぁ、美輪明宏が語るだから、そういうコンセプトなんだとも思うけど、
自らの言葉に責任を持つがゆえに、
知らないことは書かないし、取って付けたような知識も書かない、
同じ時代を生きて親交があって、隣で見ていた人物をあくまで美輪明宏の視点で書いている。
仮にこの本に世間一般に言われていることとは違うことが書かれていたとしても、驚かない。
少なくとも美輪明宏にはそう見えていたのであり、そのことに自信を持っているだろうし、
俺もWikipediaに書かれていたとしても、美輪さんの言葉の方を信じちゃう。

どうしても客観的な立場で描かれることが多い人物伝というジャンルゆえに、
最初に主観的な立場のこの本を読めたことは、貴重だと思う。

巻末に「毛皮のマリー」の戯曲が載っている。
感想を、と言われてもまだ全くわからない。
だけど時代背景とか、その時の演劇の立場とか、思想とかそういうものを理解したくなった。
なによりちゃんと上映されているものを見てみたくなった。
ひとつ仮説として思っていることは、
この時代に人たちは、こういう文化に「圧倒される」ということを求めたんじゃないかということ。
とんでもないものが出てきたな、と鳥肌が立つ体験を求めたんじゃないだろうか。
それならば、音楽よりも映画よりも本よりも、圧倒的に演劇というものに可能性を感じる。
とても個人的で、上に会社などもなく、天才の才能を爆発することができるのは、
やっぱり生の演劇だったんじゃないだろうか。
今はどうなんだろう、どんな規制がかかったのか、今度唐十郎についての本も買おうかと思う。
なんにせよ巻末の「毛皮のマリー」はその圧倒的な魅力で、
1960年代の文化へ俺を引き込もうとしてきます。

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