田老駅には、13時34分に着いた。駅の階段を下り、地下道を通ると、若い女性が待っていた。スーツケースを転がす私たちを見て、「倭文さんですか?」と話しかけてきた。ツアー客4人というプランだったが、ゆったり座れるようもう1人ガイドを連れてきて、2台で田老を案内した。同じ時間に田老に訪れた女性が現れ、5人で防災ツアーで田老を回ることになった。田老では、駅を降りたその場所から厳しい現実を見せられた。女性の防災ガイド「平井さん」は、駅の目の前に見える雑草が伸びている更地を指さして、「ここには、2011年3月11日まで、旅館、物産店が立ち並んでいました。」と説明した。又、築堤の線路の下には、田老観光センターがあったが、その建物は被災して解体されたと聞いた。これは、津波の被害が町はずれの駅周辺にまで及んだことを物語っている。
私がマークに通訳するということで、私とマークは平井さんの車に、父と母ともう一人の女性は、平井さんの同僚の車に乗ることになった。第一防潮堤に向かう途中、平井さんは、第三防潮堤沿いに植えられていた生き残った松林と震災前野球場だった場所を見せてくれた。
車を降り、第一防潮堤に登った。見渡す限り、2011年3月11日以前より存在していたと思われる建物は数軒ほどしか見当たらなかった。第一防潮堤の背後には、幾つか建物が残っていたらしいが解体され、嵩上げ工事が行われていた。平井さんは、田老町は典型的なリアス式海岸のため、古い時代から大津波を経験したと語り、どうして防潮堤が建設されたかを次のように説明してくれた。
「1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波を経験した住民は、1934年より、石を積み上げ、海抜、海面下を含む高さ10メートルの築堤型の壁を造り始め、戦後石を積み上げてできた壁をコンクリートで固め、1957年に1350メートルに及ぶ防潮堤を築き上げた。その後、第二防潮堤、第三防潮堤が追加され、X字形の防潮堤が完成し、二重にして守る形の防潮堤の長さは、2433メートルに及ぶものだった。」
平井さんは、田老の住民は津波を想定した防災訓練を定期的に行っていたが、巨大な防潮堤ができたことと2005年に田老町が宮古市に合併したことが、防災意識を緩めてしまったことを認めていた。そして、2011年の東日本大震災を次のように話した。
「2011年3月9日にも震度5ぐらいの地震があった。その日は、特に被害は出なかったが、そのことが住民を安心させてしまった。3月11日14時46分に起きた地震は、多くの人々が今まで体験したことがないくらい凄まじい横揺れの地震で5-6分くらい続いていた。もしやと思い、避難した人もいたが、立派な防潮堤があるから、2階にいれば大丈夫だと思い、避難しなかった人が多かった。あいにく、地震後、停電が起こり、住民が聞いていたのは、「津波3メートル」という情報だけで、多くの住民はそれを鵜呑みにしてしまったのだ。
田老では、田老第一中学校の体育館が避難所と指定されていて、地震後、診療所にいた患者を含め300人ほどが避難していた。余震が続く体育館でやきもきした人々は外に出た。海の方角を見た人々は、防潮堤の背後に水しぶきが上がっていることに気づき、体育館に避難していた人々に裏山に避難するように呼びかけた。体育館の背後に裏山に導く歩道があり、障害者を優先させて上に行かせるなどして、300人ほどの住人はかろうじて難を逃れた。
田老で最も被害の大きかった場所は、第二防潮堤とその背後にあった住宅地だ。当時どの水門も閉まっていて音は聴こえない。壁のせいで、多くの住民が地震直後に大きく変化していた海面や第一波到達後に急な速さで上昇している海面など見れなかったのだ。まもなく、第二波が迫ってきた。海の方角を見た住民は、白い煙のようなものが上がっているところを見て、避難し始めた。しかし、第二波はものすごい速さで田老に襲来し、防潮堤を超え、一気に住宅地を呑み込んだ。X字の形をした防潮堤によって跳ね返された波は、第二、第三波で勢いを増し、第二防潮堤を破壊してしまった。第二防潮堤の背後にあった住宅地は、6階建てのたろう観光ホテルを残し、ほぼ跡形もなく流された。その地区から多くの犠牲者が出た。田老町には、2015年現在41人ほどの行方不明者がいるが、その41人は、第二防潮堤の背後に住んでいた人たちだ。」
平井さんは、第一防潮堤とたろう観光ホテルは、震災遺構として残ることが確定し、第一防潮堤と第二防潮堤の背後にあった旧住宅地は、住むことのできない区域となり、田老の住宅地は丘陵地に移転すると言っていた。第一防潮堤の上から道路が見えたが、その付近も嵩上げされ、近年開通したと言っていた。
その後、防潮堤を降り、旧医師住宅へと向かった。途中、破壊された第二防潮堤を見た。石を積み上げて築き上げた第一防潮堤とは裏腹に、第二防潮堤は、砂と砂利が使われ、その上にコンクリートがかぶさってできたものだった。見かけは堅牢でも、中身は頑丈でなかったのだ。
町にあった8割以上の建物が流され、解体された田老町。2015年10月は、あちこちで工事が行われ、平井さんたちは更地の町で限られた道を運転していた。旧医師住宅に着いたとき、母たちを乗せていた車が道に迷い、5-10分遅れて、目的地に到着した。地元の人たちでもどこを走っているのかわからないようだった。
旧医師住宅で、私たちは津波のビデオを見た。一つは、2011年までたろう観光ホテルを経営していた「松本勇毅さん」が撮ったビデオで、もう一つは、田老の住民がテレビ局に送ったものだ。あの日、母と従業員を山に避難させ、松本さんはホテル最上階の6階で津波のビデオを撮った。ビデオは、防潮堤の背後で海が冠水しているところから始まった。彼は、町中を歩いている人に、メガホンで高台に避難するようにと促している。消防車が通る姿も見た。平井さんは、「残念ながら、15時20分ごろ走っていた消防団員はみな殉職した」と教えてくれた。約5分後、沖合から現れた巨大津波は、防潮堤を超え、わずか数秒で市内を呑み込んだ。たろう観光ホテル周辺もすぐに海のようになり、住宅地は消えた。気が付いてみると、水はすぐそこまで来ていた。松本さんは、ショックのあまり、いったんビデオを回すのをストップしたようだった。1分後、ビデオを回し始め、徐々に水が引くところと残骸が埋まる住宅地を撮っていた。
平井さんは、締めくくりに、「田老は『防災の町』と称され、防災教育に取り組んでいましたが、東日本大震災で181人もの犠牲者を出してしまいました。海の近くにいて強い地震や長い時間の揺れを感じたらすぐに高いところに避難し、警報が注意報に解除されるまで海岸に近づいたり、自宅に戻ったりしないようにしよう」と津波から命を守る方法を話した。
平井さんは、私たちと一緒に田老を回った女性を田老駅に連れていき、私たちをたろう庵へと連れて行ってくれた。平井さんは、3月11日、車で走行中津波に追われ、車を乗り捨て、かろうじて山に避難した。しかし、あの日に出会った人々や消防団員は2度と生還せず、遺体すら発見されていない。自ら経験したことを生かして、防災ガイドを行っていると言っていた。
