
私は努力家じゃない派!
本文はここから自然と行うことが出来る行為
を見つけることに関しては努力はしているかもしれないが、
基本的には努力家ではないと、自分自身思う。
何かしらやり始めたことがあったなら、
そのことの終点が必ず最初にある。
ということを私は必ず念頭に置くようにしていて、
その終点を目指すことに対して、
私自身の中で何かしら不自然なものを生み出したりしない限りは、
それは少なくとも私にとって自然で、正しいことであると、判断することにしている。
呼吸を始めたなら、その呼吸には終わりがある。
呼吸に対して何の疑問も、不自然さを感じないから、
私は呼吸し続けている。
誕生こそ消滅の始まりなのだよ
と言ったのは鉄コンの鈴木さんである。
everything that has a begining, has an end
と言ったのはマトリックスの預言者である。
その過程にあって、
続くか続かないかは、
私の中では納得いくかいかないかが大きい。
そして納得いくまで基本的にはやりつづける。
努力をしているような、感覚はあまり無い。
その終点に近づくこと。しか考えない。
それだけ。
私はまだ、私の呼吸に納得いっていない。
その終点に近づくための日々の鍛錬だとか、何かしらを
多くの人は恐らく
努力
と言うのだろうが、
その最中にあってそれを努力と思ってしまった時点で、
その続けている何かしらは継続性を持たないものと判断するべきだと思う節がある。
自分の生活の中に無いことをする、
もしくは自分の怠惰を正す、
という行為を努力と定義してしまうのは、
言葉の本質を見失いかねない見誤りだと思う。
努力が努力で無く、自然になるようなことこそ、
続けるべきなのだ。と思う。
努力をしている自分に満足してしまうようだったら、それまで。
他をあたるべきだと思う。
私は努力家ではない。