こんにちは。

 

お金を貯めたいけど、なかなか貯められない方に、お金が貯まる貯金脳になるちょっとしたコツをお伝えしているお金の専門家、c-killerです。

 

今日はちょっと歴史の話。

 

小学校の授業でみんなが習う伊能忠敬。江戸時代後期に日本中を測量して正確な地図を作製した人物です。

 

でも、17年間もかけて蝦夷(えぞ)地から九州地方までを測量し日本全図を作成するという一大事業をスタートさせたのが、実は50歳をすぎて隠居してから(測量そのものは56歳から)というのはあまり知られていないのではないでしょうか?

 

人生100年時代。セカンドライフのデザインが言われる今の時代だからこそ、セカンドライフは日本地図の完成を生きがいにした伊能忠敬の生き様は、私たちに生き方について大きな示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

 

伊能忠敬は、1745年1月11日に上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)に名主の家に生まれました。名主といっても決して名門ではなく、家庭の複雑な事情で各地を転々とする生活だったようです。苦労の絶えない生活だったようですが、それでも幼少時から星や算術などの学問は好きだったようです。常陸(現在の茨城県)の寺では半年間そろばんを習い、優れた才能を見せたとあります。この並外れた数学力が後に第二の人生の基盤になります。

 

忠敬の人生が大きく変わったのは17歳の時です。現在の千葉県香取市佐原の酒造業を営む伊能家に婿養子に入ったのです。当時、伊能家は傾きかけており、一家の再興に忠敬の才能が必要とされたのでしょう。妻のミチは再婚で当時21歳の姉さん女房でした。このミチが実にしっかりとした人で、家業に厳しく、忠敬には一切の道楽を許さなかったそうです。忠敬はわき目も振らずに事業に精を出し、その成果として傾きかけた伊能家を見事に再興させました。

 

忠敬は商才に長けていたことは間違いありませんが、慈善事業や奉仕活動などを熱心で、地元の村にも多大な寄付をしたようです。そうしたこともあって、地元では非常に尊敬される人物だったのです。天明の大飢饉に佐原からは一名の餓死者も出さなかったと言われています。

 

1794年、忠敬は景敬に家督を譲り隠居しました。隠居時の資産額が3万両とされており、現在の30億 - 35億円程に相当すると言われてます。普通であれば悠々自適の生活を送るのでしょうが、忠敬は違いました。子どものころから興味を持っていた天文学や暦学を極めたいと考え、1795年に50歳の忠敬は江戸に移り住みます。そして幕府天文方の高橋至時に師事します。師匠の至時は31歳だったので、19歳年下の先生に教えを請う事になります。今でこそ、定年してから大学に戻り博士課程に挑戦する人もいますが、当時としては大変なことだったでしょう。

 

忠敬は、必死に懇願して入門を認めさせた事もあり、熱心に勉学に励みました。それこそ寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていたそうです。そうした忠敬の勉学に取り組む姿勢もあり、次第にその実力は至時も認めるほどになりました。そして2人の間には師弟関係を超えた友情が芽生えます(ちなみに、現在でも2人のお墓は並んで建立されています)。

 

忠敬の運命が大きく変わったのは1800年頃です。当時、新しい暦が『寛政暦』が完成しましたが、師匠の至時は、この暦に満足していなかった。それは暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知る必要があったからです。忠敬は、同じ経度の2地点間の北極星からの角度の差から地球の大きさが分かることに気づきます。黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局を実際に測量した報告をすると、師匠の至時からは誤差の事を考えると、「正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地(現在の北海道)ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」とアドバイスされます。

 

忠敬の凄いところは、では実際に蝦夷地まで測量を企画してしまう事です。当時は国ごとにいくつもの関所がある移動制限の厳しい時代ですから、幕府のお墨付きがないとそのような大きな仕事はできません。かつて恩を施した佐原の村人から請願を出してもらうように働きかけたりして、幕府から測量の許可を得て、この測量責任者となったのです。昼間は測量、夜はその日のデータ整理と天測という毎日の繰り返しであり、大変にハードな旅であったそうです。

 

忠敬の測量は、基本的に自分の足をメジャーとして使うというものです。「2歩で1間(約1.8メートル)」のペースで歩き続けました。湖など本当に迂回しなくてはならない場所以外は、犬の糞が落ちていようが、多少高い丘があろうが、このペースで歩いていきました。そして、夜空の星と自分が歩いたルートを突き合わせながら、測量を進めていったのです。

 

自分の足だけで測定しては誤差が大きいのでは、という疑問が出そうですが、忠敬も当然それは意識していました。そこで、毎朝何度か歩いてみてまずはチューニングをしたり、場合によっては複数の人間の歩測の平均をとったりしました。結局、忠敬は蝦夷地まで出かけて、緯度1度の距離を28里2分としました。これは現在の実測値と0.1%程度しかずれていません

 

西洋の三角測量に比べると原理的に精度は落ちるはずですが、忠敬の場合は決してそうはならなかったのです。ある意味、日本人のモノ作りに関する匠の技を思い出させるようなエピソードです。

 

この成功で忠敬の名声と信用は高まり、以降は幕府の測量計画を任されることになります。そして第10次測量までの成果は、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」(合計225枚)と「大日本沿海実測録」(14巻)として1821年にまとめられました。ただし忠敬は1818年に死去していて弟子たちが完成させたわけですが、その死は秘密にされ、成果とともに初めて公表されたと言います。「この地図は忠敬の地図でなくてはならない」という弟子たちの思いが伝わってくるようです。

 

ちなみに、正確な額は分かりませんが、忠敬は測量にかなりの私財も投じています。ファーストキャリアで稼いだお金や信用、人望をセカンドキャアの原資として用い、後世に残る仕事をした忠敬の生き方は、現代人の目から見ても「カッコイイ」と言えるのではないでしょうか。 

 

『お金』の本質や資産運用など『お金』に興味を持ったら、まず専門家に相談するのが良いでしょう。

 

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